バリ記 

英語関係の執筆の合間に「バリ滞在記」を掲載。今は「英語指導のコツ」が終了し、合間に「バリ島滞在記」を連載。

バリ記34 社会性の世界 / 意志

2020-01-16 10:53:12 | バリ記
2000年6月25日
《社会性》の世界

 個人の世界と共同の世界、この世界をこのように分類することができる。共同の世界は、さらに各個人との関係性の世界だと言うこともできる。
 「家」というものを考えた場合、それは共同的な世界であり各個人は、父と子、母と子、兄弟というような関係性のなかで縛られている。
 「家」を場所としてみた場合、台所は、家族の関係性の世界であり、夫婦の部屋は夫婦という関係性の部屋であるが、それらは、外、つまり第三者にはあまり開かれていない。個室は完全な個人の世界である。第三者に開かれた、つまり社会性がある場所といえば、玄関、トイレ、応接間、時には居間である。「家」は共同の世界でありながら、その中には、内側に閉じる世界があったり、外に開く世界がある。
 近所に人がいなくて、親が人付き合いもあまりないという場合、親と子の社会性はどのように養われるのだろう。
唯一、第三者を意識して、せっせと片付けをしたり、掃除したりする。トイレや玄関も第三者を気にせず、好き勝手に置き雑然としている、家族という関係性だけの場所として使っているのなら、子供の社会性は養われていくとは思えない。
 社会性を身につけるために学校にいくのであるが、それまでに何らかの社会性がしみのようにでもついていなければ学校に拒否反応が起こったり、学校での人間とうまくやっていけず、心の病気になっていくのは想像できるような気がする。
 人間は、個人の世界の中ではいくらでも妄想を膨らませることができる。どんなイメージを描こうが勝手である。ところが、これは不思議なのだが、この妄想は個人の部屋の中ではいくらでもできるし、寝転んでボヤッとテレビを見ているとき、学校の自分の机にすわっている授業中ならどれだけでもできるのに、二人や三人、グループでいる時、公園などを歩いている時などは、妄想は起きにくいのである。
 つまり《社会性》の中にいる時には《妄想》は起きにくいのである。
 さて、バリの話。バリの人々は、家も隣近所も互いに開かれている。個人の部屋というものがない。いつも近所のものも出入りする。つまり、《社会性》だけの社会であると言ってもよい。かろうじて夫婦という関係性の部屋があるといったところだ。
 バリの人々は、人付き合いも上手に思えるし、喧嘩をすること、大声で怒鳴ることを嫌う。
 従って妄想の度合いが少ないように思える。歪んだ妄想のような世界が少ないと思えるのは絵を見てもわかる。病的な絵がない。
 個人の妄想の度合いが少ないかわりに共同の妄想が多い。悪魔やら霊やら妖怪みたいなのが多い。  
 病気も共同の妄想の原因や結果であったりする。
 日本はいつの間にか、いじいじした神経症的な人の多い国となった。
 バリ島は、今後どう進むのだろうか。そして、日本人は、次の時代の理想をどのようにイメージするのだろうか。


2000年7月2日
意志

 石をひたすら削り、四角形のものを作り、壁に貼り込めていく作業。床のテラゾーをひたすら磨き上げていく人、ガラスを接着させ、積み上げ、隙間の汚れをとる人、鉄パイプ等で枠組みや支え棒をセットする人、飯を売りに来るおばさん。もっと詳しく言えば、新婚ホヤホヤで六時になったらいつもいなくなる左官屋の大将。やらなくちゃと思っていそうな人、疲れた疲れた、腹減ったをくり返している人。工事現場は、バリ風に遅れつつ、ちょっとづつ進行している。
料理チームは、新しいレシピが多いのにややとまどいながらも、シェフに才能があるため、予定通りにスケジュールをこなしている。
 日本チームとオーストラリアチームが加わり、昨日からはウエイターやウエイトレスのトレーニングもスタートした。
レストランを作るというのは、実に楽しいだろうとは思っていたが、こうまで楽しいとは思っていなかった。
自分の世界をレストランに閉じ込めるわけにはいかない。いろいろな好みをもった人がいて、それらトータルの平均値として「客が来る」ことが決定する。
 始まりからレストラン開始まで三ヶ月。バリ島というものが集中して現れる。世界の中でのバリ島も、内としてのバリ島も政治、経済、日常的な生活、宗教、システムすべてがこの三ヶ月に凝集されていて、僕はその中で指揮をとるわけだから、なかなか刺戟的である。
 最も感じたことは、おそらくアメリカ人が日本人を見る時、皆同じ顔に見えて、みんな同じような考え方をもって何かのっぺらぼうとしたイメージを持つのではないかと思っていた。
 バリの人々は、その点で言えば、さらにのっぺらぼうとしている。悪い意味ではない。前にもここで書いたが、個人の生活というものがほとんどなく、共同体の中で生きる彼らは個人の意志をも共同体に預けたり、意志=共同体の意志であったり、恋人ができても、すぐに村に連れていったりと個人、家族、村の境界がほとんどないようなのだ。だから、強烈な個性というものが現れにくい。個性がある、ないは「幸福」には関係ないように思われる。
 こまかいことをもうひとつ。バリ島の人々の動作のゆっくりさである。彼らは、エネルギーの消耗を動物的な感覚でコントロールしているのである。
 身体を早く動かせば、汗をかく、エネルギーを消費する、タオルやハンカチもいる。彼らの身体の計算能力がこの風土に適応しているだけの話である。
 これを無視して、日本人の尺度でやろうとすれば、必ずコントロール不能になるだろう。
今日は日曜日。朝から爽やかな天気である。庭のブーゲンビリアが陽を受けて美しい。その背景にある空の色もまた美しく、バリ島では一番良い季節だ。



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