まあどうにかなるさ

日記やコラム、創作、写真などをほぼ週刊でアップしています。

無印良品

2012-03-29 19:50:45 | 日記


写真のボロボロのシャツは、もう10年以上着ている。
無印良品の長袖のTシャツ。
さすがにこの状態では外には着て行けないのでパジャマとして着ている。
僕はTシャツなど、くたびれて外出着として着れなくなると、パジャマにしてしまう。
「いい加減棄てれば」よく言われる。
でも、こんなにボロボロになっても何となく愛着があってなかなか棄てられない。襟以外は傷んでないし。
僕は割とモノが棄てられない性格。対して妻は容赦なく棄てるタイプ。
母もモノがなかなか棄てられない性格で、タオルなどボロボロになるまで使っていた。
息子もモノが棄てられない性格だけど、モノを大切にするというより、取捨選択の判断がなかなか出来ないという感じ。
僕は無印良品が好きで、服を探すときはたいがい最初に無印良品へ行く。
休日などは着ている服の7割くらい無印良品ということも多い。


一年前のこと

2012-03-11 23:06:14 | 日記
一年前の震災のあった日、僕自身もそれなりの経験をした。
被災地で被害に遭った方々に比べれば大した経験ではないので、詳しく書くことも何となく憚られたけど、一年後の今、改めてその日とその後の出来事を書いておこうと思う。
地震のあった時間、僕は池袋のデパートの地下にいた。
仕事の空き時間を利用して、ホワイトデーのプレゼントをあれこれ見ていたときだった。
地下はそれほど揺れないと言われていたが、それでも強い揺れを感じ、まずは天井を見て、落ちてくるものがないかどうかを確認した。
揺れは立っていられないほどというわけではなかった。
しばらくして、デパートの建物はこのくらいの揺れでは倒壊しないので安心して下さいという館内放送が流れた。
ところが、放送とは矛盾して、店員は速やかに建物から出て下さいと、客を誘導し始めた。
僕も、外へ追い出された。
外へ出て、しばらくすると強い余震があり、ビルが揺れるのを見て、大変な事態になったことを実感した。
携帯電話で自宅や会社に連絡を取ろうとしたが、何度試しても繋がらない。
大丈夫か?という内容のメールを自宅に送ったが、あとで判ったことだけど、届いたのは何時間も経ってからだった。ワンセグで震源地や東京の震度などは把握することができたが、そのときはまだ、津波の被害のことは全く報道していなかった。
公衆電話を探し、地下鉄の構内へ行くと、すでに電話の前は長い列が出来ている。列に並び、順番が来ると、自宅と会社、それにこのあと約束のあったクライアントに電話を入れた。家族に怪我はないようだったので少しほっとする。
地下鉄やJR、私鉄に至る鉄道は全て運休となっていた。
そのときはまだ、しばらくすれば運行する可能性もあるということだったので、地下鉄構内で適当な場所を見つけ、持っていた雑誌を座布団代わりにして座り込んだ。
外が薄暗くなった頃、本日中に、復旧の見込みがないとの放送がある。
徒歩で移動するしかない。
池袋から自宅のある所沢へ歩くよりは、会社のある飯田橋の方がはるかに近い。
今夜は事務所で一泊する覚悟を決め、池袋から歩き始める。
幹線道路はどこも渋滞しており、歩道には歩行者が一杯で、早く歩くのは困難な状況だった。
小腹が空いてきたので、コンビニへ入るが、食料品は見事なくらい売り切れ。
会社への道すがら、コンビニを見つけるたびに中へ入って食料品コーナーを覗くが、なかなか食べ物は残っていない。何軒かの店で、チョコパイを見つけ、それを購入する。
マクドナルドや吉野家などのチェーン店は全て閉店していた。
一時間半ほど歩き、事務所へたどり着く。
着いたときは、7時近く。
事務所には5人ほどが残っているだけで、あとは徒歩にて帰宅したという。といってもわが社は20人ほどの小さな会社である。遠くまで営業に行っていて、帰れなくなり、ラブホテルに泊まった人もいた。
みんなテレビを観ていて、僕はそのとき初めて被災地での津波の被害を知った。
しばらくして、食事をしようと、やっている飲食店を探しに数人で外へ出る。
裏通りにあるラーメン屋が開いていたのでそこで腹ごしらえをして、コンビニでビールを買い、事務所に戻る。
テレビ局は全て災害時の特別放送の切り替えられており、津波の映像が繰り返し流されていた。
11時を過ぎた頃、僕が通勤で使う西武線が運行を開始したと放送されていた。すでに地下鉄も動いていたので、帰宅することにした。
地下鉄で池袋へ行き、そこから西武線に乗る。
帰宅したのは2時過ぎだったけど、事務所に泊まるよりははるかにいい。
その日、息子は学校に泊まったようだった。先生から連絡があり、パンの缶詰を食べて、教室でみんなと寝袋に寝たとのことだった。
我が家では停電はしていなかったが、停電した家庭もあり、ずい分経ってから津波の映像を見た人も多かったという。
次の土曜日は、スーパーから食料品がほとんど無くなっていた。米やパン、インスタント食品の棚は空っぽ。生鮮野菜も品薄だった。
幸い、妻が地震直後に米を買いに行ってくれていた。
ガソリンスタンドも極端に品薄状態で、営業しているスタンドは長い列ができていた。
やがて、首都圏は電力不足であることをニュースで伝え始める。
首都圏でほんとうに困ったのは電力不足による影響だった。
地震のあった次の週、鉄道は極端に間引き運転をしていた。
僕が利用する西武線では、その日のダイヤは前日の夜にならないと発表されない。
火曜日の帰宅時、僕の住む駅まで行く電車が、5時くらいに終わってしまうため、会社を早退して帰宅した。
ところが、予定の時間より早く、列車は途中の練馬までしか行かないダイヤに切り替わっていた。
11時過ぎには、僕の住む最寄り駅の一つ前まで電車は動いたのだが、夕方の時点では駅員もそれは判らなかった。練馬から自宅のある所沢まで歩くことになった。
自宅までの道順は、ある程度頭に入っていたので、スーツに革靴という格好で幹線道路をひたすら歩いて我が家に向かう。同じように歩いて帰宅するサラリーマンの姿を多く見かけ、大変なのは、自分だけではないと思い、少し気は楽だった。
途中までは、平気だったけど、家に着く1時間ほど前からマメができて、かなり歩行は辛くなった。でも、絆創膏を貼って頑張った。
5時間ほど歩き、自宅に到着した。マメさえできなければ、意外に歩けるものだと思う。
首都圏では23区以外は計画停電があり、毎日2時間から4時間ほど電気がストップする。僕の住む地区も計画停電が予定されていたが、何故か一度も停電になることはなかった。
理由はよく判らないけど、所沢にある米軍の通信基地が関係しているとか、西武線の変電所が近くにあるせいだとか、いろいろ噂はされていたが、本当の所は判らない。
自宅が一度も停電しなかったことはラッキーだけど、不公平な感じがして、少し納得いかない気持ちは残った。
浜松の実家の両親や、妹、親戚や地方に住む友人からお見舞いのメールをたくさんいただいた。
普段あまり会うことができない友人から、米でも送ろうか、とメールをもらったときは本当に嬉しかった。
僕が経験したことは、被災地の方々に比べればどうと言うことのないことだと思う。
でも、みんなの善意はとても励ましになった。
僕が勤める会社の事務所が入るビルは築50年ほどの古いビルで、地震のあとは壁の至る所にヒビができた。
うちの事務所の隣に建築設計事務所が入っていた。
地震からしばらくして、隣の建築設計事務所の方がヒビを見せてくださいとやってきた。
少しヒビが多すぎるのだと言う。
その後、ビルのオーナーは壁の上から塗装をして、ヒビは目立たないようにした。
でも、中の躯体にはヒビは残ったままのはずである。
何と、隣の建築設計事務所は早々に他所へ引越して行った。
だ、大丈夫だろうか? このビル…
やがて、ビルのオーナー会社から、耐震補強工事をする旨の連絡がある。
今でも耐震工事は続いていて、うちの事務所の窓の内側にはエックス字状の鉄骨が組まれている。
窓の鉄骨を見ると、震災のことを考えてしまうことがある。
多くの人々にとってまだ震災は終わっていない。
震災直後に観たテレビで、津波に飲み込まれ、幼い娘の手を離してしまった母親のことを報道していた。
母親は助かったが、娘さんは亡くなった。
お母さんのせいではないよ。
周りは、みんなそう言うだろう。
でも、その母親はおそらく一生自分を責めるに違いない。
あの母親はどうしているだろう?
悲しみが消えることはないかもしれない。
こんなに科学が発達して、英知のある人類なのに、どうして人は悲しみを消す術を知らないのだろうと思う。
どうして悲しみと共に生きていかなければならないのだろうか。
震災で亡くなられた方々のご冥福と、そして、家族や友人を亡くされた方々が一日でも早く元気を取り戻すように心からお祈りします。


