残照日記

晩節を孤芳に生きる。

コラムの読み方

2011-07-29 20:45:30 | 日記
【中国高速鉄道事故─追突の原因は信号設備の欠陥】
≪信号欠陥伏せたまま点検指示 中国鉄道省──中国浙江省温州市で23日夜に発生した高速鉄道事故で、鉄道省は追突の原因とされる信号の欠陥を事故の直後に把握しながら、公表しないまま、数時間後の24日未明に全国の駅に点検を指示していたことがわかった。中国政府の事故調査チームが同市で28日午前に開いた1回目の会議で、鉄道省次官が説明した。 事故車両を現場に埋めたことと同様に、都合の悪い情報を伏せたまま身内で処理しようとする同省の隠蔽(いんぺい)体質が改めて露呈した。…(当初は)「落雷事故による設備故障」「特殊な要因がもたらしたもの」などとして、具体的な説明を避けてきた。…≫(7/29 朝日夕刊)

∇昨日の「天声人語」を読むことにしよう。このコラムの起承転結は、流石に見事な出来栄えである。「起承転結」とは、周知の通り、≪1 漢詩、特に絶句の構成法。第1句の起句で詩意を言い起こし、第2句の承句でそれを受け、第3句の転句で素材を転じて発展させ、第4句の結句で全体を結ぶ。起承転合。2 物事の順序や、組み立て。≫(「大辞泉」)であるが、一般的に文章上では、≪2 物事の順序や、組み立て≫の意に用い、大雑把にいって「起」は文章の出だし、「結」は最後の結び・締め部分としていいだろう。当コラムは、その文章の出だしを、「まさか」起きることはないと大抵の人々が思っていたノルウェーで、連続テロ事件が起きたこと、逆に、中国浙江省温州市で23日夜に発生した高速鉄道事故は、なりふり構わず猛スピードで技術導入してきた中国の、誰もが懸念していた「やっぱり」事故だったことから書き起こした。コラムでよく用いられる手法である。この「まさか」と「やっぱり」を使って、「結」をこう締めた。≪福島の原発事故が世界に急報された時、技術力を知る親日家の反応は「まさか」、脱原発派は「やはり」だった。両者は今、政治不在の中でもがく国民にそろって同情を寄せている。≫ と。

∇先ず、コラムにしろ論説を読むにしろ、大切なのは“事実確認”だ。当コラムでは、中国の列車事故を≪発展の順序を踏まない、国家による「スピード違反」である。雷神の気まぐれで脱線するような代物に、人民を乗せてはいけない≫としているが、この≪雷神の気まぐれで脱線するような代物≫という表現は即刻訂正しなければならない。間違いだからである。冒頭に引用した今日の夕刊記事に≪鉄道省は追突の原因とされる信号の欠陥を事故の直後に把握しながら≫云々とあるように、事故原因は「信号設備の欠陥」にあったようで、「落雷事故による設備故障」ではなかったからである。孰れにせよ、温家宝首相が事故原因究明の指示を出したことが分っていた時点での「早とちり」は決定的ミスで、読者に謝罪或は弁明する必要がある。報道は第一に「正確を期す」ことが求められる筈だから。「天声人語」を「書き写しノート」に綴っている生徒たちに侘びを入れるべきだろう。次に≪汚職も絡み、強権体制の下で命を惜しむのは河清をまつがごとし。日本に生まれた幸運を思う。≫についてだ。先ず、唐突に使用された≪河清をまつがごとし≫を説明しよう。普段余り使われない喩えには要注意が必要である。

∇儒学者必読の古代中国の文献に「四書五経」なるものがある。「大学」「中庸」「論語」「孟子」を「四書」といい、「詩経」「書経」「易経」「礼記」そして「春秋」(注釈の一つに「春秋左氏伝」)を「五経」という。その「春秋左氏伝」襄公八年に次の記事がある。≪楚が鄭に進攻してきた。大臣達の意見が二つに割れた。一方は楚に従おうと主張し、もう一方は晋の救援を待とう、と。侃々諤々の議論が続いた。遂に宰相が決断した。「詩経」(周詩)に<河の清(す)むを俟つも、人寿幾許ぞ。兆してこゝに謀ること多ければ、職として競い網をなす(黄河の水が澄むのを待つように、いつまでも待っていては人の寿命がもたない。かといって、占いに頼れば謀ることが多すぎて、網にかかるように身動きがとれない)>と。謀る人多ければ、意見もまちまちで、事の成就は難しくなる。今や民は危急存亡の時、当座は楚について民の難儀を緩め、晋軍が来たら、その時はその時で晋に従えばよい、と。≫──この故事から「河清(かせい)を俟つ」は、≪いくら待っても、望みの達せられないこと。≫(「広辞苑」)

∇要するに天声人語子の、≪汚職も絡み、強権体制の下で命を惜しむのは河清をまつがごとし。日本に生まれた幸運を思う。≫は、汚職絡みで、強権体制(一党独裁で強権政府主導体制)下の中国では、いくら待っても命を惜しむことなど期待できない。日本に生れてよかった、と言うのである。故事のいわれを懸命に調べてきた先生の話を聞いて、意味を理解した子供達は、あゝ、中国はひどい国なんだ、日本に生まれてよかった、と思うに違いない。しかし一転、そうじゃないよ、と来る。≪無論、弱い政権で助かったという意味ではない。福島の原発事故が世界に急報された時、技術力を知る親日家の反応は「まさか」、脱原発派は「やはり」だった。両者は今、政治不在の中でもがく国民にそろって同情を寄せている。≫ と。事故勃発時、親日家の人々は、日本は世界に冠たる技術立国故原発にも最高レベルの保全策がなされている筈だから、皆な「まさか」と思い、技術過信するべからず、として脱原発を唱えていた人々は「やっぱり」起きた、と思っただろう、というのである。これはその通りだろう。だがエピローグの“落し文句”、≪両者は今、政治不在の中でもがく国民にそろって同情を寄せている。≫が、「牽強付会」で、“策士策に溺れる”体の「蛇足」となった。

∇中学・高等学校では、大抵このコラムを読んだ後、コラムの主旨は何かを問われる筈だ。その意味でこの「結」は重要部分となる。こゝで天声人語子は、≪両者は今、政治不在の中でもがく国民にそろって同情を寄せている。≫という、都合よき虚構を作為している。平たく言えば、この文章は、親日家と脱原発派の人々は、共に今、①≪政治不在の中でもがく国民≫に、②≪そろって同情を寄せている≫となる。先ず≪政治不在の中でもがく国民≫、即ち、政局の混迷や事故処理のもたつきに国民が苛立っているのは事実だろう。だが、≪そろって同情を寄せている≫か。親日家も脱原発派も、≪同情≫どころか、早期解決に向けて一刻も早い事故収拾を希求すると同時に、今後のエネルギー政策の行方を注視している筈だ。天声人語子は、「まさか」と「やっぱり」を使って、今の「政治不在」について○○を言いたかったのだが、最後の抽象的な「結」語が、それをあいまいにしてしまった。≪同情を寄せている≫からどうなのだ! それと、中国の悪口はほど/\にしなくては。我が国にも≪命を惜しむのは河清をまつがごとし≫の同類事実が現前しているのだから。例えば、経済産業省原子力安全・保安院のやらせ問題が発覚している。≪海江田氏によると、経産省主催のシンポジウムで、2006年6月には四国電力に、07年8月には中部電力に対し、国が社員らに発言を行うよう要請。海江田氏は「(要請したのは)保安院だと思う」と述べた。≫(7/29朝日新聞) 今日はこゝまで。

最新の画像もっと見る