東京郊外のベッドタウンの小さな駅を降り、携帯に表示させた地図を見ながら、僕は友人宅を目指していた。
その少し前、電車の中で携帯がなり、留守電が入っていた。先ほどホームで確認すると、目指す家の友人からだった。
「ちょっと出るから、家で待っていてくれ。玄関を入って突き当たりがリビングだから。鍵は開けておく」
予め連絡しておいた到着予定時間の20分ほど前だ。コンビニにでも行くのだろう、そう思った。
大学時代の友人、熊谷仁から携帯に電話があったのは数日前、オフィスで帰り支度をしている時だった。今度の休みに家に遊びに来いと誘われた。彼の奥さんが会いたいと。
彼には二人の娘さんがいる。一人は就職して独り暮らしをしているし、大学生の下の娘さんはテニスサークルの合宿に行っているとのことだった。
久しぶりに彼と会いたいと思ったので、行くと返事をした。
だが、数日前になって、奥さんの都合が悪くなったと連絡があった。友達から旅行に誘われ、どうしても断れなかったらしい。延期しようかとも考えたが、二人で飲もうということになった。
熊谷の奥さんはなかなかの美人で、仁より五歳ほど年下だ。会いたかったなと内心思っていた。何度か僕は彼の奥さんと妻と四人で食事をしたことがある。だが、彼の家に行くのは初めてだった。
目的地は、ほとんど迷わず到着した。通りから少し入った袋小路の突き当たり。よく整備された閑静な住宅街である。表札を確認し、門から敷地内へと足を入れた。建て売り住宅だろうか、その一角は統一された洒落たデザインの家が並んでいる。二坪ほどの庭にはよく刈り込まれた芝、いくつかの観葉植物の中には赤いハイビスカスが咲いている。庭の横の駐車場にはレンジローバーが停められてある。仁は銀行の支店長だ。自分の安月給とは違うだろうなと、苦笑いしながら玄関のドアを開けた。
西向きの玄関から夕陽が差し込み中を照らし出す。
誰もいない他人の家に上がり込むのは少し妙な気持ちだ。靴を脱ぎ、廊下をゆっくりと歩く。左右に濃い色の木製ドアがいくつかある。突き当たりのガラス張りのドアを開けて中へ入ると、そこは15畳ほどのフローリングのリビングになっていた。左手奥がカウンターキッチン、向かいの東側に二つ、右手南側に一つ、それぞれガラス戸があり、レースのカーテンが掛けられてある。照明が点いていたが、昼間は照明がなくても充分明るい部屋だろうと思われた。空調が利いていて気持ちがいい。
右手に置かれてあるソファーに僕は腰を下ろした。目の前のガラス製のテーブルにはすでにオードブルのセットが用意されてある。スーパーで買ってきたもののようだった。
その横に仁のものらしい携帯が置かれてあり、さらにその横には、これも彼のものらしい財布が置かれてあった。
変だなと僕は思った。
仁が出掛けた先はコンビニではないのだろうか。コンビニへ行ったのなら携帯はともかく財布は持って出るだろう。
しばらく、ソファーに腰かけたまま、汗を乾かしていた。
すぐに戻るようなことを言っていたが、仁はなかなか戻って来ない。
手持無沙汰になったので辺りを見回す。マガジンラックに新聞を見つけて読み始めた。
密閉されているせいか部屋は静かである。主人のいなくなった部屋の音はエアコンの音と自分が新聞をめくる音だけだ。
一つの記事を読み終える度に時計を見る。
かれこれ1時間ほど経っただろうか?
少し遅すぎる、仁は何をしているのだろう?
携帯に電話をしようかとも考えたが、余り意味はないように思われる。仁の携帯は彼の目の前にあるからだ。
それでも、僕はショルダーから携帯を取りだし、仁の携帯を呼び出してみた。
目の前の携帯が鳴り始めたので、呼び出しをやめて自分の携帯を再びショルダーに放り込んだ。
出掛けたのは本当に近所なのだろうか。あるいは何か用が出来て、少し遠くまで出掛けたのではないだろうか?
