バリ記 

英語関係の執筆の合間に「バリ滞在記」を掲載。今は「英語指導のコツ」が終了し、合間に「バリ島滞在記」を連載。

バリ記39  バリ人にとってのバリアン / 恥?

2020-01-21 11:18:18 | バリ記
2000年7月18日
バリ人にとってのバリアン

 スーシェフのプトゥがすまなそうな顔をして、早退させて欲しいと言う。理由を聞くと、「妻がバリアンに行くのでどうしても夫がついていかなければならない」と答えた。「どこが悪いのか」と聞くと、「頭痛がとれない」と言う。「病院に行ったけど、なおらない」と言う。何か医師でもわからないことが、彼女に起っているのだろうと家族のものは心配する。当然、親あたりからバリアンに行ってこい、ということになるのだろう。
 バリアンは呪術師である。夢枕 獏の「陰陽師」の安倍清晴明とはちょっと違っているようだが、だいたい村落に一人くらいはいるようだ。それぞれのバリアンに対して評価も違い、有名なバリアンには遠いところからでも人はやってくる。
 以前、この日記でも書いたように相談の多くは、家族親族内のトラブル、精神的なことが原因っぽい身体の不調、突然のぎっくり腰などである。
 風邪を引いたからと言って、バリアンに行くわけではない。骨を折ったからと行くわけではない。
 奇妙な事柄、例えばよくないことが続いて起ったとか、どうして家族内の口喧嘩が多いのだろう、とか解決が自分でも不能な場合に行くのである。
 透視術も持っているように思える。強い《気》を発することができるように思う。そのバリアンが本当に透視できるのかどうかは、そのバリアンしかわからないので、何とも言いがたいが、おそらく常人とは違う神経や知識、気力があり、その点で区別すれば異常の人なのだろう。
 特に思うに、重要だと思われるのは、生業として個々人の願いを、彼がすべて吸い取り、不安や苦痛を取り払ってくれるということだ。
 このようにして、個人は自分に突然現れた災難や苦悩を解消しようとし、共同体の生活の中でのバランスをとっているように見える。
 プトゥに「奥さんはなおったかい?」と聞くと、「なおった。」と言う。
 二~三日して今度はプトゥが胃が痛いと言って、仕事を休んだ。僕はいささか、プトゥと奥さん、そしてプトゥの母親や父親、これらの関係が今良くなく、間にはさまれたプトゥも疲れているのかな、と思ったり、奥さんは、神経過敏な人なのかな、想像したり、子供はどうなっているのだろうと思ったりするが、「ガスター10」を見せ、これですっきりなおるから、と言って与えた。
 翌日、「すっかりなおった」とプトゥは報告に来た。
 何かトラブルが解決したのだろうか。

2000年7月24日
恥?

「ジャナの風邪は治ったかい、イエニー? 」
と聞くと、婚約者のイエニーは困ったような顔をして
「実は本木さん、ジャナは今シガラジャの実家にいて、会社には恥ずかしく出れない、と言ってるの」
「恥かしい? どうしてなんだい?」
「同じ会社で夫婦は働けないことになってるでしょ」
「同じ会社じゃないよ。グループ会社だけど、別々の独立法人なんだから」
「?????」
 僕は、エステ・デ・マッサに関しては経営者ではない。ブックツリーが経営コンサルタント会社として管理運営しているだけだ。このことは何度言ってもわかりにくいらしい。
 「いいから、全然心配することないから、気にせずに来るようにいっておいてね。」
と言うとイエニーは安心したように、うなずいた。
 翌日、ジャナは来なかった。そして、今日も来なかった。
 オカと、ジャナのことについて話をした。気にせずに来いと言ってくれ、と言った。オカも同様のことをいっているらしいが、 あきらめ口調である。
 この辺の本当のところがつかみにくい。日本人同士ならなんとなくわかるところなのだが、藪の中のような感じだ。イエニーやオカは、わかっているのだろう。
 一 前の彼女が同じ場所で働いているからなのか。
 二 相当に仲間の口や目が気になるのか。
 三 仕事に自信が持てないのか、好きな職種ではないからなのか。
 四 別にもっと給料のよい仕事が見つかったからなのか。
 五 イエニーの収入に甘えているのか。

