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ジンジャー・ベイカー

2022-10-23 23:21:40 | drums

ジンジャー・ベイカー Peter Edward "Ginger" Baker

【パート】
  ドラムス、パーカッション

【生没年月日】
  1939年8月19日~2019年10月6日(80歳没)

【出生地】
  イングランド ロンドン

【経 歴】
  The Storyville Jazzmen
  The Hugh Rainey All Stars
  Terry Lightfoot’s Jazzmen
  Johnny Burch Quartet(1961~1962)
  Johnny Burch Octet(1962)
  アレクシス・コーナーズ・ブルース・インコーポレイテッド/Alexis Korner’s Blues Incorporated (1962.6~1963.2)
  グラハム・ボンド・カルテット/Graham Bond Quartet (1963.2~1963.8)
  グラハム・ボンド・オーガニゼイション/Graham Bond Organisation (1963.9~1966.3)
  クリーム/Cream(1966.6~1968.11)
  ブラインド・フェイス/Blind Faith(1969.2~1969.10)
  ジンジャー・ベイカーズ・エアフォース/Ginger Baker’s Airforce (1970.1~1971.1)
  ドラム・クワイアー/Drum Choir(1971)
  ジンジャー・ベイカー & ソルト/Ginger Baker & Salt (1972)
  ベイカー・ガーヴィッツ・アーミー/Baker Gurvitz Army(1974~1976)
  ジンジャー・ベイカー & アフリカン・フレンズ/Ginger Baker & African Friends (1978)
  ホークウインド/Hawkwind(1980~1981)
  ジンジャー・ベイカーズ・ナッターズ/Ginger Baker’s Nutters (1981~1982)
  アトミック・ルースター/Atomic Rooster(1981) ※サポート・メンバー
  ジンジャー・ベイカーズ・エナジー/Ginger Baker’s Energy

  ベイカーランドバンド~ジンジャー・ベイカー & バンド/Bakerandband/Ginger Baker & Band (1982~  ) 
  BBM (1994)
  ジンジャー・ベイカー・トリオ/Ginger Baker Trio



 クリームのドラマー。
 ブリティッシュ・ロック界が生んだ最初のスーパー・スター・ドラマーであり、ロック・ドラムにジャズやアフリカン・リズムなどの要素を持ち込んだ偉大なドラマーでもある。ジャズのフィールドでも活躍した。
 「ローリング・ストーン」誌が選出する「最も偉大な100人のドラマー」では第3位にランクされている。
 なお「ジンジャー」はニックネームである。赤毛であるところからそう呼ばれるようになった。


 南ロンドンのルイシャム出身。
 レンガ職人の父フレデリックと、タバコ店で働く母ルビー・メイとの間に生まれた。
 ポープ・ストリート・スクールではフットボールの選手として活躍。
 空軍の第56飛行中隊に所属していた14歳の頃は、軍隊のバンドでトランペットを演奏するようになる。
 15歳のときにドラムに転向し、1960年代初頭にはフィル・シーメンにレッスンを受けている。
 1950年代後半からジャズ・バンドで演奏活動を始める。ロンドンの代表的なジャズ・クラブとして知られるロニー・スコッツのレギュラーの座に就くなど、高い演奏技術で知られる存在となる。
 1962年、アレクシス・コーナーのブルース・インコーポレイテッドに加入し、ブルースやR&Bにも接近。このバンドでジャック・ブルースと出会う。この当時からふたりはしばしば対立していたが、1963年には、ブルース・インコーポレイテッドで一緒になったグラハム・ボンドの「グラハム・ボンド・トリオ」(のちの「グラハム・ボンド・オーガニゼイション」)の結成に、ともに参加する。バンドはディック・ヘクストール=スミスを加えた強力なカルテットで、1965年には後のロックやジャズ・ロックに多大な影響を与える重要作「The Sound Of 65」をリリースした。





