まあどうにかなるさ

日記やコラム、創作、写真などをほぼ週刊でアップしています。

クロスケの家

2012-05-28 22:52:26 | プチ観光名所



所沢は宮崎駿のアニメ映画『となりのトトロ』の舞台となった場所である。
市郊外には『トトロの森』と名付けられた雑木林が何箇所か残されており、『トトロふるさと基金』により管理されている。
森を守る活動の拠点としているのが『クロスケの家』
古民家をほぼそのまま使用し、一般にも公開している。
我が家からは自転車圏内。
入場は無料だけど、寄付金を入れる募金箱が置かれてある。
交通の便が悪く、駐車場もないけれど、多くの観光客で賑わっていて、みんな家の中で弁当を広げている。
敷地内の蔵が博物館のようになっていて、トトロのミニチュアなどが展示されている。
古い家は落ち着くので大好き。さすがに宿泊は出来ないけど、古民家を残す動きがあるのはいい事だと思う。
今度は弁当持参で来たいなあ~





金言

2012-05-20 20:46:50 | ちょっといい話
ラジオで金言特集をやっていたので気になった言葉をいくつか紹介する。
●努力する人は希望を語り、怠ける人は不満を語る。
 ⇒畑正憲の言葉。説得力がある。
●人生で最も重要なのは本人の納得である。
 ⇒めちゃくちゃぶ男と結婚した美女も、本人が納得していればそれでいい。
●旅行に必要なのは大きなカバンではなく、口ずさめる一つの歌である。
 ⇒ムーミンに登場するスナフキンの言葉。一度言ってみたい。
●強い方が勝つのではなく、勝った方が強いのである。
●賞味期限切れてからが勝負なり。
 ⇒年齢を重ねた人へのメッセージ、人生に賞味期限はない。
●胸をはれ、手痛く負けた時ほど胸をはれ。
 ⇒出典は忘れたけど、とってもいい言葉だ。
●男はタフでなくては生きていけない。優しくなくては生きていく資格はない。
●弱気は最大の敵。
●恩は石に刻み、憎しみは川に流せ。
 ⇒こういう生き方をしたいものです。
●名言は好きだが名言を言おうとする奴は嫌いだ。
 ⇒タモリが言ってたらしい。その通りかも。
●悪い事は時間が解決してくれる。
僕は特に座右の銘はないけれども、
『まあ、どうにかなるさ』
その一言でたいがいの苦難を乗り切ってきたように思う。


携帯没収

2012-05-13 20:06:06 | 日記
息子の学校は携帯電話の持ち込みは禁止されている。
先日、駅で携帯を使っている所を音楽の先生に見つかり、没収されてしまった。
没収されたものは担任に回される。
規則では2週間は担任の先生が預かる事になっているらしい。
ところが、先生によって対応が違ってくるそうだ。
本来携帯を学校に持って来ても構わないと考えている先生は、すぐに返してくれるけど、持って来るべきでないと考えている先生はきっちり2週間戻って来ない。
息子の担任は後者の方である。
妻は、どうせなら、中間試験後まで預かってくれた方がいいと話していた。
確かに、最近、息子はメールを頻繁に使う。
誰としているのか知らないが、家にいてもかなり長い時間、携帯を触っている。
金額も増えてきたので、定額をオーバーした半分を小遣いから天引きすることにしたが、パケット料金の最高額が設定されているプランのためか、息子は平然とメールを続ける。
半額ではなく、オーバー分は全額負担させればよかった。
メールは僕自身も使うので、ほどほどにしろとは言えるが、使うなとは言えない。
仕事でも、電話よりメールの方が多いと思う。仕事ではパソコンだが。
若いビジネスマンは携帯へも頻繁にメールを送って来る。
僕の世代は少し違和感がある。
若い頃にはなかったツールだからだろうなあ。


真田太平記

2012-05-07 19:39:00 | 書評
前から読みたいと思っていた池波正太郎著『真田太平記』全12巻
先日読み終えた。
よく出来た時代小説だと思う。なかなか痛快である。
ただ、忍びの話しが中心なので歴史小説としてはどうだろう。
勿論、真田家の話しの部分に史実と違うことは書かれていないはずである。
織田徳川連合軍により武田家が亡ぼされるところから、この長い物語は始まる。
武田配下の真田家はこのときより、苦難の路を歩み始める。
真田昌幸は秀吉には好意を持つが家康に対しては最後まで敵対することになる。
多くの歴史小説は徳川家康を描く場合、たいがいは良く描くか悪く描くかであるが、この小説はフラットに描かれているのが興味深い。
僕は天下を取った人間より、天下を取れそうで取れなかった武田信玄や伊達政宗のような男にたまらなく魅力を感じる。
そして、天下人に一泡ふかせたような真田幸村のような男も大好きである。
真田幸村が若い頃、人質として上杉の家老、直江兼続の元に預けられ、多大な影響を受けたと言われているが、この小説ではほとんど触れていない。どうも池波正太郎は直江兼続をかっていないようである。
関ヶ原のおり、兄の信之は東側に、父の昌幸と弟の幸村は西側に味方する。
徳川秀忠率いる主力軍を昌幸幸村父子は上田城に引き付け、関ヶ原の決戦に遅らさしめている。
それでも西軍は敗北し、二人は和歌山九度山に押し込められる。
やがて、父の昌幸は亡くなり、大坂冬の陣において真田幸村は、その名を一躍有名にする働きをするのである。幸村は、大坂城唯一の弱点である南側に真田丸と名付けられた砦を築き、そこに篭って、関東側を散々に打ち破る。
簡単に大阪城を落とせぬとみた家康は、和議を結び、堀を埋め立てさせるのである。
半年後の夏の陣において、家康は、裸城となった大坂城を再び包囲する。
この時も幸村は手勢を率い、囲みを破って家康のいる陣へ襲い掛かるのである。
家康は、もはやこれまでと思い、腹を切ろうとしたと記録にある。
幸村の突撃がいかに凄まじかったかを物語っている。
天下人徳川家康を震え上がらせた男として幸村は歴史に名を残すことになる。
幕府は真田家の取り潰しを謀るが、幸村の兄信之は九万石を守りぬき、維新を迎えるのである。
さすがの家康も関ヶ原で敗北した薩長によって三百年後に幕府が滅ぼされようとは夢にも思わなかっただろうと思う。
幸村もあの世で、さぞ意外な心持ちで維新を眺めていたにちがいない。