ジャナは、ほんの四ヶ月前まで職探しをしていた。 
今のバリで仕事を見つけるのは困難である。英語が出来る男性はゴロゴロいるのに仕事がない状態だ。
しかも結婚式が近づいている。イエニーはしっかり者だから、彼女におんぶされるのだろうか。どういうつもりなのだろう。
イエニーが言うには、
 「アタシも少しは遊んだけど、私、もういい。終わり、ジャナはプレイボーイで、ジャナのお父さんが心配して早く結婚させたがっているの、それで結婚式も急ぐのよ」
と真剣にあっけらかんと言う。
 彼女の説得も功を奏しないのか、来るような感じがしない。当然、職を探している人が多いから、次の者が早々とやってくるだろう。
 歯がゆいところだけど、これ以上手は差し伸べられない。

バリ記38  えんえんと続く話 / アマヌサの満月

2020-01-20 11:14:21 | バリ記
2000年7月16日
えんえんと続く話

「バリ島では人の家の豚を盗んだら、殺されるのか」
「それは警察が来るのが早いか遅いかの問題だ。警察が来るまでなぐり続ける」
「それは人の物を盗んでも同じか。」
「同じだ。路上でスリがいて、そいつが捕まった場合は半殺しだ」
「盗むのに命がけならば、なぜ、君らはそんなに物を盗まれるのではないかと心配するのだ。」
「他所から入ってくるものが多いからだ。素性が知れない」
「その他所のものも、盗むことは命がけであることは知っているだろう。」
「知っていると思う。だがやる」
「バリ人は穏やかそうに見えるが」
「静かな時が危ないのさ」
「ほう、静かな時? 今は政治に関しても、みんなペチャクチャ喋っているだろう。好き勝手なことをいっているだろう。だから安心なのさ」
「ということは八月は大丈夫なのか」
「まず大丈夫だろう。ひとは騒いでいるから。それが静かになると危険だ」
「話を戻すが、豚一匹くらい盗んで人を殺す、というのはヒンズーのおしえには背かないのか」
「背かない。豚になる人間なのだ」
「人の命は尊いか」
「尊い」
「悪人でも尊いか」
「尊い」
「尊いならば、なぜ殺すのか」
「尊いから殺すのだ」
「汚れた命をこの世でもつよりいいだろう。そして豚になる。あるいは犬になる。やがて人間に戻るかも知れない」
「ほう輪廻転生か。この世は惜しくないのか。
「惜しい。だから生きているのだ。
終わりのない会話がえんえんと続く。彼らは真剣に自らの掟を話す。