 やがてベイカーは、グラハム・ボンド・オーガニゼイションでの活動に行き詰まりを感じるようになり、エリック・クラプトンにバンドを結成するというアイデアを提案してみた。クラプトンはこれに同意したが、ひとつの条件を出した。それは「ベースをジャック・ブルースにするなら」ということであった。彼とブルースはとにかく対立しがちだったため、ベイカーはこれにとても驚いた。グラハム・ボンド・オーガニゼイション時代はベイカーと衝突したブルースが脱退したということすらあった。実はクラプトンは、ベイカーとブルースの仲が非常に悪いということを知らなかったのだが、結局ベイカーはこの条件を受け入れる。
 1966年6月、ベイカー、クラプトン、ブルースの3人は「クリーム」を結成。
 クリームのデビューは同年7月31日。第6回ナショナル・ジャズ & ブルース・フェスティヴァルがそのステージである。クリームの登場と革新的な演奏は、ロック界を震撼とさせた。

 クリームは解散までに『カラフル・クリーム』を含む4枚のアルバムを発表し、世界的な成功を収めた。
 ライヴでのインプロヴィゼイション主体のエキサイティングな演奏は絶賛され、ロック・ミュージックに変革と多大な影響をもたらした。しかしベイカーとブルースの軋轢は大きくなる一方であり、それに加えてツアーの連続による疲労などでメンバーの仲は冷え切ってしまったため、1968年5月には解散することが決断された。同年11月26日にロイヤル・アルバート・ホールで行われたフェアウェル・コンサートがクリームの最後のライヴとなった。


 1969年になると、クラプトン、ウィンウッド、ベイカーはリハーサルを重ねるようになる。この3人にリック・グレッチが加入して結成されたのが、やはり「スーパー・グループ」として騒がれた「ブラインド・フェイス」である。
 ブラインド・フェイスの誕生はセンセーショナルな話題であった。彼らは1969年6月7日にロンドンのハイド・パークで行われたフリー・コンサートで、実に10万人の聴衆を集めて衝撃的なデビューを果たした。
 同年7月に発表されたブラインド・フェイスのファースト・アルバム『スーパー・ジャイアンツ』(Blind Faith)は、英米ともにチャート1位の大ヒットとなり、ミリオン・セラーを記録した。
 しかし8月24日まで行われたアメリカ・ツアー中にメンバー間で修復しがたい音楽観のずれが生じ、結局10月にはブラインド・フェイスは解散した。活動期間は、実質わずか半年ほどであった。



 

 1970年1月にベイカーは、ウィンウッド、グレッチにデニー・レイン、グラハム・ボンドらを加え、10人編成の自身のリーダー・バンド、「ジンジャー・ベイカーズ・エア・フォース」を結成する。
 即興主体の演奏、アフロ・ビートなどを取り入れたユニークな音楽性を前面に押し出し、1970年にファースト・アルバム『Ginger Baker's Air Force』、セカンド・アルバム『Ginger Baker's Air Force 2』を発表。
 ジンジャー・ベイカーズ・エア・フォースとして2枚のアルバムをリリースしたのち、アフリカで数年間を過ごす。ベイカーは1960年代からアフロ・ミュージックに傾倒しており、アフリカではナイジェリアのアフロビートの巨人フェラ・クティと意気投合してアルバムを3枚制作したほか、「The Africa ’70」とのセッションなどを通してアフリカン・パーカッションに傾倒。72年にはBobby Tenchらの協力で初のソロ・アルバム「Stratavarious」をリリースした。この1972年にはベイカー(drums)、Bud Beadle(sax)、Berkley Jones(guitar)、Joni Haartrup(vocal, percussion)、Laolu Akins(african-drums)、Steve Gregory(tenor-sax, flute)というメンバーで「ジンジャー・ベイカー & ソルト」を結成している。
 こうしたベイカーのアフロ・ミュージックへの接近は、のちの「ワールド・ミュージック」ムーヴメントへ続く先駆的な動向だと言っていいだろう。


