バリ記 

英語関係の執筆の合間に「バリ滞在記」を掲載。今は「英語指導のコツ」が終了し、合間に「バリ島滞在記」を連載。

バリ記36 「食」ふたたび / バリの風邪

2020-01-18 11:03:40 | バリ記
2000年7月9日
「食」ふたたび

 「食」についてもう少し考察してみたい。
おそらく「食」は「食文化」とも言われるから、経済的な豊かさと相関しているのだろう。
僕も含めて、日本人と言うのは何でも良く食べる人々である。日本料理はいうに及ばず、どこの料理もどのような料理のしかたをも、あまり拒否せず、どのような食材にも取り入れ方が早い。
 自分で調節の出来る選択消費のお金が増えたからそうなった、とは単に思えない。
明治期、日本が近代化してゆく過程でも、今のバリ島より外国人は断然少なかったと思うが、洋食を取り入れ、日本料理もさらに高度に発達していったように思える。
 飛躍させて想像してみる。我々の遠い記憶である。今から一万年も前、海流に乗ってポリネシアやインドネシアやフィリピンの人々が日本列島に漂着する。やしの実が遠き島より漂着するのと同じだ。あるいは、中国の南の海岸辺りからも日本列島に入ってくる。おそらくきっと朝鮮半島からも、ロシアの方からも入って来たに違いない。
 この日本列島は、天皇制が成立する以前、かなりの人種、民族が混り合う、地球上の最終的な場所のひとつだったのかも知れない。日本人の顔は、純粋に顔だけ見れば、ロシア、モンゴルあたりから南、西はヨーロッパを除いてトルコ-アジアのどこにでもいるような顔をしている。
 どのような食材をも食べようとするのは、もちろん、食材が保存できる季節、できない季節などの風土がその基礎的条件としてあるだろうが、遠い記憶のせいなのではないだろうかと想像したりする。
日本列島の東は太平洋。このファーイーストでいろんな民族が混りあった時代があったと考えたら、我々日本人はインターナショナルな視点をつかむことができる。
 遠い記憶が研究されればおもしろい。

2000年7月13日
バリの風邪

 エステ・デ・マッサで一人、咳をゴホゴホしているスタッフがいた。次の日には三人になり、その次の日は、五人になり、また次の日にはグランブルーに移り、僕を含め、アキちゃん、バーキャプテンのプジャナと感染していった。
まるで、小学校や中学校の集団感染である。風邪のウィルスの伝染力、その早さに驚いている。
この経験で、バリ人がどうしてボレという各種スパイスを粉にして、体に塗るのかわかるような気がする。微妙な気温、湿度に身体が敏感なのだ。日本でだったら毛布もう一枚というところだが、こちらでは暑すぎ、その差が微妙すぎるのである。
僕は、真夜中に咳で苦しみ、味覚がなくなり、人への感染を恐れ、あと十七日でオープンの「グランブルー」への影響を恐れている。
 世界でも、バリ島でしか見れないガラスのレストランができる。ガラスはバリ・ガラスという海の色をしたようなものだ。それが、陽の光によって、煌き、輝き移ろう。夜は、ライトで一定に光を出すが、人の動きによってガラスが反射する。
英語名のキャッチコピーを「Reflections of the Deep」とした。日本語キャッチコピーは「海に似た感情」と決め、一斉にガルーダ誌やホテルに置かれる雑誌などに広告を出した。
 世界中の人に楽しんでもうらおうとメニューも斬新をきわめ、驚き、舌鼓をうつものばかりである。
 たぶん、一見、一味に値するレストランになると思う。
 この日記を読んでいる方に、ひとつタクシーの安い乗り方を伝授したい。グランブルーに来てもらう為にである。
 空色のタクシー(バリ・タクシー)がこれまで良心的メーター料金でやっていて、断然、日本人に好まれていたのだが、白色、オレンジ、紺色のタクシーもメーターを持っている。だが、これらのタクシーは人を見て、メーターのスイッチを押さないのだ。しかしである。「メーター」といえば、たいていはスイッチを入れる。これは、必ず言って欲しい。
 さて、タクシーでグランブルーを目指す場合、「グランブルー」と言ってもまだタクシーの運転手は知らない。だから、「レギャンストリート、ホテルプラウィタ」と言って欲しい。本当は、ホテルアクエリアスの二階にあるのだが、このホテルは知られていないのである。ホテルプラウィタならほとんどの運転手が知っている。ヌサドゥアからでも約百二十円~百五十円くらいのものだ。インペリアルやオベロイからだと南に下るだけであり、七十円か八十円くらいである。
 あと十七日。もうすぐ僕の滞在も一か月半が経とうとしている。



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