それにしては携帯や財布は置いたままなのだ。
僕は立ち上がり、玄関へ向かう。置かれてある靴を確認する。
仁のものらしいサンダルはある。女性もののサンダルも2足置かれてある。奥さんや娘さん用のものだろう。
あとは僕が履いてきたウォーキングシューズがある。
仁はサンダルではなく、スニーカーなどを履いて出掛けたのだろうか。であれば、少し遠くまで行ったことになる。
リビングのソファーに戻り、再び腰を下ろした。
段々腹が立ってきた。人を呼んでおいて、この扱いはないだろう。それとも、少し出掛けるつもりが、すぐに戻れない事情でも出来たのだろうか?
その事情を僕に伝えようとしても、仁は携帯を持って行ってないし、公衆電話で連絡しようにも財布すら持って行ってないのだ。
仕方がない、もうしばらく待つか。
だが、その後、さらに1時間ほど経っても彼は戻らない。
陽はとっぷりと暮れ、レースのカーテンの外は青い闇に包まれていた。
腹が減ってきた。
テーブルのオードブルの横には取り皿と割りばしの用意もある。冷蔵庫を開けると、ちゃんと缶ビールも冷やされていた。
少しためらったが、取り皿に鶏の唐揚げやウィンナー、野菜の煮物などを乗せてパクつき始めた。ビールの缶も開け、他人の家で勝手に一人だけで酒盛りを始めた。
これだけ待ったのだから、仁も責めることはないだろう。
気を紛らわせるために、テレビを点けたが内容に集中することはできなかった。
時計を見る。
もう帰ろうかとも考えたが、この家の鍵を開けたままにするわけにはいかなかった。
妻に泊まってくることになるかもしれないとは話していたが、泊まることになる場合は電話を入れることになっていた。
ショルダーから携帯を取り出し、自宅に電話をして妻に状況を説明した。高校生の一人息子は相変わらず勉強しないで、ゲームばかりしていると伝えてきた。
「あ、それと」
妻は大切なことを思い出したように言葉を続けた。
「昼間銀行に行ったんだけど、熊谷さんから振り込みがあったわよ、あれ何?」
「え?仁から?」
「知らないの?」
「うん、いくら?」
「10万円」
「何だろう?後で訊いてみるよ」
携帯を切った。
仁から振り込み?何だろう?
記憶をたどったが、全く心当たりはなかった。
仁がどこへ出掛けたのか、そして何故大金を振り込んできたのか。家の中に何か手掛かりがないだろうか。手掛かりなどあるとは思えなかったが、不安感がこみ上げ、じっと座っているのが少し苦痛になってきていた。
階段の照明を点けて二階へ上がった。部屋は三つある。悪いとは思ったが、端からドアを開けていく。二部屋は娘さんの部屋、残りは寝室のようだった。中央にダブルベッドが置かれてあるが、枕は一つ、二人分の頭が並べられる大きさではない。夫婦は別々に寝ているのだろうか?
僕は階段を降り、リビングの横にある和室を覗く。
部屋の隅に布団が畳んで置かれてあった。仁が使っているものだろう。
『いっしょに飲んでたことにしておいてくれ』
仁からは、よくそんなメールが届く。
『わかった、でもほどほどに』
決まって僕はそう打ってメールを返信した。
「いつも飲みに付き合わせてすいません」
妻と仁と奥さんの4人での食事の席上、仁の奥さんからそう言われると少し心が痛んだ。
仁からの振り込みは浮気の口止め料だろうか。だが、そんな仲ではないはずだった。
リビングに戻りソファーに腰掛けた。
とにかく今は仁がどこへ行ったのかが気がかりで仕方がない。
僕はここへ来るまでの記憶をたどっていた。
仁から携帯に留守電が入ったのが電車の中。
駅で再生したときは気付かなかったが、仁の声以外に何か録音されてないだろうか…
駅のような騒音の中では聞き漏らした音があるかもしれない。
再びショルダーから携帯を取り出し、仁からの留守電を再生して耳をすます。
「ちょっと出るから、家で待っていてくれ。玄関を入って突き当たりがリビングだから。鍵は開けておく」
それだけの短い内容だが、仁の声の後ろで声以外の音が聞こえる。
最初の音は玄関のドアの音だ。
その次の音、僕は何度も繰り返し再生した。
留守電が終わる直前の音、それは車のドアを開ける音に似ていた。車でどこかへ行くつもりで乗り込んだのだろうか?
