バリ記 

英語関係の執筆の合間に「バリ滞在記」を掲載。今は「英語指導のコツ」が終了し、合間に「バリ島滞在記」を連載。

どうしようもない

2019-11-22 12:07:05 | 日記
昔会社で作ったCDリピーター用の教材。中でもぼくが書いたもの。音声はCDR盤である程度残っていた。ところが教材はもう焼いてしまったのか、事務所をいくら探しても、家を探しても出てこない。前にチラッと見た記憶があるので、どこかにあるのだろうと思っていた。が、ない。音源はソニーのCDリピーターがない限りかからない。しかし優れたソフトがあって、PCに取り込むことができるようになった。これを作るにもスタジオで、英語圏人とでたいへんだったのだ。教材があれば、合わせてそれで資産となる。まだどこかに隠れているかも知れない。
 22年前は知的財産権を資産勘定することはできなかった。現在ではそれを株にして資本にすることもできる。この点でも世の中は変わった。
 資産と言えば、土地、家屋。空き家が増えてどうしようもない状況である。家を昔建てたり、買った人も、たいへんである。子供が家に住むというのなら引き継いでいけばよいが、住まないとなれば壊すお金も用意しておかないと子供らに迷惑をかけることになる。大迷惑と考える人も少ないだろうが、それにしても200万円くらいは解体にかかる。その家と土地を売れればよいが、そうはうまく今の世はいかない。この前、テレビで200万円付きで家を一万円で買ってほしい、という人がいた。200万円払ってでも手放したいのだ。そこに様々な思い出も詰まっていることだろうが、平成、令和と不動産は都会の一部を除いて下がりっぱなしである。思い出もくそもない。手放さなきゃ、維持管理、税金がかかる。台風でも来ようものなら近所に迷惑かけないか心配もする。
 政府が旗降って「マイホームを」とずっと言ってきたが、このザマである。
 鎌倉時代に「家も持つな、何も持つな、早くあの世に行こう」と一遍上人が村々を旅してまわり、人に説いた。日本では数年前「断捨離」が流行った。
 細君と話して、まず実家のものとぼくの家のものをゴミに出して捨てていこうか、ということになり、検分して捨てていくことにした。MDプレイヤーなどもう要らない。ハンドタイプのVHSビデオプレイヤーもカメラも要らない。食器も衣類もどんどん捨てていくことにした。3年ほど続ければ相当なくなるのではないか。
 さて最後には家をどうするかの問題がある。どちらもずいぶん傷んでいる。津波も来る。どうしようもない。

英語指導のコツ23 3つのS Sの文化

2019-11-22 10:32:27 | 私の英語講習
1971年に三省堂が「表音小英和」という、ポケットサイズで字が小さい辞書を出した。1991年に修訂されたたものをぼくは持っている。これはまず単語の読み方の規則が最初に載っていて、以下その規則に従って、辞書の構成となっている。ところが発音記号はない。それは最初の規則に書いてある。パソコンでぼくは表記できないので、もどかしいが、foot の oo と food の oo は音が違う。これをはっきりさせるために oo の上にー
があれば 「ウー」と伸びる。小さくU のような印があれば 「ウッ」と読むという印である。
 2ページにわたって読み方の印の紹介がされていて、英語の読み書きの煩雑さを無くしている。おそらく印刷される英語の文字がこのように変われば学習しやすいだろうという思いから作られたのだろうと思う。三省堂編集所にも改革をなそうとする人たちがいたのだ。1971年当時は海外からも絶賛されたらしい。続いて1980年、1991年と修訂がなされ、その後はどうなっているのかぼくは知らない。ぼくは片岡義男のエッセイの中でこの辞書も知ったと記憶している。記憶違いかもしれない。

  3つの S 
  個の文化を感じる S

 今回は S についてお話です。英語って S が大好きな言語です。そして、英語を習い始めたときに厄介なのが S なのです。
 こどもたちは日本語の世界になれきっていて、日本語以外の言葉を知らないという環境にいます。文化の背景が違っているところからでてくる発想というのは初め誰でも戸惑うものです。
 他にもありますよ。そのうちのひとつが S なのです。
例えば、
      I play tennis.
      Tom plays tennis.
      He plays baseball, too.
      Sue plays tennis

