残照日記

晩節を孤芳に生きる。

政治の極致

2010-11-02 09:54:53 | 日記
善行は轍迹(てっせき)無し(「老子」第二七章)
  =真の善行には何の轍迹(わだちの跡)も残らない

∇<尖閣諸島沖の中国漁船衝突事件のビデオを巡り、自民党など野党は政府・与党に対し、一般への全面公開を強く求める構えだ。(11/2読売新聞)>そうだ。──老生は見ていないので分らないが、テレビ取材に応じた何人かの議員は明らかに意図的な違反だと言っている。一方で、「にっぽん改国」なるブログで、田中康夫議員は、<尖閣ビデオを観て期待外れだった。これが「衝突」なのか>と題して、<「衝突」「追突」「接触」の何れと捉えるか、批判を恐れず申し上げれば主観の問題ではないか、と思われる程度の「衝撃」なのです>と語っている。日本側も大袈裟に空騒ぎしていただけなのかも。文字通り“一衣帯水”の中国と、真の友好関係を保つのが国益ならば、与野党共に「己が手柄」を捨てゝ、超党挙げてこの問題に取り組むべきだ。

∇反日運動にまで発展している尖閣諸島沖事件には、中国国内の微妙な政治問題が絡んでいるとの指摘がある。即ち、貧富格差・失業率の増大による国内不満のはけ口、保守派との派閥争いと対日政策の関係を考慮した政治戦略等々の。又、ロシア大統領による北方領土訪問問題も、再来年の大統領選に向け、メドベージェフ氏が強い指導者ぶりを国民に示すためのPR道具だ、と。要するに中ロ共に、現政権の力量を誇張して見せるための政治的パフォーマンスの色が濃い。だが、政治の最重要課題である、“国民生活の安定”という大局的観点から見た場合、“領土問題”が日・中・露国にとって、どれほど根幹的問題だろうか? 「己が手柄」ばかりを誇示したがる与野党の党首・議員諸氏。<善行は轍迹(てっせき)無し>、こそ政治の極致なのですぞ!

∇こんな話はどうだ。──老子の弟子に庚桑楚という者がいた。地方長官になって某地を治めた。三年もすると、人々の生活が大いに富んだ。民衆は噂しあった。「彼が来た時は実際これでいけるか怪しんだ。ところが今では、日計すると勘定は不足するのに、どういう訳か一年の集計ではちゃんと余りがでる。(「日計して足らず、歳計して余りあり」)。こりゃあきっと聖人だ。民衆はありがたや、ありがたやと言うわけで社稷の神と一緒に祭ろうと言い出した。それを聞いた庚桑楚は、大きくため息をついて弟子に言った。「わしもまだまだだ。民衆の目につくようでは師匠(老子)の教えに達していない」と。(「荘子」庚桑楚編)

∇「海舟座談」(岩波文庫)にもこんな話が載っている。九十九翁という者が、<殿様(勝海舟)によばれて、何しに来たかと問われたので、「日本一の知恵者の顔を見たいので」というと、「誰が俺を日本一の知恵者と言ったか」といわれる。「世間の人が皆申します」というと勝様は歎息して「それなら俺は日本一の知恵者ではない。日本一の知恵者なら、世間の者には分からぬはずじゃ。我が智恵を人の前に隠すことが出来ぬようでは、俺は二流の人物じゃ」と言われた>と。

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