だが、車は駐車場に停めてある。故障でもしていたのだろうか?
車が故障していて徒歩で出掛け、事故にでも巻き込まれたのだろうか。
もしそうなら、病院なり警察なりから連絡があるはずである。もしかしたら意識もないほどの重体なのだろうか。
それを確かめてみようと考えた。
携帯で妻に電話をする。
仁の家の場所を告げ、最寄りの警察署と消防署の電話番号をパソコンで調べて欲しいと頼んだ。
すぐに折り返し電話があり、警察署と消防署の番号を伝えてきた。
警察署の場所は案外近くらしい。
一旦電話を切り、まずは警察署の番号を押す。
どこの課に問い合わせていいのか分からなかったので電話を取った相手に数時間以内に管内で事故がなかったかどうかを尋ねた。
一旦保留にされたあと、そのような事故の報告はないと告げられた。
礼を言って電話を切る。
事故はない。少しほっとしたが、警察も把握していないような事件に巻き込まれた可能性はある。
それはどんな事件が考えられるだろうか。
誰かに襲われて、まだ発見されていないとか。
襲われたとしたらいったいどこで?
路上であればすぐに発見されるはずである。
消防署にも電話を入れるが、救急車の出動はないと告げられた。
あるいは路上以外の場所で何か事件に巻きこまれたのだろうか。
留守電の音から判断すると仁は車に乗ろうとしていた。しかも、車に乗り込むまでは携帯を手にしていた。なぜ、携帯はリビングに戻されていたのだろうか?
そして、なぜ車に乗って出かける必要があったのだろうか。
仁はすぐに戻ると話していた。それほど遠くへ行くつもりはなかったはずである。
どこへいくつもりだったのだろう。車ですぐに行って戻れる距離の場所、例えば駅。
誰かを迎えに行くつもりだったのだろうか。車が使えなくて、徒歩で駅に誰かを迎えに行ったとしても、あまりにも時間がかかり過ぎている。
もし駅に行ったとしたら、誰が待っていたのだろう…
もしかしたら、奥さん…
何かの都合で旅行が中止になって戻ってきたのだろうか。
電話があり、迎えに行こうとしたが、車が故障していた。
その場合は迎えに行けないと電話をすれば済む。奥さんは徒歩か、荷物があるのであればタクシーを使えばいいはずである。
だが、2時間経っても誰も戻らないのである。
彼の奥さんに連絡してみようと考えた。何かわかるかもしれない。
仁の携帯を手にして、アドレス帳から奥さんの名前を探す。
見つけた番号に掛けてみた。
だが、相手は出ない。
しつこく鳴らすが、それでも相手は出なかった。やがてあきらめてテーブルに戻す。
テーブル上のリモコンを操作してテレビの電源を切った。
とてもテレビを観る気にはなれない。その時、ガラス戸の向こうに人影を見たような気がした。レースのカーテンの向こうはすでに真っ暗で外の様子は確認できないが、人が動いたような気がしたのだ。
恐る恐るカーテンを開けてみる。隣の家の壁が見え、その間は低い塀があり、数メートル幅の敷地がある。
人影らしきものは見えなかった。
ガラス戸の鍵が掛かっていることを確認した。
何だろう、家の周りを誰かがうろついているのだろうか。
玄関へ行き、ドアチェーンをしてからドアを開けて辺りを伺う。異常はなさそうだ。
ドアを閉めようとして、ふとレンジローバーを見る。街灯がフロントガラスを照らしている。
ん!?
あるものを見つけて、僕はドアチェーンを外し、ドアを開けて車に近づいた。
ガラスに付いていたのは、靴あとだった。どうやら付いているのは内側のようだ。
駐車場までは庭を横切るので、靴に土が着く。それが、何故かフロントガラスに付着している。
駐車場は生い茂った植木に囲まれ、枝がアコーデオンゲートの上からせり出しており、外からは見えにくい。
フロントガラスにどうして靴あとが付くのだろうか。
わざと付けるようなことは考えられない。
フロントガラスに靴あとが付く状況をあれこれと考えてみる。
一か所だけでなく、数か所、しかもかなり乱雑な付着の仕方だ。
まるで誰かと揉み合ったような・・・
揉み合う? 車の中で?