 1974年、エイドリアンとポールのガーヴィッツ兄弟と合流し、ハード・ロック・バンド「ベイカー・ガーヴィッツ・アーミー」を結成。
 1980年には、イギリスのサイケデリック・ロック・バンド「ホークウインド」に加入して世間をあっと言わせた。この件についてのちにベイカーは「あれは史上最大のジョークだった。金が必要だったんだ。動機はそれだけだ。」と語っている。1981年にはキース・ヘイル(Keith Hale keyboard)を引き連れてホークウインドを脱退し、自身のグループ「ジンジャー・ベイカーズ・ナッターズ」(Ginger Baker’s Nutters Ginger Baker:drums、Billy Jenkins:guitar、Ian Trimmer:sax、Riki Legair:bass、Keith Hale:keyboard)を結成。その後は「ベイカーランドバンド(その後ジンジャー・ベイカー & バンド)」(Bakerandband/Ginger Baker & Band)、「ジンジャー・ベイカーズ・エナジー」(Ginger Baker's Energy Ginger Baker:drums、John Mizarolli:guitar, vocal、Whitey Davis:guitar, vocal、Henry Thomas:bass、David Lennox:keyboard)を率いて活動した。


 1986年には「パブリック・イメージ・リミテッド」のアルバム『アルバム』のレコーディングに参加している。
 パブリック・イメージ・リミテッドは、1970年代後半のロック界に吹き荒れた席捲したパンク・ロック・ムーヴメントの火付け役にして筆頭バンドだったセックス・ピストルズのジョン・ライドン(ジョニー・ロットン)がピストルズ脱退後に結成したバンドである。ニュー・ウェイヴの旗手だったライドンと、オールド・ウェイヴの代表格のひとりのベイカーのコラボレーションということで話題になった。


 1989年、フリー・ジャズのサックス奏者、ペーター・ブロッツマンのアルバム『ノー・マテリアル』のレコーディングに参加。メンバーは、Baker(drums)、Peter Brötzman(sax)、Sonny Sharrock(guitar)、Nicky Scopelitis(guitar)、Jan Kazda(bass)であった。
 1992年、アメリカのハード・ロック・バンド「マスターズ・オブ・リアリティ」のアルバム『Sunrise on the Sufferbus』に参加。
 1993年、ジャック・ブルース、ゲイリー・ムーアと組んだギター・トリオ「BBM」(ベイカー・ブルース・ムーア)を結成する。一部では「90年代のクリーム」とも騒がれ、翌94年にはアルバム『白日夢』(Around the Next Dream)をリリースしたが、インプロヴィゼイションを重視するベイカーにとっては音楽的指向が満足ゆくものではなかったうえ、メンバー間のエゴのぶつかり合いもあり、この重量級プロジェクトは短命に終わった。
 しかし、様々なセッションや各種プロジェクトへの参加、また自身のトリオを率いるなど、BBM解散後も多彩な活躍を続けた。





 1993年1月、クリームは「ロックンロール・ホール・オブ・フェイム」(ロックの殿堂)入りを果たす。その式典で、エリック・クラプトン、ジャック・ブルース、ジンジャー・ベイカーは、クリームとして3曲演奏している。
 1994年、ビル・フリーゼル(guitar)とチャーリー・ヘイデン(bass)の、ふたりのジャズ界の名手とともに「ジンジャー・ベイカートリオ」を結成。
 2005年、37年ぶりにクリーム再結成。このできごとは「奇跡」とも言われ、世界を驚かせた。ロック界だけでなく一般紙までもがこのニュースを取り上げたほどである。再結成コンサートは、5月にロイヤル・アルバート・ホールで、10月にはマディソン・スクエア・ガーデンで行われ、世界中のロック・ファンから注目された。

