【日本人の気質】中江兆民
我那人は利害に明にして理義に暗し、事に従ふことを好みて考ふることを好まず。それ唯、考ふことを好まず。故に天下の最明白なる道理にして、之を放過して曾て怪しまず。…それ唯、考ふることを好まず、故に凡そ其の為す所残薄にして、十二分の處所に透徹すること能はず。今後に要する所は、豪傑的偉人よりも哲学的偉人を得るに在り。(「一年有半」より)
≪<菅首相>「脱原発」を明言…「将来なくてもいい社会実現」 菅直人首相は13日、首相官邸で記者会見し、今後のエネルギー政策に関し「原発に依存しない社会を目指すべきだと考えるに至った」と述べ、脱原発依存を進める考えを示した。その上で「計画的、段階的に原発依存度を下げ、将来は原発がなくてもやっていける社会を実現する」とし、将来的には原発を全廃する「脱原発」の姿勢を鮮明にした。ただ、今後のスケジュールや政府内での議論の進め方など具体論についての言及はなかった。…≫(7/14毎日新聞)
∇昨日の菅首相の記者会見について、早速、マスコミ・与野党議員・産業界・地方自治体等々が、賛否両論に分かれて喧々諤々やっている。新聞社説も真っ二つだ。言語道断と言わんばかりなのが読売・日経。読売は≪脱原発宣言 看板だけ掲げるのは無責任だ≫、日経は≪菅首相の「脱原発依存」発言は無責任だ≫。読売・日経が共通して危惧している点は、≪発電量は天候などで変動する。コストも高い。燃料費がかさんで電力料金が上がれば、産業の競争力低下を招く。工場の海外移転による空洞化も加速して、日本経済は窮地に立たされかねない。≫(読売)こと。又、≪首相には、福島第一原発の事故に伴う国民の不安に乗じ、脱原発を唱えることで、政権延命を図る思惑もあったのではないか。場当たり的言動が、多くの混乱を引き起こしている。首相は、そのことを自覚すべきだ。≫(読売)、≪中長期的な国家戦略は新政権の下で、腰を落ち着けて議論するのが筋である。≫(日経)ということ。両紙に「脱原発への方向」そのものへの“主張”が欠如し、「経済界」への偏り過ぎ、そして相変わらず「菅降ろし」志向が背景に透けて見えるのが残念だ。
∇一方、菅首相発言の方向性は評価、継続的努力による「脱原発社会」の実現を主張するのが毎日・朝日だ。毎日は≪「脱原発」表明 目指す方向は評価する──その考え方については基本的に支持し、評価したい≫、朝日は≪脱原発 政治全体で取り組もう──首相は目標年次こそ示さなかったが(当紙と)方向性は同じだ。首相の方針を歓迎し、支持する≫としている。毎日・朝日が首相発言の唐突性と具体性の乏しさを指摘するのは読売・日経と変わらない。たゞ、毎日・朝日は退陣表明した首相が長期戦略を述べること自体に疑義を差し挟むことはしていない。曰く、≪いずれ遠くない時期に退陣するであろう首相だ。まず、政府・与党としての考えをまとめる作業を急いでもらいたい。…まさか「脱原発」を自らの延命の材料にするつもりはなかろう。次期代表を決める代表選でもきちんと論議すべきである。≫(毎日)≪首相が交代した後も、この流れが変わらぬような道筋をつけてほしい。…いまこそ、与野党を問わず、政治全体として脱原発という大目標を共有して、具体化へ走り出そう。≫(朝日)と首相個人の思いつき発言で終わらぬ継続的努力を訴求している。
∇さて、「ものごとの評価」、特に評価すべき対象が複雑で、将来にまたがるような「ものごとの評価」は難しい。大勢の盲人が象の体をなでて、それぞれが自分の触れた部分の印象だけから象について述べたというたとえからできた諺である“群盲、象を評す(撫でる)”の如く、“一斑を見て全豹を卜(ぼく)す”ハメに陥りやすい。即ち、評価が単にその一端のみを以てなされるという危険な陥穽にはまる場合が多い。しかも厄介なことに、多くの場合、問題が複雑になればなるほど、こうした「ものごとの評価」は、事実の正否よりも群盲の声量に影響されやすい傾向がある。我が国の言葉で言う“その場の空気”が決め手になってしまう。紛糾した会議に於ける結論は、<今までの議論の結果出てきた結論ではなく、その「空気」なるものであって、人が空気から逃れられない如く、彼はそれから自由になれない。≫、故に、≪内輪の会議等である対象を臨在感的に絶対化されたその場での「空気支配」を打ち破るには対象を相対化してみせる「水を差す」者の「自由」を確保しておくこと≫が欠かせない。≫(山本七平著「空気の研究」) 総じて「民意」なるものも、マスコミの「空気」に左右されやすい。老生がしきりにマスコミ批判している理由がその「雀の涙ほどの水を差す」ことである。今朝の朝日新聞「「社説余滴」に、タイミングよく「水を差す」松下秀雄政治担当論説委員の記事が載った。傾聴に値する優れた主張だと思うがどうだろう。