 Sがでてきますね。play にs がついてるのが今回の S の問題です。
英語というのは、自分と他者一人とを完全に区別して考えるのです。
不思議なほどにです。別に Tom play tennis. でいいだろう、とだれでも思
うはずなのです。習い始めの頃はそんなことは考えずに先生に言われるまま、そんな疑問すら浮かばなかったなあ。そういえばそうだよね。

「三人称単数・現在形」って習いました。今でもそんな風に教えているのでしょうか。
 自分と話し相手(you だよね)以外の人について話す時は動詞にs をつけるのが鉄則なのです。個人ひとりについて言っているのかいないのか、意識するのです。意識は強いのですね。はっきり区別しています。区別というよりも合図をだして「第三者の個人のことを言ってるよ」と言っています。
これほど第三者に s をつけてこだわるのはそれなりの理由がありそうです。 どう思います?
 なんでだろう、と思いますよね。ここにいない個人のことを話しているのだから、いない人をたててるのでしょうか。
 たてているのか、見下げているのか、それはわからないけれど。確かに言えるのは第三者の個人は対等である、それとそれゆえの距離感ですね。それが英語の基本姿勢です。 英語はその点はわきまえるのです。自分も他人もごっちゃにしないのです。はっきり区別する。そうすることによって人は平等なんだ、という考え方ですね。自分も他人もいっしょくたにしない。個として言語としても自立させる。適度な距離感をもつのです。

日本人が「彼」という言葉を使うようになったのは明治に入ってからです。
この第三者を表す代名詞というのは、日本の小学生もまだ「彼」は 使えません。この言葉を使うようになるにはまだ時間がかかります。「さきちゃん」というほうがなんとなく親しみやすいのです。それを「彼女」というとちょっと距離をおいて客観視しているようなところがあります。だから英語の 「he=彼」も s も、感じとしては日本語の「太郎君」よりも距離感が違います。

 ベタベタしていないところがあります。 まあ、sはそんなことを含んだ文字ですね。
 sにそんな深い理由があるのかあ、と思うかもしれませんが、これは私が思っている、私の意見です。
 「彼や彼女」という言葉は新しい言葉です。中学生でも日常は使いませんよ。
「おまえ彼女いるのかよ」という時に使うのがせいぜいで、「それは恋人という意味合いです。歴史上でもこの言葉を使うようになるまで時間がかかったはずです。でなければ相当人間について考えられたはずです。神とつながるのに、個人個人はみな平等であるというキリスト教の思想からきているのか、もっと前のギリシャ哲学からきているのか私にはわかりませんが、長い歴史の中で言語が醸成されていったのでしょう。
    
 英語の S 好きの次の例を挙げます。 S は ふたつ以上の名詞につけます。 a pen  pens というふうにです。ひとつだったら a pen 二つだったら pens と pen のあとに s がつきます。
1つか2つ以上かはきっちり区別をする。これも不思議です。日本語にはありません。

 まだ s の特別扱いはまだあります。
  hers, theirs, its, ours, yours  という「~のもの」
 自分のものか他人のものか、だれの物かというときも mine をのぞいては
 みんな s で終わります。「トムのもの」 という場合には Tom’s と ‘s
(アポストロフィーS)をつけます。

 英語が今の英語になっていく途中「自分と他人、1コと2コ以上、だれのものか」という観念がとても強く働いた時期があったのでしょう。そこに共通してみえるのは「個」ということです。
 人間は「個」と「個」の結びつきです。その関係のしかたが最も重要なことです。関係のしかたで心が病む場合も、楽しい場合も、恋をしてしまうのも人間の関係性です。その意識の高さが言葉に表れていると思います。
  s は 英語ではたいへんなキーワードです。
  今回はちょっと文化の話になってしまいました。大人の方に読んでもらっているのですから釈迦に説法かもしれません。でも英語を学習する上で通過 しなければならないところであり、異文化の言語を学ぶ一番のおもしろさでもあります。こんな体験をして母国語とは違う言語を獲得して知らなかった世界を知り、視野や広げ、考えを深めることができるのです。
なんとなく主語が三人称単数の時には動詞に s をつける、なんておぼえてもそれは理解にはなりません。
 だから S の使い方は中学1年生で習うますが、一番躓くところでもあります。理由を習っていたら躓くことはありません。