 2008年にはモダン・ドラマーの殿堂入り。2016年にはクラシック・ドラマーの殿堂入りをしている。

 2013年、変性骨関節炎による慢性的な背中の痛みと、慢性閉塞性肺疾患を患っていることを公表した。
 同年にはジンジャーを題材にしたドキュメンタリー映画『ビウェア・オブ・ミスター・ベイカー』(Beware Of Mr. Baker)が公開され、その気難しく、自己破壊的傾向にありながら多作なミュージシャンの生活ぶりが露呈されていた。
 2015年、「ジンジャー・ベイカーズ・エア・フォース 3」のバンド名で翌16年にワールド・ツアーを行う予定があることを発表したが、2016年3月に自宅で倒れる。同年7月には深刻な心臓疾患であると診断され、心臓手術を受けた。この結果、「ジンジャー・ベイカーズ・エア・フォース 3」のツアーはキャンセルを余儀なくされた。
 ジンジャー・ベイカーは長い間ヘロイン中毒とも闘っており、2013年に『ガーディアン』紙に対して「29回」もドラッグから逃れられなかったと語っている。
 2019年10月6日、病気のためにイングランド ケント カンタベリーで死去。80歳没。





 ベイカーの演奏スタイルは、高度なテクニックに裏付けされた自由度の高いものである。ドラミングそのものはパワフルで躍動的、カリスマ性すら漂わせていた。
 ロック界にあって、豊かな即興性と長尺のドラム・ソロを持ち込んだことでも知られる。1960年代に見られる有名な例が、クリームの『いやな奴』(Toad)や、ブラインド・フェイスの『君の好きなように』(Do What You Like)である。
 また、ツイン・バス・ドラムのセッティングを行った初めてのロック・ドラマーがベイカーだと言われている。


 ベイカーはたいへん気難しい性格であり、率直で辛辣な発言が多いことでも有名。
 長年いろいろなユニットでともにリズム・セクションを形成していたジャック・ブルースに対しては「エゴ剥き出し」「マイクを握ってステージ上で踊りまくる嫌な奴」とこき下ろしているのをはじめ、「ミック・ジャガーは音楽面では無能」(ただし「経営面で天才なのは事実だ」とも語っている)「なぜロックミュージックはあんなに音を大きくしなくてはいけないのだ?」「(ロック・ミュージシャンのほとんどは)とにかくマヌケどもだ」「ポール・マッカートニーは自分は楽譜が読めないなどと自慢している!よくも自分をミュージシャンだと言えたもんだ」「今のポップミュージックはクズだ」などと容赦のない言葉の数々が残っている。


 若き日のベイカーとチャーリー・ワッツ(ローリング・ストーンズ)の関係にも触れておきたい。

 ベイカーとワッツの関係は、まさに「親友」であった。彼らは深い友情で結ばれていた。
 もともとはワッツの母と、ベイカーの最初の妻リズの叔母が知り合いだったということである。
 1950年代の終わりごろには、ワッツはすでにベイカーの演奏に感銘を受けていた。
 ワッツはアレクシス・コーナーの「ブルース・インコーポレイテッド」のメンバーだった1962年、「ジンジャー・ベイカーが仕事を探している」という話を耳にした。ワッツは、「ベイカーのような素晴らしい才能の持ち主に仕事がないのに、自分がこのバンドでドラムを叩いているのはおかしい」と言って、ベイカーにブルース・インコーポレイテッドのドラマーの座を譲ったという。
 ベイカーは「信じられない!」と感謝の言葉を伝えた。ワッツは後日ベイカーに「プロのミュージシャンとしてのキャリアを歩むかどうかも迷っているんだ」とも打ち明けていたそうであるが、精神的にも信頼していたのであろう。
 その後のことである。

 ベイカーはブライアン・ジョーンズの音楽性を高く評価していたが、ブライアンがミック・ジャガーと行動を共にすることになったとき、ベイカーはブライアンに「リズム・セクションを加えたらどうか」と提案した。ブライアンらはドラマーを見つけたが、ベイカーはそのドラマーを「ひどいもの」だとしたうえで、「チャーリー・ワッツを雇ったらどうだ」と彼らに進言したという。
 ベイカーとワッツはお互いに敬意を払い、「家族のように」思っていたそうである。
 そしてその友情は終生続いた。



【ディスコグラフィ】

 アレクシス・コーナー・ブルース・インコーポレイテッド

  1963年 Alexis Korner and Friends

 グラハム・ボンド・オーガニゼイション
  1964年 クルークス・クリーク/Live at Klooks Kleek
  1965年 サウンド・オブ・'65/The Sound of '65
  1965年 ゼアズ・ア・ボンド・ビトゥイーン・アス/There's a Bond Between Us

