残照日記

晩節を孤芳に生きる。

水戸黄門

2011-12-21 15:21:07 | 日記
【水戸家壁書】 水戸光圀
一.苦は楽しみの種、楽は苦の種と知るべし。
一.小なる事は分別せよ。大なる事は驚くべからず。
一.……

≪<水戸黄門>通算1227回 42年間続いたドラマに幕──42年間続いたTBSの時代劇「水戸黄門」が、19日の最終回スペシャルで幕を閉じた。通算1227回だった。「水戸黄門」は1969年8月4日にスタート。「水戸のご老公」一行が商人に身をやつして全国を行脚し、悪を懲らすスタイルで親しまれた。中でもドラマ終盤に「この紋どころが目に入らぬか」と、印籠を見せて正体を明かす場面が人気を博した。この日は、歴代の「格さん」役のほか、由美かおるさん、あおい輝彦さんら、かつてのレギュラー陣が集合。長い旅路の最後に花を添えた。≫(12/19 毎日新聞)

∇黄門様も初代東野英治郎から西村晃、佐野浅夫、石坂浩二、里見浩太朗 と代わった。老生は東野英治郎の殆どを見た。石坂黄門と里見黄門は惰性の感なきにあらず。ギネス記録も達したことだし、もう十分だ。──徳川光圀公は徳川将軍第三代・家光公の寛永五年(1628)に生誕。水戸徳川家二代目の藩主。18歳の時、「史記」の伯夷列伝を読んで感奮するところがあり、30歳の折、江戸駒込の屋敷で学者を集めて「大日本史」の編纂事業を始めた。45歳に史局を小石川邸内に移し、「春秋左氏伝」から語を取って「彰考舘」と名づけた。元禄四年、水戸の西山荘に居を移し、事業を続けながら亡くなるまでの10年をこゝで過した。

∇「大日本史」は水戸藩の継続事業として光圀公死後も書き綴られ、全巻約400巻が完成したのは明治39年。朝廷と臣民との「君臣の義」を明らかにし、君臣の名分を正さんとした。光圀公は「大日本史」編纂事業にあたり、公自身は全国漫遊をしていないが、彰考舘の学者を派遣して資料を全国に広く求めた。儒学を中心とした広汎な学識と、西山荘で気さくに社寺民間の人々と交流した人柄の中から、自然と「世直し=勧善懲悪」の水戸黄門漫遊記が生まれたのであろう。光圀公が死去した際、江戸の町には次のような狂歌が広まったという。<天が下 二つの宝つきはてぬ 佐渡の金山 水戸の黄門>。 諡(おくりな)を義公、梅里と号した。

∇水戸家には光圀公の遺訓ともいえる「壁書」が遺されている。曰く、<苦は楽しみの種、楽は苦の種と知るべし><欲と色と酒とをかたきと知るべし><小なる事は分別せよ。大なる事は驚くべからず><分別は堪忍にありと知るべし><九分は足らず、十分はこぼるゝと知るべし>。(他略) 明治33年、小学校令が公布されて尋常小学校と高等小学校に分かたれた。それを機に「道徳教育及国民教育ノ基礎並其ノ生活ニ必須ナル普通ノ知識技能ヲ授クル」目的で、非常に中味の濃い、優れた小学読本が刊行された。例えば、光圀公の逸話。公が厳冬に、召使の女中等に暇を与えて或る製紙所を見学させた。彼女等は物珍しげに工場見学に行くのだが、寒中立ち通しで働き、氷水に原料を浸し、それを漉く老若男女の手が、あかぎれ・しもやけで荒れた姿を目の当たりにして、一枚の紙でさえ粗末にしなくなった、という…。ドラマは終わってもいいが、今こそ「世直し」黄門様がいて欲しい。