コンバースデビュー

2012-03-05 18:58:49 | 日記

先日の日曜日、息子が原宿に買い物に行って来た。部活の友達何人かで行って来たという事だった。
息子は原宿は初めて。
僕が初めて原宿へ行ったのは高校のとき。当時住んでいた浜松から友達数人と東京へ遊びに行った。
当時、表参道は歩行者天国になっており、しゃれたブティックが連なり、けやき並木が続く表参道は新鮮な驚きだった。
息子はこの街をどんな風に感じただろう。
今では歩行者天国はなくなっている。
昔は竹の子族が流行っていたけど、当然息子はそんなことは知らない。
息子はシャツを二枚と黒のローカットのコンバースを買って来た。
定番中の定番スニーカー。
そういえば、僕が初めてコンバースを買ったのも息子くらいのときか少し上くらいのときだったと思う。
息子は4千円で買って来たらしいが僕が買ったときは5千円以上した。
「何でこんな高い靴買うてくるねん」
父に叱られた記憶がある。
当時コンバースは高価なブランド品だった。
確か紺のローカットを買ったのだったと思う。
ハイカットがかっこよかったけど、面倒そうだったのでローカットにした。
映画『ロッキー』の中で朝のジョギングに行くとき、コンバースを履いていたのを覚えている。
それにしても、少し前まで息子は着る服など無頓着だったけど、最近は色気が出てきたのか、なかなか気に入る服が見つからない。
店も何軒か回るようになった。
それは、僕にも覚えがある。
10代後半から20代前半くらいまではやたら流行りのファッションを意識する。
仕方がないことかもしれないけど、しばらくは服代かかるんだろうなあ~