 クリーム
  1966年 フレッシュ・クリーム/Fresh Cream
  1967年 カラフル・クリーム/Disraeli Gears
  1968年 クリームの素晴らしき世界/Wheels of Fire
  1969年 グッバイ・クリーム/Goodbye
  1970年 ライヴ・クリーム/Live Cream
  1972年 ライヴ・クリーム Vol.2/Live Cream Volume Ⅱ
  2003年 BBCライヴ/BBC Sessions
  2005年 リユニオン・ライヴ05/Royal Albert Hall London May 2-3-5-6, 2005

 ブラインド・フェイス
  1969年 スーパー・ジャイアンツ/Blind Faith

 ジンジャー・ベイカーズ・エア・フォース
  1970年 ジンジャー・ベイカーズ・エア・フォース/Ginger Baker's Air Force
  1970年 ジンジャー・ベイカーズ・エア・フォース2/Ginger Baker's Air Force 2

 グラハム・ボンド

  1970年 ソリッド・ボンド/Solid Bond

 フェラ・クティ
  1971年 Fela's London Scene

  1971年 ホワイ・ブラック・マン・デイ・サファー/Why Black Man Dey Suffer
  1972年 ライヴ!/Live!
 

 ジンジャー・ベイカー & ソルト
  2010年 Live in Munich Germany 1972

 ベイカー・ガーヴィッツ・アーミー
  1974年 進撃/Baker Gurvitz Army
  1974年 天上の闘い/Elysian Encounter
  1975年 燃えあがる魂/Hearts On Fire
  2003年 Flying in and Out of Stardom

  2005年 ライヴ・イン・ダービー75/Live in Derby

 ジンジャー・ベイカー & アフリカン・フレンズ

  2010年 Live in Berlin Germany 1978

 ジンジャー・ベイカーズ・エナジー
  1992年 Ginger Baker's Energy
  2010年 Live in Milan Italy 1980

 ホークウインド
  1980年 宇宙遊泳/Levitation(全英21位)
  1983年 ゾーンズ/Zones
  1984年 This Is Hawkwind, Do Not Panic


 ジンジャー・ベイカーズ・ナッターズ
  1981年 Ginger Baker Live
  1987年 In Concert
  2011年 Live In Milan Italy 1981
  
 パブリック・イメージ・リミテッド
  1986年 アルバム/Album(全英14位 全米115位)

 ペーター・ブロッツマン

  1989年 ノー・マテリアル/No Material

 マテリアル
  1993年 ライヴ・イン・ジャパン/Live In Japan

 ジンジャー・ベイカーズ・バンド
  1992年 IMABARI MEETING 1991 LIVE 瀬戸内海音楽祭 Vol.1 ※オムニバス・アルバム
 
 マスターズ・オブ・リアリティ
  1993年 サンライズ・オン・ザ・サファーバス/Sunrize on the Sufferbus

 ジンジャー・ベイカー・トリオ
  1994年 Going Back Home
  1996年 Falling Off The Roof


 ジャック・ブルース
  1993年 Cities of the Heart

  1994年 バースディ・ギグ/Cities of the Heart

 BBM
  1994年 白昼夢/Around The Next Dream(全英9位)

 アンディ・サマーズ

  1996年 Synaesthesia

 ソロ・アルバム
  1972年 アフロ・ロックの真髄/Stratavarious
  1976年 Ginger Baker & Friends

  1977年 Eleven Sides of Baker
  1983年 From Humble Oranges
  1986年 ホーシス・アンド・トゥリーズ/Horses & Trees
  1988年 アフリカン・フォース/African Force
  1990年 Middle Passage

  1992年 アンシーン・レイン/Unseen Rain
  1994年 Ginger Back Home

  1995年 Ginger Baker The Album
  1996年 Falling Off the Roof
  1998年 Do What You Like
  1999年 Coward of the Country
  2001年 African Force
  2006年 African Force:Palanquin's Pole
  2014年 Why?

 


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