残照日記

晩節を孤芳に生きる。

一陽来復(2)

2011-12-23 18:05:48 | 日記
【冬来りなば春遠からじ】 P・B・シェリー詩
≪…予言の喇叭(ラッパ)を響かせてくれ! おお、西風よ、/冬来りなば春遠からじ、と私は今こそ叫ぶ!≫(「イギリス名詩選」岩波文庫)

≪北朝鮮、「聖地で特異現象」報道 正恩氏の権威づけ狙う──北朝鮮の朝鮮中央通信は21日、金正日総書記の死去の当日や発表日に、中朝国境にある白頭山で湖の氷が割れるなど「特異な自然現象」が起きたと伝えた。死去とこれらの現象を関連づけることで、金総書記と後継者金正恩氏の権威を高める狙いとみられる。 白頭山は故金日成主席が抗日パルチザン闘争の根拠を築いた地で、革命の聖地とされている。北朝鮮は金総書記が生まれた場所とも宣伝している。 同通信によると、金総書記が死去した17日の朝、白頭山山頂のカルデラ湖「天池」で氷が割れ、大音響が響き渡った。気温は零下22.4度まで下がり、周辺は吹雪。「天地を揺るがすような大音響が発生したのは観測以来初めて」という。≫ (12/23 朝日新聞オンライン)

∇相変わらず下手な芝居よりもっと拙劣なる「金正恩様の特異物語」が発せられている。世界中の誰もが「バカな国だ」と嘲笑し、北朝鮮の国民自身も恥ずかしく思っている筈である。──今、あたかも「冬至」を過ぎて「一陽来復」の兆す万物変移の時侯。この「一陽来復」の語は、「易経」復卦から生まれた。「易経」を解釈する上で、経の本文を補翼する10編の書(十翼)があるが、その一に「序卦伝(じょかでん)」という書がある。「易経」総数64卦が組まれたその順序を述べたものである。「復卦」は24番目の卦で、その前の23番目が「剥」卦で、文字通り剥奪の意を含む。「序卦伝」に曰く、≪物は以て尽くるに終わるべからず。剥すること上に窮まれば下に返る。故に之を受くるに復を以てす。≫と。易の原理は、「窮まれば変ずる」である。「冬至」までじわじわ陰の気が増長して物事を萎縮せしめるが、「冬至」より以来、陽気が徐々にかつ確実に盛んになりつつあるのであり、遠からずして春の暖かい季節になるのである。この微妙なる兆しが現れたところが一陽来復である。

∇重要なのは、一陽来復の「冬至」のあと、冬至よりも一層寒い「小寒」「大寒」が来るのであるが、傍目には見えないが、間違いなく陽気が次第に勢力を増しつつあるのだ。こんな時節の処世法はどうすべきか。「十翼」の一、「象伝(しょうでん)」に曰く、≪昔の優れた聖王は、この卦象を見て一陽来復する冬至の日には、関所を閉ざして商人旅行者などの足を止め、自身も巡幸視察をやめて、やがて来る陽気盛大なる時を待ち、その時の準備に勤しんだ。≫と。まさに英国の詩人、シェリーの詩「西風 に寄せる歌」の一節にある「冬来りなば春遠からじ」の意、≪苦境を耐えぬけば、やがて幸福・繁栄の時期を迎えられるというたとえ。≫(「大辞林」)の通りである。クリスマス寒波がこの連休を襲ってきている。昨夜などは寝床が深深と冷え切って堪らなかった。だが、今朝、図書館に行く途中、「二十一世紀の森と広場」の「緑の里」の川端の柳にふと目をやると、上掲写真の如き、春の芽吹きが現前していた。「冬来りなば春遠からじ」。北朝鮮の人民にも、きっと春は来る。この度の金総書記の死去が「剥」から「一陽来復」への変移の時であることを希求する! 