2000年7月17日
アマヌサの満月

 今回、バリ島に来て、二度目の満月の日を迎えた。ちょうどパトリシアが帰る日ということもあり、また彼女はクタ・レギャン以外どこにも出かける余裕がなかった、ということもあり、満月、と言えば「アマヌサ」(ホテル)だろうと、そこに夕食を食べに行くことになった。
 六時三十分出発と決めた。アマヌサまでレギャンから二十分。夕方から雲が出、四時頃は空がどんよりよしている。鳥毛さんがいたので、「今夜は満月ですけど、あの空じゃ見えませんね」というと、笑いながら「いやあ、わかりませんよ。島の空は変りやすいですから」その言葉の方が自分の予想より当たっていると思ったので、予定を変更せずに出発した。途中、大きな橙色の丸い月が左方向に見えた。
 しばらくすると月を見失った。月が見え隠れしているのだ。アマヌサのロビーの左手のカフェテラスに入るあたりからの月は真下で美しい。それを期待していた。
 アマヌサに着いたのは六時五十分。やや月の位置が期待と違う。もう三十分早く来るべきだったのだ。僕の見る位置から前方に「テラス」というレストランが夜の闇にぼんやり浮かんでいる。そのむこう遠くに海がある。月はすでに「テラス」の屋根の上の方にあった。期待は屋根の左側の方に見えてほしかったのである。このホテルを見るたびに、設計者の心にくい、月をも考えに入れたデザイン感覚を思う。どんな人なのだろうと思う。
 月は相変わらず雲間に見え、また隠れしている。もしも雲がなかったら、月の光はその下の海を集中的にさざめき立つように照らすはずである。
 カフェテラスでビールを飲み、しばらくヌサドゥアの方向の風景を見ていると、プールサイドのイタリアンレストランの前で、ティルタサリ楽団のスマールプグリンガンが始まった。満月の日の特別な音楽である。踊り子も踊っている。音楽を聴きながら階下に降りて、プールの脇を歩き、また右手の階段を昇って「テラス」に入った。オープンエアのところは風が強いため使用できず、屋根のある方に迎え入れられた。とたんに月は見えなくなる。興がなくなる。恋人たちは手を取り合って、オープンエアのところに歩き、月を見ては抱き合い、うっとりとしては、またこちら側のテーブルに戻ってくる、ということを二、三度繰り返す。
彼方から儀式の歌らしい、よく通る歌声が聞こえてくる。オコカンの音、ガメランの音もする。バリ島では満月の日は儀式が多いのだ。アマヌサの敷地内にある小さな寺院でもスタッフたちが儀式をとり行っていた。
 パトリシアとは久しぶりにいろいろな話をした。
 「オレは本当は詩人になりたいんだけどね。二十五間目、いつも詩人になってるんだけどね。現実はあれこれ次から次へと思いついたことをやっている」
 「一時ストップしなくちゃならないかもね。いや、六十才になったら、ストップするかな、あとはすべて出してしまう。今は性分だからしかたないかな」
 などなど、この三時間はグランブルーのことはひとつも考えなかった。
 レギャンに戻り、パトリシアが空港に向うと同時に雨がぽつりぽつりと降り始めた。


バリ記37 気がついたこと / ひそやかに、遠慮がちに /

2020-01-19 11:08:42 | 私の英語講習
2000年7月14日
気がついたことアラカルテ

五月の下旬にバリに来てから五十日くらいになる。バリ島について新たに発見したことを述べる。
まず、水である。どうしたことか髪の毛が縮れはじめ、髪がパサパサとしてきた。応援スタッフのオーストラリアから来たパトリシアもそうだという。どうやら水のせいではないかということになった。変化は髪の毛だけでない。白いマニキュアが黄色く変化してくる。白いシャツは何度か洗っているうちに黄ばんでくる。
 バリ島には、爪を伸ばしている人が多いのだが、男性も女性もその爪が汚れてみえる。実は、汚れているのではない。伸びた爪の裏表が水に攻撃されて、光沢を失い黄ばむのである。これがひとつ。
次に、バリ人には地図が描けない人が多い。ほとんどの人が描けない。逆に言えば地図が読めない。日本では、全ての家が載っている市町村別の地図もあればランドサットによる地図もある。バリ島では警察すらこのような地図をもっていないし、詳しい道路地図もない。
 学校で地図を描く練習もないようだから、必要性がなかったのだろう。
 次に話のポイント、核心的なことに触れず枝葉のこと、周辺の具体的な話がやたら多い。例えば、「いつから台所がつかえるの? 」と聞くと、「来週の月曜から」と答えればすむ話を、手洗い場がこうこうこう、こうなって、キャンセルをして、それはどういうわけで、だれのせいで、オレらは夜中まで家に集まって相談して・・・・」という話になり、さらに、話が飛び階段を支える鉄は一本ではすぐに腐ってしまうのではないか、不安だ、延々と話は続き放っておくと結論はなく、まるで終わりのないバリの音楽を聞くような感じだ。
 「それで、台所はいつになったら使えるの?」と聞くとまた別の話をし始める、といった感じである。
 次に、一人に質問すると寄ってたかるように三人、四人と口をはさんでくる。それも怒った様子で口をはさんでくるので、一人の言っていることが何か間違ったことを言っているように思える。
 「やかまし! オレは今、スリアシと話をしているんだ。」
と思わず言ってしまう。
 人によって違うのだろうかと観察していると、確かに無口な人もいるが、その無口なひとでさえ、時に参加してくる。だから一般的にそんな風なのだろう。
 次に、漢語ではなく、恐らく昔から使われていた言葉なのだと思うが日本語の動詞と音の意味がよく似た言葉がある。
語る、ストーリーを語る、物語みたいなことをカタとかカタカタというし、気持がたかぶるはタカブルと同様である。日本語という言語がある時期、この辺とも密接につなっがっていた、つまり日本語が積み重なってきた歴史の初期の頃、よく似た言葉を日本人も喋っていたのではないかと思ったりする。それは、着物をはいでいけば腰巻、つまりバリのサルーンが最後に残るというような、どこか根底のところで共通したものがあるという感じなのである。

