Biting Angle

アニメ・マンガ・ホビーのゆるい話題と、SFとか美術のすこしマジメな感想など。

切り裂きジャックで世界を解く-『フロム・ヘル』読了

2009年10月22日 | アラン・ムーア関連
“象徴には力があるのだ、ネトリー・・・・・・おまえの胃袋をもひっくり返す力がな・・・・・・
 ・・・・・・あるいはこの星に住まう者半分を奴隷にする力が。”
(上巻第四章23p ガル博士の台詞より)



アラン・ムーア作/エディ・キャンベル画『フロム・ヘル』を読了。

これまで『ウォッチメン』こそアラン・ムーアの頂点と思ってたけど、その認識は
本書によって書き換えられてしまいました。

『ウォッチメン』がある意味で“究極の正義とは何か?”を考察した作品とするなら、
『フロム・ヘル』のほうは“究極の悪とは何か?”を追求した作品とも言えるでしょう。
どっちが上かということにさほど意味はないけれど、少なくとも『ウォッチメン』にガツンと
打ちのめされた人なら、『フロム・ヘル』に失望させられることはないと思います。
ただし語り口の重層性や世界観の複雑さ、そして舞台の馴染みのなさは前者以上。
読者は自らが物語を解剖するかのように作品の中へと分け入り、目指すお宝となる
物語のキモを掴み取らなくてはなりません。

実際はいくつもの登場人物の視点が絡み合う複雑な物語なのですが、本作の主題と
なっている「ホワイトチャペル連続殺人」に沿って物語を要約すると、こんな感じになります。

“一人の王子の軽はずみな《お遊び》が、母である英国女王ヴィクトリアの介入を招いた。
 彼女の意を受けた英国フリーメイソンのメンバーである王室付き医師、サー・ウィリアム・ガルは、
 闇夜にまぎれて王子の過ちを知る娼婦たちを次々と殺していく。

 しかしその裏には、ガル博士のみが理解できる異様な論理に基づいた計画があった。
 古代の秘儀に尋常ならぬ関心を持ちつつ、メーソンの儀式すら形骸として軽んじる
 ガル博士は、今回の殺人を利用して大いなる魔術を企んでいたのである。
 
 魔都ロンドンを巨大な祭壇として行われたこの魔術の狙いこそ、“この地に刻みこまれた
 旧き女性原理の力と記憶を抑えこみ、女権的母系社会から男たちが奪い取った権力を
 未来に渡って維持し続ける”というものであった。
 ガル博士はこれによって“社会の進歩と理性を守り、原初的な力の復活と人類の堕落を
 防ぐことができる”と考えたのである。

 儀式的殺人と様々な儀礼を駆使した象徴操作に基づき、ガル博士の魔術は完遂される。
 古代から存在する神聖な職業である娼婦たちは、その生贄として最もふさわしい存在であると
 考えられたのだ。
 そして猟奇的かつ外科的に正確な手法で殺された女性が発見された瞬間、この世界に
 「切り裂きジャック」と呼ばれることになる“恐怖と悪の英雄”が産み落とされた。
 
 新たなる伝説の出現に混乱し興奮する人々を尻目に、ガルの計画は着々と進行していく。
 やがて彼が5番目の犠牲者を手に掛け、儀式的かつ科学的な手順で解剖を進めていくと、
 その眼前にこれまで見たこともない光景が出現するのであった・・・。”

どう考えても狂人の誇大妄想である異常な物語なんだけど、それを持てる限りの知識と
強い信念によって正当化していくガル博士の姿は、異様なまでの冷静さと使命感に溢れ、
ある種の高貴さや凛々しさすら感じさせます。
この気高さと強さ、そして薀蓄たっぷりの語り口によって、読者は彼の思考に翻弄され、
いつしかその言葉を真実として解釈するようになってしまうのです。

多重の網目によって観衆を幻惑しその心を捉えてしまうという手腕こそ、ある意味では
本作の持つ魔力だと言えるでしょう。
そしてこれを成し遂げた『フロム・ヘル』という作品自体が、作者アラン・ムーアにより
構築され、エディ・キャンベルの画によって実践された大いなる魔術であるとも思えます。

その一方、ムーア自らがガルの魔術を“完全な作り物”として指摘していることについても
きちんと触れておくべきでしょう。
作中でガルが最初の殺人を犯す夜、海を超えたオーストリアでは一組の夫婦が夜の営みに
精を出す様子が描かれているのですが、この時に懐胎して翌年の4月に生まれる赤子こそ、
やがて20世紀最大の殺人者にして最も悪名高きトリックスターとなるアドルフ・ヒトラーです。



これは切り裂きジャックとヒトラーの誕生を重ね合わせることによって、時間と空間を超えた
悪の連続性を示す試みなのですが、裏を返せばヒトラーの犯した罪を思い起こさせることで、
ガルの詭弁性とそれに踊らされることの愚かさを指摘していると読めなくもありません。
このように、虚構と真実が互いを飲み込む入れ子構造として全体を組み上げているところが
『フロム・ヘル』という作品における最大の特徴であり、ある意味では本書に仕掛けられた
最大のトリックであるとも言えそうです。