靴あとも気になったが、車の中にもっと気になるものを見つけた。
だんだん目が暗さに慣れてきていた。荷物室にブランケットがあり、何かを覆っている。
ブランケットの中身、その形は…
人だ!
車のドアを開けようとしたが、鍵がかけられていた。
僕はこめかみに汗が伝わるのを感じていた。暑さのせいだけでなない。
急いで家の中へ戻り、車のキーを探す。玄関、リビング、和室、そして寝室まで探したがキーはどこにもない。仕方なくリビングに戻ってきた。
車のガラスを割って中を確認するべきだろうか。
仁の身に深刻な事態が起こったことはもう疑いようがない。
最悪の事態の予感、僕は頭の中でそれを否定しうる可能性を祈るような気持ちで探っていた。だが、楽天的な僕の思考回路を総動員しても、悲観的な最悪の予想を払拭することはすでに困難だと思われた。
警察に電話をしようかと考えたが、ある事実に気付き、僕は呆然とした。
客観的に考えて、加害者として最も可能性が高いと思われる人間、それは自分自身である。加害者の条件を満たすための環境はある意志によって創作されたもののように思われる。
携帯がリビングに戻されていたのも、万が一携帯が車の中で鳴り、発見されるのが困るからだ
仁からの振込みも、状況証拠を作り出すための一要素である可能性もあるのだ。
誰が、何のために…
今後の行動の選択如何では、もしかしたら僕の人生は大きく狂う可能性もある。
激しい喉の渇きを感じていた。
リビングにある家の電話が鳴り始めた。
考えをまとめる余裕もなく、心臓が高鳴るのを抑えることができずにいた。
ためらってから、彼はコードレスホンの受話器を取った。
電話の向こうで女の声がした。
「もしもし、お久しぶり」仁の奥さんからだ。
「こちらこそご無沙汰しています」しぼりだすように答える。
「主人から連絡があって、戻れなくなったそうです。申し訳ありませんが、今日はお引き取り願いますか」
彼女は僕を追い出そうとしている。追い出した後、何をするつもりだろうか。
僕は、ある確信をもっていた。奥さんが仁を…
少し間をおいてから答える。
「奥さん、今何処にいるんですか?近くにいるんじゃないですか?」
相手も少し間をおいてから答えた。
「いいえ、今那須に来ています」
本当だろうか。
駅から仁に電話をしたのは奥さんではないのだろうかと考えていたが、駅にいなくても電話で呼び出すことは可能である。
彼女が那須にいることが本当だとすれば、彼女に殺人の疑いがかかることは回避できる。
「そうか、アリバイを作っている訳ですね」
実行犯は別にいる。さっきの人影か。
「何のことかしら」
「車の中にあるのは仁の死体ですか?」
「冗談はやめて下さい」
「僕が到着する直前に仁を呼び出したでしょう」
女の反応を待つが、沈黙は破られなかった。
「仁が車で出掛けようとしたとき、恐らく後ろから首を絞められた。」
僕は、自分の推理をあえてぶつけてみることにした。
「後部座席に誰か潜んでいたんじゃないですか」
僕はショルダーを手にし、中から自分の携帯を取り出していた。
「俺に罪をなすりつけるつもりか?」
女はまだ黙っている。
僕に罪をなすりつけるために、どんな細工をするのだろう。
だが、彼女が仁を殺す動機が不明である。
会話から、それを探るしかなかった。
「俺が帰ったあと、死体をリビングに置いて、あたかも俺の犯行に見せかけようとした。違いますか?」
「考え過ぎですよ」
「金の振り込みは、仁との間にトラブルがあったように見せかけるためだね、でもトラブルなんか何もないよ」
いくら警察が僕を疑っても、動機を探すのは困難だと思われた。
僕と仁の間にはトラブルなどは存在しないはずだ。
「あの人、浮気してるの。ご存知でしょ、よくアリバイ作りに協力してたでしょ」
「知ってたんですか」
「もちろんよ」
自分が犯人に仕立て上げられる理由が何となくわかってきた。
「だから、殺したのか」
だが、そんなことで殺害を考えるとはとうてい思えない。今まで苦楽をともにしてきた仁を殺さなければならない理由はそれ以外にもあるように思われた。
僕は取り出した携帯でメールを打ち始めていた。
「そのことで俺が仁を脅し、金を巻き上げたという話をでっち上げようということか」
その後、言い争いになり、僕が仁を殺す。そういう筋書きだろう。
「こっちにいる男は誰だ?」
人影の性別はわからなかったが、男の首を絞めて殺すのは女には無理だと思えた。
「もうお引き取り下さい」
だが、彼女の愛人であることは容易に想像がつく。
僕がしびれを切らして帰ったあと、死体を家に運び込み、仁と僕が言い争いになりリビングで仁の首を絞めて殺したという状況をその男が作り出すことになっているのだろう。
奥さんは旅行中だし、真っ先に疑われるのは僕だということは明白だった。
「戻っているから車で迎えに来てと言って仁を呼び出したのか?」
彼女は答えない。
電話の向こうで、微かに笑っているように感じられた。ここまで事実を暴かれているのに、この余裕はなんだろう…
その時、玄関のドアが開いた。
しまった!
