マンションのペットライフ

限られた空間で、いかにして“家族”がまあまあ暮らせるか・・・、ない知恵絞っていこうと思います。

涙がぼろぼろ

2005年04月10日 | えとせとら
最近、ほんのわずかだけど、自分の中で変化したことがある。

話は娘が保育園卒園のカウントダウンが始まったくらいに
さかのぼる。
卒園式、保護者の出し物を何にするかで話し合い、
“世界がひとつになるまで”の歌を手話ですることになった。
その時は、まさか、その曲を耳にするたび、涙がこぼれることに
なろうとは夢にも思っていなかった。
その頃、やはり、私は今の職場にいたが、事務所と法務局を
往復するだけの毎日だったりした。
今でこそ友達もできて、法務局の方々にもとてもよくして
いただいているが、当時の法務局は“特殊”な所で迂闊に
何か言おうものなら、“ここを普通の役場みたいに思って
もらってはこまる”と威圧的な態度をとられるような場所だった。
それでも法務局には仕事なので、毎日必ず足を運んでいた。
そんな日が続いていたあの日、息子と保育園でいっしょだった
子のお母さんとばったり再会した。

「元気~?こんなところであえるなんて!」と彼女は微笑んだ。
当時いかにして、法務局の人たちと無難にやりすごすか、
それだけを考えていた毎日だったので、彼女との法務局での
再会は私にとって“ひだまり”をみつけたような、感動的な
ひとこまだった。
思い起こせば息子の保育園時代は、姑との同居で
疲れ果てていた日々だった。
毎日がつらくって悲しくって惨めで、嫌で嫌で、
泣かなかった日なんて1日もなかった。
そんな日々を支えてくれた一つに保育園のお母さん達との
他愛のないおしゃべりがあった。
お母さん達は本当に優しかった、暖かかった、
そして逞しくって強かった。
そんなわけで彼女との再会は私にとって特別なものだった。
私にとっておしゃべり仲間は“恩人”で、
“戦友”みたいな、そんな感覚だったのかもしれない。

短い時間ながらもいろんな話をした。
「仕事がらみでここ(法務局)にくるように
なったのよ、まさか会えるなんてうれしい~!」
と、彼女は言ってくれた。
実際、彼女とはすぐまた数日後法務局で再会した。
「やだあ、毎日来てるんだ~!」BY彼女。
「いやあ、専用机がほしいと思ってるくらいさ。」BY私。
そんなやりとりをしたんだと思う。

どん底に落ちたのはそれから数日後のことだった。

仕事でちゃりを走らせていたら、同じく息子の保育園時代
仲のよかった、お母さんとばったり出会った。
「○○さんのこと、ショックだったね。」と彼女は言った。
「○○さん、誰のこと?」
私には誰のことだかさっぱりわからなかった。
正直なところ、マンモス保育園だった事情もあり、
同じクラスでなければ顔と名前が一致しなかったのだ。
たいてい、“○○ちゃんのお母さん”とお互い呼び合って
いたので、同じクラスでなければ姓字がわからなかったりした。
「Yちゃんのお母さんよ。知らない?」
「Yちゃん、どのクラスだった子?」
そんなやり取りをしたんだと思う。
そのままその友人と別れた後、なにかすっきりしない
気持ちを抱えて帰路についた。

家に帰ってから、卒園用に撮った子供たちの写真と名簿を
見比べ、「あ~!」と思わず叫んでしまった。
あわてて、卒園してからも親しくさせてもらっている
友人に電話をかけた。
「ねえ、Yちゃんの妙字、知ってる?でさ、」
と、私が知っているYちゃんのお母さんの特徴をひとしきり話した。
私の問いに友人はか細い声で答えた。
「○○さんの事をきいてる?もしかして・・・。」
いつもの彼女らしくない受け答えだった。
「今日、△さんが“ショックだった”っていってたけど、
なにかあったの?実は何日か前に会ったばかりなんだけど。」
と、法務局で会った話をすると、彼女は電話の向うで泣き出した。

「亡くなったのよ・・・。」

間抜けな話である。
保育園時代、毎日のように挨拶を交わしたりおしゃべりしたり
していたのに、私は、彼女と彼女のお子さんの正確な妙字と名前を
知らなかったのだ。

それからしばらくの間、頭の中が真っ白な状態が続いた。
“何かの思い違いをしている、きっとそうだ、そうだんだ。”
何度もそうつぶやきながら、法務局に足を運ぶたび、彼女の姿を探した。
みつからないたび、
“きっとすれ違いになったんだ”
そう思い込もうとしていた。
数日後、知らせを受けるのが遅れて、お通夜に出られなかった友人と
“亡くなった”と聞かされた、“Yちゃんのお母さん”に
お線香をあげさせてもらうことになった。
“実はぜんぜん知らない人だったら、笑えないオチだよな。”
などと、馬鹿なことを考えながらお宅に上がらせてもらい、
遺影を見たとき、真っ白だった頭の中は更に色がなくなった。
どっと涙が溢れ出し、とまらなくなった。
間違いも、勘違いも、ドジもオチもなかった。
法務局で再会したYちゃんのママには、もう会えないんだと
いう事実を受け入れるしかなかった。

ちょうどその時期、娘の卒園式の保護者の出し物、
“世界がひとつになるまで”の練習がはじまった。
歌詞のひとつひとつが、私の息子と同じ歳である、
残された彼女のお子さんと重なり、胸がしめつけられるような
思いだった。
“Yちゃんには、もう、手をつないでいてくれる
お母さんが手の届かない所にいってしまった・・・”
たまらなくつらかった、ほんとうに悲しかった。
身内の方々の悲しみを思えば、私はこんなに悲しんでは
いけないんだと、何回も何回も自分にいい聞かせたりしたが、
“世界がひとつになるまで”を一人で口ずさむと、なぜか
涙がどっとあふれるようになっていた。

「あれからどれくらい経った?」
先日、コンビ二の前で、ばったり保育園時代の
お母さん達と会い、井戸端会議で一人がぼそりといった。
すぐにYちゃんのお母さんの事だとわかった。
「いまだにショックから抜け出せない。」
みんな一同に頷いた。

私の娘は、Yちゃんがお母さんを亡くした時と同じ年齢になった。
Yちゃんは、お母さんの容態がおかしくなって自分で救急車を
呼んだという話をきいていた。
もし、私と娘2人だけで私が倒れたら娘は救急車を呼べるのだろうかと、
そんなこと考えたりした。
Yちゃんはお通夜でも、お葬式でも一切泣かなかったという・・・。
どんな気持ちだったのだろう、今はどうしているんだろう。
気になって気になって仕方がない。
息子とは違う学校だけれど、なにかしてあげられたらと、
ずっと思っている。
でも、なにもしてあげられない事実を自覚していたりする。
ずっとずっと思い出すたび涙にくれた。
そんな感慨にふけっている時、1人がいった。
「私いまだに誰のことなのか、わかってないのよね。」
え?と、みんなで顔を見合わせてしまった。
はたと、思った。
もし、法務局で彼女と再会してなかったら、私もきっと
亡くなったと連絡をもらっても、誰のことか
わからなかっただろう。

会えてよかった、ほんのわずかな時間だったけど
おしゃべりできてよかった、笑顔で別れられてよかった

まだ、思い出すと涙がとまらないけれど、
少しだけ自分の中で一歩思いが前進できた
ような気がした。


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