嘘が真実を語り、真実が嘘を呼び込む。それらのせめぎあいと重なり合いによって、
我々が知覚している“世界”の姿が形成されているというのが、全ての真相なのでしょう。
そんな世界のあり方を「切り裂きジャック事件」という“特異現象”を通じて暴き出し、さらに
グラフィックノべルという形式によって再構築して見せた『フロム・ヘル』という作品について、
訳者の柳下毅一郎氏が「アラン・ムーアはコミックで世界を解いて見せた」と評したのは、
実に的を射た表現だったと思います。

そして本書における最大の謎である、第14章の23pについて。
これについては作中の伏線とムーアによる補遺の中で、ほとんど答えが出されていると思います。
ただしメアリー・ケリーが赤毛のアイルランド出身者であること、彼女にも何らかの
予知めいた力が見られることなどから、彼女自身が“ガルの最も恐れていた”とされる
旧き魔女たちの血を受け継ぐ者である可能性についても、一応は指摘しておくべきでしょう。
もしそうだとすれば、ガルが企てた呪術は最後に大きな失態を犯したことになります。

さらに言うなら、ムーアは精緻に組み立てられた『フロム・ヘル』という作品によって、
「作り事を真実にする」魔術を実践し、それによって“もう一つの現実”を構築した上で、
その中で切り裂きジャック自身をも出し抜いて見せたのではないでしょうか。
殺人事件の過程を緻密に検証していく一方で、不可知論を逆手にとって事件そのものを
無意味化させるという離れ業は、フィクションだからこそ可能となる魔術でしょう。

“わたしは全部でっちあげた。でも、そいつは全部本当になった。
 そこだよ、可笑しいのは。”
(上巻プロローグ5p 心霊術師リーズの台詞より)

アラン・ムーアは世界を解き、さらにそれを書き換えようとしたのではないか。
ホワイトチャペル連続殺人の犠牲者たちに捧げられた冒頭の献辞と『フロム・ヘル』の物語を
重ね合わせて考えるとき、私にはそう思えてなりません。

『ウォッチメン』を精密極まりない大時計とすれば、『フロム・ヘル』はその大時計をも
内包する、巨大な構築物に例えられそうです。
“切り裂きジャックの出現が、結局はヒトラーの誕生と第二次世界大戦を招いた”とすれば、
その後に続くアメリカの繁栄と冷戦の時代も、結局「ジャックの建てた家」なわけですし、
その時代を描いた『ウォッチメン』も、やはりジャックの落とし子になるわけですから。

華麗さや派手さを抑えつつ、絶妙なバランスでしっかりと立ち上がった物語の尖塔こそ、
本書『フロム・ヘル』の姿です。
だから石の一つ、柱の一本ばかりを見ることなかれ。塔の高さと影の大きさを知ってこそ、
はじめて各部の石積みの精緻さを理解できるのですから。

そういえば例えだけでなく『フロム・ヘル』にはロンドンの建築物がいくつも登場し、
作中において極めて重要な意味を与えられています。
殺人評論家にして東大工学部建築学科の出身である柳下氏は、本書にとってまさに
最高の翻訳者であったと言えるでしょう。
巻末のあとがきも作者ムーアを知る上で極めて重要な資料であり、作品に対する
的確な批評ともなっています。

・・・他にも書きたいことが山ほどあるんだけど、うまくまとまんないなぁ。
なにしろいろんなこと考えさせられすぎ。あれはあーじゃないかこーじゃないかと
細かいとこまで思い返すと、もうキリがありません。
(でもそれがメチャクチャ楽しいんですが。)

たとえば上巻最後のコマでジョーとメアリーの手の形がメーソンのシンボルを描いており
その後の運命を暗示してるとか、終盤で登場するガルの頭部がギュスターヴ・モローによる
『出現』の洗礼者ヨハネの首によく似てるとか、気になる部分はまだまだあります。



こういった“石積み”の部分については、今後も気づき次第ツッコもうかなと思ってます。

そういえば先日の記事で取り上げたホガースの『残酷の4段階』の、しかも『残酷の報酬』が
作中で取り上げられていたのには、ちょっとビビりました。
この作品がつい先ごろまで日本で見られたとは、なんたるシンクロニシティ。

最後になりますが、装丁について少々。
これを手がけた高島由紀子氏については情報がありませんが、これまで世界中で出された
『フロム・ヘル』の中で、最も美しくかつ優れた装丁ではないかと思います。

特に下巻の装丁、作中のクライマックスを示唆するヤカンの画と血のりを思わせる配色は
読んだ後に表紙を見て「なるほど!」と膝を打つ素晴らしいもの。

アートに関心の高いムーアがこの表紙を見てどう感じるか、一度聞いてみたいものです。
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