玄関に鍵を掛けてなかった。
死体を見つけられた以上、あとは僕を殺し、仁殺害後、自殺したように見せかける。
そう、計画を変更しても不思議ではなかった。
「さようなら」
意味深なニュアンスの言葉を残し女は電話を切る。
玄関から入ってきた男の手にはナイフが握られていた。
ゆっくりと廊下を進み、突き当たりのリビングのドアを開ける。
僕は向かいのガラス戸を開けて、外へ出ようとしていた。
だが、戸は開かない。
「さっき、外から細工をした。戸は開かないよ。」
男が言った。
いつの間にか、サッシ用の開閉ストッパーが外から取り付けてあった。
僕は逃げるのをあきらめ、反撃する方法を考えた。武器になりそうなものはキッチンにある。だが、キッチンは男の向こう側だ。
ナイフが僕に向けられる。
僕はガラステーブルの下に手をかけ、男めがけて思い切りひっくり返した。
男が怯んだ隙に、廊下へ飛び出し、玄関に向かって走った。
だが、玄関ドアには鍵がかけられ、ドアチェーンまでしてあった。急いでチェーンを外し、鍵を開けたところで、顔に冷たいものを感じ、手を止めた。
ナイフが頬に当てられていた。
「おとなしくしろ」
腕を捕まれ、リビングへ連れていかれる。
玄関を血で汚すのは得策でないと考えたようである。
リビングで自殺したように見せかけたいのか。
抵抗したが、男の力は強い。
万事休す。
そう思ったときにサイレンの音がした。
男は手を緩めた。
サイレンの音は大きくなり、家の前で止まった。やがてドアが激しくノックされる。
「お巡りさん、こっちです!」
僕は大声で叫んでいた。
仁の遺体は青い収納袋に入れられ、運ばれて行った。
夜の住宅街の一角は赤色灯を点けた車が何台か停まり、警察関係者があわただしく動き回っていた。
僕は、仁の奥さんとの電話中に妻にメールをして、警察に連絡するように頼んだ。
「ありがとう、危機一髪だったよ」
「よかったね」
携帯の向こうで、妻のほっとした声が帰ってきた。
「これから警察で取り調べだよ」
「犯人の男は誰だったの?」
「恐らく仁の奥さんの愛人だと思う」
「恐いね」
愛人と共謀して、夫を殺害し、それを友人の犯行に見せかける。
全く恐い話だ。
仁の奥さんはやがて捕まるだろうが、二人の娘さんが不憫である。
刑事が娘に連絡を取り、父親の死を伝えていたが、二人はこのあともっと残酷な事実を知らされることになる。
刑事に呼ばれた僕は携帯をしまって、パトカーに乗り込んだ。いつの間にか野次馬が集まっていた。
あとで判ったことだが、奥さんは、友人と二人でほんとうに旅行をしていた。
その後の証言によると、浮気をやめない仁をいつしか憎悪するようになっていたそうである。愛人の男は、交際するためには仁が邪魔だと考え、二人で仁の殺害を計画した。
真夏の前の少し涼しさを感じる夜のことだった。