一陽来復(1)

2011-12-22 18:02:06 | 日記
○妻亡くて一年五ヶ月冬至かな  楽翁

∇暦の上では、きょうが「冬至」。「暦便覧」には≪日南の限りを行て、日の短きの至りなれば也≫とある。北半球では昼が最も短く夜が最も長くなる日。来年1月6日の「小寒」、1月21日の「大寒」へと寒さは一段と厳しさを増す。そして2月4日の「立春」へと…。だが、実は見えないながらも春への橋渡しが、黙々と準備されている。所謂「一陽来復」の時でもある。≪災いを恨んだ年の暮れ、来年の賀状のあいさつ言葉に迷う人が多い。「一陽来復」の四文字を選んだ方もおられよう。衰えの極まった太陽が復活に転じる意味で、凶から吉に向かう例えでもある。…昔から、この日は柚子(ゆず)湯につかり、南瓜(かぼちゃ)や小豆(あずき)粥(がゆ)を食べて息災を願った。…そして、冬至を過ぎると師走も「数え日」となる。年内も指折り数えるほどになった日々を言い、せわしさは募る。先急ぎするような気持ちと、見送ってたたずむような思いが入りまじるときだ。…列島はクリスマス寒波の到来だが、冬至の日に一陽来復を願う心には、素朴な再生への祈りがある。早い日暮れに灯(とも)る明かりのどの窓にも、人の幸いがあればいい。≫(12/22 「天声人語」より)

∇私事ながら、1年5ヶ月前の7月22日、38年連れ添った家内が死去した。昨日、やゝ暖かい日和に恵まれたので、年末の墓参へと繰り出し、無事過ごせた一年を報告し、妻の“陰の加護”を感謝して来た。既に庭木の剪定・外回りの清掃も終え、新年を迎える準備が全て整った。そして「天声人語」ではないが、≪冬至を過ぎると師走も「数え日」≫。この数日の「数え日」に、改めて過ぎ来し方・行く末を振り返り、そろ/\“冬籠り”から抜け出して、残された僅かな晩節をさゝやかながら火灯してみようと考えている。それにしても大事件続きの一年だった。東日本大震災、アラブ諸国の民主化運動の高まり、タイの大洪水、そして欧州の通貨危機と米国ウオール街占拠等に見る「民主主義」の行方、ロシア・中国の市場経済化傾斜と歪、そして先日の金正日死去による北朝鮮動向 etc etc。急速に拡大進展する“グローバル化”が、ある意味で、寧ろ国際動乱の火種と化す。最早世界中のあらゆる事件が、全て自分に関係してくる。「対岸の火事」なる慣用句も消滅気味な昨今事情である。──こんなことを綴っていたら、先ほど家内の妹分だった「うまのすけ」さんから、月の命日に合わせたクリスマスカード(上掲写真)が贈られてきた。「人生いろ/\」だけど、こんな暖かい贈物を忘れずに送って下さる人がいる。人生、そう捨てたものでもない。有難う。「一陽来復」については次回雑話を記そう。…


水戸黄門

2011-12-21 15:21:07 | 日記
【水戸家壁書】 水戸光圀
一.苦は楽しみの種、楽は苦の種と知るべし。
一.小なる事は分別せよ。大なる事は驚くべからず。
一.……

≪<水戸黄門>通算1227回 42年間続いたドラマに幕──42年間続いたTBSの時代劇「水戸黄門」が、19日の最終回スペシャルで幕を閉じた。通算1227回だった。「水戸黄門」は1969年8月4日にスタート。「水戸のご老公」一行が商人に身をやつして全国を行脚し、悪を懲らすスタイルで親しまれた。中でもドラマ終盤に「この紋どころが目に入らぬか」と、印籠を見せて正体を明かす場面が人気を博した。この日は、歴代の「格さん」役のほか、由美かおるさん、あおい輝彦さんら、かつてのレギュラー陣が集合。長い旅路の最後に花を添えた。≫(12/19 毎日新聞)

∇黄門様も初代東野英治郎から西村晃、佐野浅夫、石坂浩二、里見浩太朗 と代わった。老生は東野英治郎の殆どを見た。石坂黄門と里見黄門は惰性の感なきにあらず。ギネス記録も達したことだし、もう十分だ。──徳川光圀公は徳川将軍第三代・家光公の寛永五年(1628)に生誕。水戸徳川家二代目の藩主。18歳の時、「史記」の伯夷列伝を読んで感奮するところがあり、30歳の折、江戸駒込の屋敷で学者を集めて「大日本史」の編纂事業を始めた。45歳に史局を小石川邸内に移し、「春秋左氏伝」から語を取って「彰考舘」と名づけた。元禄四年、水戸の西山荘に居を移し、事業を続けながら亡くなるまでの10年をこゝで過した。