【「菅おろし」にみる政治の病」】(「社説余滴」より)
≪ともかく早く辞めろ、さあ退け、の大合唱だ。私たちの論説委員室でも、声量はしだいに高まっている。この「菅おろし」の過熱ぶりに、私は強い違和感を覚える。菅直人首相の続投を唱えているのではない。「退陣3条件」を整え、来月には辞めてもらうしかないだろう。それでも、ふだんは立場の違う政治家やメディアなどが寄ってたかって引きずりおろす様子は、溺れる犬をたたくようにみえて気にくわない。こんなやり方に、日本政治の病理が見える。原発を例にとろう。「いずれは脱原発」と考える私からみれば、菅さんの言っていることは、そうずれてはいない。自然エネルギーの普及は急務だし、原発のストレステストもやるべきだ。もちろん文句はある。指示が遅い、内閣の足並みをそろえてくれ……。それを批判するのは当然としても、「とにかく辞めろ」と騒げば、原発を守りたい人たちと同じ動きになる。脱原発に向かう次のリーダーの目星もつけずに菅おろしを急げば、原発推進派を利する。合理的ではない。「けしからん」の一点のみで手を組むのは危うい。…(中略)…次の政権を「つくる」ための議論より、「おろす」ことに血道を上げる。そんな理性的でない対応こそが、日本政治の病理であり、短命政権と政治の混迷を招いてきた。ドイツは戦後、過去を反省して、後任を決めないと首相を不信任できない「建設的不信任」制度を設けた。日本も、その精神に倣ってはどうか。ポスト菅は誰か。新首相のもとで与野党はどう協力し、何を実現させるか。菅おろしに明け暮れるより、「次」の議論を進めるのだ。≫
我那人は利害に明にして理義に暗し、事に従ふことを好みて考ふることを好まず。それ唯、考ふことを好まず。故に天下の最明白なる道理にして、之を放過して曾て怪しまず。…それ唯、考ふることを好まず、故に凡そ其の為す所残薄にして、十二分の處所に透徹すること能はず。今後に要する所は、豪傑的偉人よりも哲学的偉人を得るに在り。(「一年有半」より)
≪<菅首相>「脱原発」を明言…「将来なくてもいい社会実現」 菅直人首相は13日、首相官邸で記者会見し、今後のエネルギー政策に関し「原発に依存しない社会を目指すべきだと考えるに至った」と述べ、脱原発依存を進める考えを示した。その上で「計画的、段階的に原発依存度を下げ、将来は原発がなくてもやっていける社会を実現する」とし、将来的には原発を全廃する「脱原発」の姿勢を鮮明にした。ただ、今後のスケジュールや政府内での議論の進め方など具体論についての言及はなかった。…≫(7/14毎日新聞)
∇昨日の菅首相の記者会見について、早速、マスコミ・与野党議員・産業界・地方自治体等々が、賛否両論に分かれて喧々諤々やっている。新聞社説も真っ二つだ。言語道断と言わんばかりなのが読売・日経。読売は≪脱原発宣言 看板だけ掲げるのは無責任だ≫、日経は≪菅首相の「脱原発依存」発言は無責任だ≫。読売・日経が共通して危惧している点は、≪発電量は天候などで変動する。コストも高い。燃料費がかさんで電力料金が上がれば、産業の競争力低下を招く。工場の海外移転による空洞化も加速して、日本経済は窮地に立たされかねない。≫(読売)こと。又、≪首相には、福島第一原発の事故に伴う国民の不安に乗じ、脱原発を唱えることで、政権延命を図る思惑もあったのではないか。場当たり的言動が、多くの混乱を引き起こしている。首相は、そのことを自覚すべきだ。≫(読売)、≪中長期的な国家戦略は新政権の下で、腰を落ち着けて議論するのが筋である。≫(日経)ということ。両紙に「脱原発への方向」そのものへの“主張”が欠如し、「経済界」への偏り過ぎ、そして相変わらず「菅降ろし」志向が背景に透けて見えるのが残念だ。