2000年7月15日
ひそやかに、遠慮がちに

 パトリシアが帰る日が来た。彼女は十七日間、メニュー作りとウエイター、ウエイトレスのトレーニング、ヨーロッパテイストのチェックと大活躍。
 最後の仕事が終わってパトリシアがあいさつをして、さてみんな二十才以上のバリのスタッフを見ていると、何ていうのだろうか、「世界うるるん滞在記」みたいな感じだ。
 しらけた人がいないのが不思議だ。人はみんな貴種流離譯のようになってしまうのだ。他所から来る人はなぜか尊く見えるものだ。
 彼女はこの十七日間、彼女が会ったバリの人々を批判することも、非難することも、愚痴をこぼすこともなく、文化・生活習慣の違いというものをしっかり認識して、仕事に入っていた。えてして、「バリ人って・・・・」と、馬鹿にした言い方をする人がいるものだが、この点は、わがスタッフは気持がよい。
 彼女が大好きなロングコーヒーもメニューに入れた。素敵なレストランで、美味しい食事をして、ワインを飲む。そして素敵な音楽がかかる、などと最後の夜は、はしゃいでいるように見えたが、そしてシェフやバーキャプテンもひそやかにこれから話が弾むことを期待していたのだったが、ふいの訪問客が僕の部屋のガーデンに来た。
 テレビのワイドショーや歌謡番組の何分かのコーナーを請け負って、制作している仕事をしている会社の社長だった。僕らは彼を歓迎しつつも、シェフたちは日本語がわからないから、とたんに遠慮の姿勢となって、パトリシアのお別れ会めいたものはそのまま散会となった。
 さて気がかりは、淋しそうに、遠慮がちに帰ったシェフのバワやバーキャプテンのプジャナであった。パトリシアも、しかたなさを感じているものの、心残りであったに違いない。いろいろあった日だった。


バリ記36 「食」ふたたび / バリの風邪

2020-01-18 11:03:40 | バリ記
2000年7月9日
「食」ふたたび

 「食」についてもう少し考察してみたい。
おそらく「食」は「食文化」とも言われるから、経済的な豊かさと相関しているのだろう。
僕も含めて、日本人と言うのは何でも良く食べる人々である。日本料理はいうに及ばず、どこの料理もどのような料理のしかたをも、あまり拒否せず、どのような食材にも取り入れ方が早い。
 自分で調節の出来る選択消費のお金が増えたからそうなった、とは単に思えない。
明治期、日本が近代化してゆく過程でも、今のバリ島より外国人は断然少なかったと思うが、洋食を取り入れ、日本料理もさらに高度に発達していったように思える。
 飛躍させて想像してみる。我々の遠い記憶である。今から一万年も前、海流に乗ってポリネシアやインドネシアやフィリピンの人々が日本列島に漂着する。やしの実が遠き島より漂着するのと同じだ。あるいは、中国の南の海岸辺りからも日本列島に入ってくる。おそらくきっと朝鮮半島からも、ロシアの方からも入って来たに違いない。
 この日本列島は、天皇制が成立する以前、かなりの人種、民族が混り合う、地球上の最終的な場所のひとつだったのかも知れない。日本人の顔は、純粋に顔だけ見れば、ロシア、モンゴルあたりから南、西はヨーロッパを除いてトルコ-アジアのどこにでもいるような顔をしている。
 どのような食材をも食べようとするのは、もちろん、食材が保存できる季節、できない季節などの風土がその基礎的条件としてあるだろうが、遠い記憶のせいなのではないだろうかと想像したりする。
日本列島の東は太平洋。このファーイーストでいろんな民族が混りあった時代があったと考えたら、我々日本人はインターナショナルな視点をつかむことができる。
 遠い記憶が研究されればおもしろい。