∇「大日本史」は水戸藩の継続事業として光圀公死後も書き綴られ、全巻約400巻が完成したのは明治39年。朝廷と臣民との「君臣の義」を明らかにし、君臣の名分を正さんとした。光圀公は「大日本史」編纂事業にあたり、公自身は全国漫遊をしていないが、彰考舘の学者を派遣して資料を全国に広く求めた。儒学を中心とした広汎な学識と、西山荘で気さくに社寺民間の人々と交流した人柄の中から、自然と「世直し=勧善懲悪」の水戸黄門漫遊記が生まれたのであろう。光圀公が死去した際、江戸の町には次のような狂歌が広まったという。<天が下 二つの宝つきはてぬ 佐渡の金山 水戸の黄門>。 諡(おくりな)を義公、梅里と号した。

∇水戸家には光圀公の遺訓ともいえる「壁書」が遺されている。曰く、<苦は楽しみの種、楽は苦の種と知るべし><欲と色と酒とをかたきと知るべし><小なる事は分別せよ。大なる事は驚くべからず><分別は堪忍にありと知るべし><九分は足らず、十分はこぼるゝと知るべし>。(他略) 明治33年、小学校令が公布されて尋常小学校と高等小学校に分かたれた。それを機に「道徳教育及国民教育ノ基礎並其ノ生活ニ必須ナル普通ノ知識技能ヲ授クル」目的で、非常に中味の濃い、優れた小学読本が刊行された。例えば、光圀公の逸話。公が厳冬に、召使の女中等に暇を与えて或る製紙所を見学させた。彼女等は物珍しげに工場見学に行くのだが、寒中立ち通しで働き、氷水に原料を浸し、それを漉く老若男女の手が、あかぎれ・しもやけで荒れた姿を目の当たりにして、一枚の紙でさえ粗末にしなくなった、という…。ドラマは終わってもいいが、今こそ「世直し」黄門様がいて欲しい。

金王朝の行方

2011-12-20 17:26:18 | 日記
【不徳の君主の相場】
≪斉の景公、馬千駟(四千頭の馬)あり。死するの日、民、徳として称すること無し。≫=「馬千駟」は、四頭立て馬車1千台分の馬の意で、馬が四千頭ということ。すなわち、景公は四千頭もの馬をもつほど私腹を肥やしながら、重税を賦し、人民には何ら恩恵を与えなかったので、景公が死んだ日、誰も涙を流さなかった。(「論語」季子篇)

≪北朝鮮うわべの哀悼…陰では正恩氏を「ガキ」と──金正日総書記の死去発表後の北朝鮮内部の様子が20日、ソウルの脱北者らに伝えられた情報で明らかになってきた。厳冬の中、食糧難にあえぐ住民の様子について、「心底悲しんだ金日成(キムイルソン)主席逝去時と異なる雰囲気だ」との指摘が出ている。金日成主席よりカリスマ性において劣る金総書記と比べても、実績や住民への浸透度が乏しい金正恩(キムジョンウン)氏の新体制は今後、人心掌握で多くの困難に直面すると予想される。韓国の脱北者団体「自由北韓運動連合」の朴相学(パクサンハク)代表は読売新聞の取材に、北部・両江道の住民と19日、電話で話したと明らかにした。この住民は「19日は朝10時頃から、総書記死去のうわさが広まっていた。公開処刑や餓死は金総書記の時代になってひどくなった。正直言って、やっと死んでくれたと思う。国営テレビで悲しむ住民らが映っているが、あれは大半が演技だ」と語ったという。住民らが陰で金正恩氏を「ガキ」と呼んでいることも明かした。…≫(12/20 読売新聞オンライン)