∇一方、菅首相発言の方向性は評価、継続的努力による「脱原発社会」の実現を主張するのが毎日・朝日だ。毎日は≪「脱原発」表明 目指す方向は評価する──その考え方については基本的に支持し、評価したい≫、朝日は≪脱原発 政治全体で取り組もう──首相は目標年次こそ示さなかったが(当紙と)方向性は同じだ。首相の方針を歓迎し、支持する≫としている。毎日・朝日が首相発言の唐突性と具体性の乏しさを指摘するのは読売・日経と変わらない。たゞ、毎日・朝日は退陣表明した首相が長期戦略を述べること自体に疑義を差し挟むことはしていない。曰く、≪いずれ遠くない時期に退陣するであろう首相だ。まず、政府・与党としての考えをまとめる作業を急いでもらいたい。…まさか「脱原発」を自らの延命の材料にするつもりはなかろう。次期代表を決める代表選でもきちんと論議すべきである。≫(毎日)≪首相が交代した後も、この流れが変わらぬような道筋をつけてほしい。…いまこそ、与野党を問わず、政治全体として脱原発という大目標を共有して、具体化へ走り出そう。≫(朝日)と首相個人の思いつき発言で終わらぬ継続的努力を訴求している。
∇さて、「ものごとの評価」、特に評価すべき対象が複雑で、将来にまたがるような「ものごとの評価」は難しい。大勢の盲人が象の体をなでて、それぞれが自分の触れた部分の印象だけから象について述べたというたとえからできた諺である“群盲、象を評す(撫でる)”の如く、“一斑を見て全豹を卜(ぼく)す”ハメに陥りやすい。即ち、評価が単にその一端のみを以てなされるという危険な陥穽にはまる場合が多い。しかも厄介なことに、多くの場合、問題が複雑になればなるほど、こうした「ものごとの評価」は、事実の正否よりも群盲の声量に影響されやすい傾向がある。我が国の言葉で言う“その場の空気”が決め手になってしまう。紛糾した会議に於ける結論は、<今までの議論の結果出てきた結論ではなく、その「空気」なるものであって、人が空気から逃れられない如く、彼はそれから自由になれない。≫、故に、≪内輪の会議等である対象を臨在感的に絶対化されたその場での「空気支配」を打ち破るには対象を相対化してみせる「水を差す」者の「自由」を確保しておくこと≫が欠かせない。≫(山本七平著「空気の研究」) 総じて「民意」なるものも、マスコミの「空気」に左右されやすい。老生がしきりにマスコミ批判している理由がその「雀の涙ほどの水を差す」ことである。今朝の朝日新聞「「社説余滴」に、タイミングよく「水を差す」松下秀雄政治担当論説委員の記事が載った。傾聴に値する優れた主張だと思うがどうだろう。
【「菅おろし」にみる政治の病」】(「社説余滴」より)
≪ともかく早く辞めろ、さあ退け、の大合唱だ。私たちの論説委員室でも、声量はしだいに高まっている。この「菅おろし」の過熱ぶりに、私は強い違和感を覚える。菅直人首相の続投を唱えているのではない。「退陣3条件」を整え、来月には辞めてもらうしかないだろう。それでも、ふだんは立場の違う政治家やメディアなどが寄ってたかって引きずりおろす様子は、溺れる犬をたたくようにみえて気にくわない。こんなやり方に、日本政治の病理が見える。原発を例にとろう。「いずれは脱原発」と考える私からみれば、菅さんの言っていることは、そうずれてはいない。自然エネルギーの普及は急務だし、原発のストレステストもやるべきだ。もちろん文句はある。指示が遅い、内閣の足並みをそろえてくれ……。それを批判するのは当然としても、「とにかく辞めろ」と騒げば、原発を守りたい人たちと同じ動きになる。脱原発に向かう次のリーダーの目星もつけずに菅おろしを急げば、原発推進派を利する。合理的ではない。「けしからん」の一点のみで手を組むのは危うい。…(中略)…次の政権を「つくる」ための議論より、「おろす」ことに血道を上げる。そんな理性的でない対応こそが、日本政治の病理であり、短命政権と政治の混迷を招いてきた。ドイツは戦後、過去を反省して、後任を決めないと首相を不信任できない「建設的不信任」制度を設けた。日本も、その精神に倣ってはどうか。ポスト菅は誰か。新首相のもとで与野党はどう協力し、何を実現させるか。菅おろしに明け暮れるより、「次」の議論を進めるのだ。≫