2000年7月13日
バリの風邪

 エステ・デ・マッサで一人、咳をゴホゴホしているスタッフがいた。次の日には三人になり、その次の日は、五人になり、また次の日にはグランブルーに移り、僕を含め、アキちゃん、バーキャプテンのプジャナと感染していった。
まるで、小学校や中学校の集団感染である。風邪のウィルスの伝染力、その早さに驚いている。
この経験で、バリ人がどうしてボレという各種スパイスを粉にして、体に塗るのかわかるような気がする。微妙な気温、湿度に身体が敏感なのだ。日本でだったら毛布もう一枚というところだが、こちらでは暑すぎ、その差が微妙すぎるのである。
僕は、真夜中に咳で苦しみ、味覚がなくなり、人への感染を恐れ、あと十七日でオープンの「グランブルー」への影響を恐れている。
 世界でも、バリ島でしか見れないガラスのレストランができる。ガラスはバリ・ガラスという海の色をしたようなものだ。それが、陽の光によって、煌き、輝き移ろう。夜は、ライトで一定に光を出すが、人の動きによってガラスが反射する。
英語名のキャッチコピーを「Reflections of the Deep」とした。日本語キャッチコピーは「海に似た感情」と決め、一斉にガルーダ誌やホテルに置かれる雑誌などに広告を出した。
 世界中の人に楽しんでもうらおうとメニューも斬新をきわめ、驚き、舌鼓をうつものばかりである。
 たぶん、一見、一味に値するレストランになると思う。
 この日記を読んでいる方に、ひとつタクシーの安い乗り方を伝授したい。グランブルーに来てもらう為にである。
 空色のタクシー(バリ・タクシー)がこれまで良心的メーター料金でやっていて、断然、日本人に好まれていたのだが、白色、オレンジ、紺色のタクシーもメーターを持っている。だが、これらのタクシーは人を見て、メーターのスイッチを押さないのだ。しかしである。「メーター」といえば、たいていはスイッチを入れる。これは、必ず言って欲しい。
 さて、タクシーでグランブルーを目指す場合、「グランブルー」と言ってもまだタクシーの運転手は知らない。だから、「レギャンストリート、ホテルプラウィタ」と言って欲しい。本当は、ホテルアクエリアスの二階にあるのだが、このホテルは知られていないのである。ホテルプラウィタならほとんどの運転手が知っている。ヌサドゥアからでも約百二十円~百五十円くらいのものだ。インペリアルやオベロイからだと南に下るだけであり、七十円か八十円くらいである。
 あと十七日。もうすぐ僕の滞在も一か月半が経とうとしている。


