バリ記 

英語関係の執筆の合間に「バリ滞在記」を掲載。今は「英語指導のコツ」が終了し、合間に「バリ島滞在記」を連載。

バリ記30 時間の感覚

2020-01-12 10:24:02 | バリ記
2000年6月5日
時間の感覚

 僕としては、相当真面目に書いているつもりであるが、残念ながらこの日記は二十五時間目に、妖しい夜の時間も果てるころに書いているので、文章を推敲する時間がない。
 今日は、この日記を読んでくれている方がわざわざ訪ねてくれて、嬉しかった。言い訳めいているが、夜の時間は不健康で、貴重な時間なので、なんだか妄想を湧かしているうちに、二十四時を過ぎるとその後は限りのないような闇の中に沈み、そういう中で思ったことを書いている。朝や昼は「実」の仕事時間で急に「虚」になれなくて、従って文章を再度見直すことはない。世界が全く違うのだ。
 さて、バリのことである。
 この前、バンリのバリアンのところに行った時、多くの人が順番を待っていた。我々日本人の多くは時に時計を見て、時間に気にかけるのだが、バリの人々は待っている間、全くイラつく様子もなく、時間を気にする様子もない。そういえば、最近までイダも時計を持っていなかった。時計がなくても、時間は別の感覚であったのかも知れない。太陽が昇る頃とか、沈んでから薄闇の頃とか、お腹がすいた頃などと。また、そう言えば、であるが、食事をする時間も決まっていないように見える。いつも、もう十二時だ、昼にしよう、と言ってもピンとこないようだ。夕食も同様である。家族のそれぞれが、てんでバラバラに必要時に食べるという感じだ。
 話を元に戻すと、時間にそう縛られていないバリの人達の時間の感覚はどのようなものだろう。
三才ぐらいから小学校を卒業するまでが、相当長かったような気がするが、あのような感覚なのだろうか。二十才を過ぎたあたりから時の流れる感覚がますますスピードアップしていると感じるのは、生活の時間が、仕事時間などに縛られているからだろうか。
 空虚に待っている間も、日本の場合は、雑誌や漫画が置いてあったり、テレビが提供されたりする。貼り物も多い。それらを読むこと、テレビを見ることで、脳の映像を映し出す部分がいつも忙しくしていて、時の経つのを忘れることが多いから浦島太郎のようにあっという間に時が過ぎたと思えるのだろうか。
この点の感覚の違いをつかんでバリ人と一緒に仕事をするのは、重要だと思える。そのことでイラ立つことはなくなるのだから。時間感覚を大幅に延長してもてばいいのだから。もっと言えば、ゆったりとした時間の過ぎ方のほうがより一般的かも知れないのだから。

2000年6月9日
せめぎあい

 もっと詳しい感情はわからないが、バリ島がリゾート地化され、バリの人々に観光産業がつまり第三次産業の立ち居振舞いが身についてきたことから、感情は第三次産業の色彩をもつようになってきた。
 村落共同体は、さまざまな面から、その存在を脅かされているように思える。
 例えば、ひとつの会社、またはグループ会社は、ひとつの地域から何人も人を雇ってはならない、という暗黙のルールがある。また、同じ会社で親、兄弟、妻が働くことは良くないことだとされている。
 これは、会社に対して、相当に強い人間の関係性を持ち込まないことで仕事に悪影響を与えまい、という意思と裏返しに、会社の仕事と村の行事がぶつかった時に、村の行事を守らなければならないという意思も働いている。
つまり、会社と村落共同体の利益が合致しているのである。
しかしながら、個々人はそんなことを言ってられない。職がなければ誰でもどこでも働きたいと思うのが心情である。個々人は、なんとかそのルールを無視し、あえてその障壁を越えてしまおうとするが、すぐにチクられたりして、採用前に頓挫するのである。
 この辺のところが、個人と共同体のせめぎあいのところでそろそろバリ島もその臨界点まできているのかな、という気がする。もしかしたら、まだ共同体側の方に余裕があるのかもしれない。ここら辺りの感情がちょっとわかりにくい。
若い人々は、核家族化を押し進める。子供により高度な教育を身につけさせたいと考える。家族の宗教的セレモニーは大切だが、村の組織への参加は、必要だけれども億劫になることもある。
 バリで仕事をするということは、自分も現在のバリに巻き込まれ、バリの人たちをも巻き込んでしまうということである。
自分自身にとって、未来に通じる言い方をすれば、彼らのはにかむ微笑や、スラッとした身体や、ゆっくり刻む時の流れ、はっきりとした昼と夜、食欲の自由なリズムなどに人間と言うものの原型を見ることだ。このような原型というか、人間が太古から持っている原初のイメージから今の自分を視ることによって、未来につなげてゆく、としか未来に通じる言い方はないのである。
 一方、僕の周囲のバリの人たちは、僕を通して、未来を視ている人もいるだろうし、僕という壁のところで立ち尽くす人、さっさと遠ざかる人、それぞれだろう。縁あったもの同士が互いを契機にある豊かなイメージをつかみとってゆくしか共に歩む方法はないのだと思う。
 そんな七面倒臭いこと考えずとも「仲良くやればいいじゃないか」と言われれば、それまでなのだが。





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