∇又、≪他の韓国の脱北者団体の関係者によると、国境地帯に住む30代の露天商は「(外出禁止令が)恐ろしかったが、19日も午後に1時間ほど隠れて食糧を売った。表では(少なくとも)泣くふりをしないと連行されるから、皆泣いているが、本当は泣いていない者もいる」と携帯電話で伝えた。この関係者は「建国の父である金日成主席が死去した時は、みな地べたに座り込んで慟哭したものだ。庶民の心に以前では考えられない変化が起きたようだ」と話す。≫とも。他人に目立つほどの大袈裟な“フリ”を以て悼まないと≪連行されるから、皆泣いているが、本当は泣いていない者もいる≫。老生は「演技する人々たち」の「わざとらしい表情」を見ていて気持悪くなった。裏でそれを強要する金正日の親族と軍の中枢幹部。「金氏独裁体制」「先軍政治」の密を今後も吸い尽くすため、彼らは暫くは何でもするだろう。「史記」の「鹿を謂いて馬となす」という故事で知られる、所謂「馬・鹿の話」を思い出した。「ガキ」大将・金正恩氏らの運命を予知している気がするのだが──。

∇紀元前210年、秦の始皇帝没後、実権を握ったのは丞相・趙高であった。陳勝・呉広等が反乱を起こし、項羽や劉邦等も兵を挙げて秦朝打倒の反旗が各地に翻った。密かに二世帝を廃位せんとクーデターを企てていた趙高は、群臣が同調するかどうか確信が持てないので、一策を弄した。あるとき、趙高は二世帝に鹿を献じて「これは馬でございます」と言った。二世が笑って「丞相はどうかしている。鹿を馬だとは」と。二世が群臣に問うと、ある者は黙ったまゝ、ある者は「馬に相違ありません」と言って趙高に諂い、又ある者は「鹿でございます」と答えた。趙高は密かに鹿と言った連中を処罰した。以来群臣はみな趙高を恐れた。(「史記」始皇帝本紀)──彼はこういう姦計によって実権を握ったが、項羽が鉅鹿で秦軍を壊滅するに及び、その政治的責任を追及されるのを恐れて、クーデターを起こし、二世を自殺させた。そして趙高も、後継者に立てた子嬰によって刺殺された。独裁者たちは、「論語」に、≪死するの日、民、徳として称すること無し≫と記された、大国「斉」の景公の末路を思うべし!


金総書記死去

2011-12-19 17:40:52 | 日記
≪金正日総書記が死去=正恩氏に権力継承へ―北朝鮮情勢、不透明に──北朝鮮の朝鮮中央テレビが19日伝えたところよると、北朝鮮の最高指導者、金正日労働党総書記が17日午前、現地指導の際、過労のため列車の中で死去した。69歳だった。三男、金正恩中央軍事委員会副委員長(28)が権力を継承し、軍部を中心に体制維持が図られるとみられる。しかし、圧倒的な統率力で独裁体制を維持した金総書記の死により、北朝鮮をめぐる情勢は一層不透明となった。核兵器と弾道ミサイルの開発を進める北朝鮮の行方は予断を許さない…金総書記は心臓や腎臓に疾患があり、糖尿病も進行していた08年8月に脳血管の疾患で倒れ、一時動静が途絶えた。同年11月に現地指導などの活動を再開した。10年9月の党代表者会と中央委員会総会で後継者に確定した正恩氏は軍の支持を受けており、軍事優先の「先軍政治」体制が存続される見通し。拉致問題解決の見通しが立たない日朝関係も当面、大きく変化する可能性は低い。≫(12/19 時事通信)
 
∇金総書記支配下、権益を恣にしていた輩は「悲報に号泣」し、虐げられてきた人々は、腹中「朗報にバンザイ」したに違いない。韓国「歴史王朝」ドラマではないが、早くも裏側で熾烈な権力争奪劇が始まっている。三男、金正恩氏が権力を継承し、軍部を中心に体制維持が図られるとみられる、とされるが、まだ未知数だ。死因も≪現地指導の際、過労のため列車の中で死去した≫と報道されているが、どうだか…。北朝鮮の国営朝鮮中央テレビで金正日総書記の動静など重要報道を担当する女性アナウンサー、リ・チュンヒ氏が10月19日の放送を最後に50日以上、同テレビに出演していなかったことを邪推すれば、総書記の死亡時期は先月以前で、或は暗殺・クーデターも予想される。独裁政権下では、往往、最高権力者の死は、しかるべき時まで伏せられることが多い。孰れにせよ、日・米・韓政府や他の各国は、金総書記の死去が今後の北の体制や核活動を含む対外政策にどのように影響するか、“不測の事態”に備え情報の収集と分析に全力を挙げている。老生もテレビニュースを見るので、今日はこゝまで。