バリ記35  だまされた分 / 食

2020-01-17 10:58:59 | バリ記
2000年7月3日
だまされた分

 925と彫ってあるシルバーアクセサリーも安く出まわっているものはほとんどニセモノである。  
 ウブドのマーケットで売っているものはサギ同様のものである。シルバーを磨く時に使う液で拭いてみたらすぐわかる。メッキがはがれてしまうのである。
 僕は、だから気をつけろよ、と言いたいのではない。
 発展途上の国では、この手のやり口が実に巧妙にできあがり、それを売っている純朴そうな女の子は、きっと本物だと思って売っているのだ。作る巧妙さから売る巧妙さまで「やるなぁ」と感嘆してしまうのである。
これがいけないことだとか、悪いことなのだから、と言っている倫理や法の基準では、そこを問題にする限りは、やられた側は怒るしかないのだ。
 別の観念の導入が必要である。「それは、騙された分をあげる」と言う考えである。原材料費、加工賃、手数料の合計が売っても良い値段だとすれば、それ以上はボーナスである。そのボーナスは、衣類や食べものや家賃にまわるかも知れない。決してアワのように、お金はまわっていかないのである。「だまされた分」は確実に、このインドネシアやバリ島の経済の中に組み入れられ、新しい生産を増やしている。こう考えた方が、まあまあ怒りもおさまる。
 観光客で行く限りは、このくらいのおさめ方の心の準備が必要だろう。それをカンカンと怒っていたのでは旅も台無しである。
 「だまされた分」のお金は、日本でだったらもっと巧妙にスケールが大きく、しっかりとシステム化されている。麻薬にまわるのか、天下った元官僚にまわっていくのか、そしてそれが生産を促すものなのか、判然としない。
 お金の一部は、とにかく海外口座、幽霊会社、他人名義でまわるやり口の中で、裏に沈んで眠っていたり、時効となって表に出てきたりである。
 日本人が戦後身につけたものは、僕は何度もこの日記で書いたことだが、「神経症」とこのような「高度なだましのテクニック」である。テレビ局やマスコミはさしずめこの二つの象徴的存在である。
話が長くなりすぎた。

2000年7月8日

 いつも不思議に思っていたのだが、まだその理由を聞かずにいる。
 それは、食事をとる、そのとり方と場所のことである。バリでは、お腹がすいたときに、ナシチャンプル(白いご飯のまわりに、鶏肉や野菜などの四~五点を置き、混ぜて食べる。)をそれぞれが食べる、ということは知っていた。
 僕が働く事務所には、楕円形のテーブルがあって、そこは会議などをする場所である。そこには、椅子もあるのだから、そこで食べるのかな、と思っていたら、ひとりなぜか隅のほうの机の前で、ひとりは更衣室の中で、ひとりは通路の脇で、ひっそりと隠れるようにして食べるのだ。丸イスにナシチャンプルを置いて、右手でひっそりと、しかもさっさと食べる。食べる時間もそれぞれ違っている。みんなでワイワイと喋りながら食事をすることは決してないのである。
 唯一、一人になれる時間なのかな、と思ったり、まあ、それは習慣なのだからそんなもんなのか、と思ったりしていた。
「食」にさほど関心がないという人たちは平均的に、消費生活は先進国から言えば、貧しいものがある。生きてゆくのに絶対に必要な、つまり基本的に体力を維持する食、そして衣、住で収入のほとんどが消えていきそうなところにプラス通過儀礼のための蓄えがいる。
 食べることなどは、必要最低限のものを食べればよく、あとはさっさと働いて、みたいな感じがあるのか、あるいはいつも出入りする家の中で、食事時間を決めて、家族一同そろって食事をするというのは、さらにもっと煩わしいことなのかも知れない。日本では、個人の生活も尊重され、家族が一同にそろうのは夕食くらいしかない、だからその一回くらいは家族が集まって、いろんな話をしようという気持になるのかも知れないが、バリでは四六時中、親、祖父母、兄弟、嫁、いとこやはとこ、それに近所の人がいて、今さらみんな集まってなどということは、それこそ通過儀礼での時で上等だと思っているのかも知れない。
本当のところはわからない。
 毎日、変ることのない食事の内容では、食はただ本能的なものであるかも知れず、淡々としたものなのだろうか。
クタで食事をする、などとなれば、一ヶ月の給料のうちの一週間分くらいが飛んでしまう。印象としてバリの人たちは、たとえ観光客がワイワイと食事をしていてもいっしょに食べるということは苦手のようで、高給とりのガイドですら、ひっそりと屋台とかワルンという小さな食堂で食事を済ませ、気長くお客の食事の終了を待っている。
 クタやレギャンがいくら賑わっていても、村に帰った人々は、ひっそりの食事をしているのだ。そして、その時、たったひとりになって食に集中しているのだ。そしてまた共同の世界に戻ってゆく。まるで、日本と逆なのである。互いに似通ったところがいっぱいあるのに、この点は逆なのである。