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ハビヤンから貝原益軒へ 01 日本教の継承者誕生 01 伝統的日本人=日本教徒で育った環境 

2024-07-22 04:00:00 | 日本教から脱出するにはどうするのか
ハビヤンが考えた「自然(じねん)は、ある種の「脱宗教」であり、

数百年を経ても現代日本に息づいています。

ハビヤンは反キリスト思想に寝返ってから脱宗教化を形成し、

「自然哲学」を体系化していきました。

しかし、完成せずに亡くなりましたが、

そこに継承者として貝原益軒(注・01)が登場します。

貝原の著作は多岐に渡りますが、中でも日本教を民衆に広め、

今日まで日本教の息吹を残した著作が「大和俗訓」

他には教育書として、

・養生訓

・和俗童子

・五常訓

・家道訓

など85歳まで書き続けたのです。

中でも「大和俗訓」は貝原益軒の日本教思想の総括集といえます。

貝原はハビヤンのような波瀾万丈の歩みではなく、

黒田藩主・黒田如水(注・02)に仕えた官僚でした。

貝原の父親は、武士ではなく、文官であったようで

「父は儒教を尊び、異端魔術(この中にはキリスト教も含んでいたよう)

嫌い、仏教も信じなかった。」とあり、

脱仏教、脱キリスト教であり、儒教は一応、理解はしたといえます。

そして文学も軽んじたというのでいわゆる思想には

全く興味がない伝統的日本人=日本教徒であり、

そのような環境で貝原は育ったのです。


貝原益軒(注・01)
(かいばら えきけん、1630年12月17日 - 1714年10月5日))は、江戸時代の本草学者(現代で言う薬学者)、儒学者。 50年間に多くの著述を残し、経学、医学、民俗、歴史、地理、教育などの分野で先駆者的業績を挙げた。筑前国(現在の福岡県)福岡藩士、黒田藩の祐筆であった貝原寛斎の五男として生まれる。1648年、18歳で福岡藩に仕えたが、1650年、2代藩主黒田忠之の怒りに触れ、7年間の浪人生活を送ることとなる。1656年27歳、3代藩主光之に許され、藩医として帰藩。翌年、藩費による京都留学で本草学や朱子学等を学ぶ。このころ木下順庵、山崎闇斎、松永尺五、向井元升、黒川道祐らと交友を深める。また、同藩の宮崎安貞が来訪した。7年間の留学の後、1664年35歳の時、帰藩し、150石の知行を得、藩内での朱子学の講義や、朝鮮通信使への対応を任され、また佐賀藩との境界問題の解決に奔走するなど重責を担った。40歳のとき4代藩主黒田綱政から荒津東浜に屋敷を与えられ、生涯の住まいとした。藩命により『黒田家譜』を編纂。また、益軒の上申から黒田藩が1688年(元禄元年)に『筑前国続風土記』の編纂を認めている。1699年、70歳で役を退き著述業に専念。著書は1712年に上梓した『養生訓』を始め、生涯に60部270余巻に及ぶ。退役後も藩内を隈なく巡検して『筑前国続風土記』の編纂を続け、1703年に藩主に献上している。(ウィキ)

黒田如水(注・02)
黒田 孝高(くろだ よしたか、旧字体:黑田 孝高)は、播磨国の姫路生まれで戦国時代から江戸時代初期にかけての武将・軍師。キリシタン大名でもあった(洗礼名はドン・シメオン)。戦国の三英傑のうち、織田家(羽柴秀吉の重臣として)、豊臣家に重用され、筑前国福岡藩祖となる。(1546年12月22日-1547年1月1日)。改名:小寺万吉(幼名)、祐隆、孝隆、黒田孝高、如水円清(法名)主君:小寺政職→織田信長→豊臣秀吉→秀頼→徳川家康 (ウィキ)

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