≪絶句≫ 杜甫
江碧鳥逾白 江は碧(みどり)にして 鳥逾(いよいよ)白く
山青花欲然 山はくして 花 然(も)えんと 欲す
今春看又過 今春 看(みすみす) 又た 過ぐ
何日是歸年 何(いづれ)の日か 是れ 歸年ならん
大河は碧(ふかみどり)。
その水面上を真白い鳥が飛ぶ。目にしみるように。
山は青(さみどり)。
そしてあちこちに今まさに咲き誇る赤い花、花、花。
今年の春も又、このようにしてむざむざと過ぎてゆく。
何もできぬまゝ──。
いつになったら故郷に帰れるのだろう。
そしてその時は来るのだろうか?!
∇今回は震災や政治の話題は一休みして、桜余話。その美貌ゆえにクレオパトラ、楊貴妃とならんで、世界3大美人といわれた”桜の精”小野小町の四方山話でもしよう。小野小町は六歌仙・三十六歌仙の一人。平安時代前期9世紀頃の女流歌人。後宮に仕えていたことは確からしい。「小町」の名から、姉と共に仁明天皇の更衣であったと見る説が有力である。──奈良時代末、怪僧・道鏡の画策により皇位継承が揺れ動いた事件も鎮まった後、794年、桓武天皇は、政治刷新の意図を以て京都に遷都した。(平安京遷都は、「794=鳴くよ鶯平安京」と、語呂合わせで覚えたものだ) 以後鎌倉幕府が開かれるまでの約400年間を平安時代と呼ぶ。天皇は強いリーダーシップを示して政治改革を推進し、坂上田村麻呂を征夷大将軍に任じて東北地方を納め、九州から東北まで律令国家体制を遍くすべく鋭意専心して、朝廷の基盤を固めた。
∇そして平安京遷都12年後の806年、桓武天皇死去に伴い平城天皇が即位した。が、病弱のため809年に弟の嵯峨天皇に皇位を譲った。810年、平城上皇の側近であった藤原薬子が、兄の仲成と上皇の復位を謀って乱を起こしたが、天皇に鎮圧された。その後大きな事件は起らず、823年に嵯峨天皇は淳和天皇に譲位して上皇となる。833年、仁明天皇が即位して842年に崩じるが、その間、嵯峨上皇は院政を仕切り、絶対権力をもった家父長として君臨した。嵯峨天皇─上皇時代は極めて政情は安定し、宮廷は繁栄し、中国文化の影響下国令が整備され、「令義解」などが編纂されたり、「凌雲集」をはじめとする勅撰漢詩集も相次いで編纂された。唐から帰朝した空海が「延暦寺」を建立し、嵯峨天皇も彼らと盛んに交流して、宮廷に詩文が大流行した。この「よき平安時代」に生を享けて歌人としてもてはやされ、数奇な生涯を閉じたのが小野小町である。
∇小野小町は秋田美人の元祖でもあり、数々の逸話が残っているが、不思議なことに生没年は不詳で、謎多き伝説の女性である。一般的には秋田県の雄勝町を出生地とされる。父は出羽の国の郡司として京から赴任してきた小野良実又は出羽守小野滝雄、母は土地の豪族の娘・大町子であったとされている。二人の間に生まれた娘は「小町」と名付けられた(後述参照)。幼い頃から歌や踊りはもちろん、琴、書道となんでも上手にこなし都の風習や教養も身につけた。中でも特に和歌に抜群の才能を発揮した。13才の頃に郡司の任期が終わり小町は父の帰国に従って都に上がり、さらに和歌の道に励んだ。そして、父の勧めにより宮中に入り、仁明天皇の後宮とよばれる“美女三千人”の中で暮らすことになった。やがて小町はその美貌と才能故に、若い貴族たちにもてはやされ時の人となる。
∇しかしそれも束の間、一説には藤原氏ら貴族の抗争により、天皇から遠ざけられ、同僚からの妬みにもあい、宮中では辛い日々を強いられた。そして仁明天皇の逝去にともない、小町は後宮を去ったのである。それからの小野小町には、古今・後撰の歌から想像されたのであろう、小町との贈答で知られる僧正遍照や色男・在原業平などとの恋物語があったとか、文屋康秀の任地三河の国に行ったとか、武蔵の国から陸奥へと旅を続けたとか記録不詳の逸話が添えられる。その中でも最も有名なのが深草少将との話であり、能の「通い小町」の題材にもなっているそうである。以下、雄勝町有志で作った「小野小町の絵本」という優れた絵本の内容などを拝借して“さわり部分”のみを記述してみることにする。
∇小町は、うるさい都の暮らしがいやになり、故郷のことばかりを思うようになった。そんなとき、深草の少将から、こんな和歌が届けられた。<恋ひ死なむ身はおしからぬ後の世の罪つむ君の身こそかなしき>。私は恋死にすることは惜しくない、でもそれが貴女のせいだと知れれば、貴女は罪びとになる。それが悲しくて死ねないのです、と。小町は、この和歌にときめいたが、望郷の念もだしがたく、返歌を贈って都をあとにした。小町が書や琴そして和歌に親しんで、都の憂さを忘れかけた頃、深草の少将から手紙が届いた。「会いたい」と。小町はすぐに少将と会おうとせず、「わたしを心から慕ってくださるなら、高土手に毎日一株づつ亡き母が好きだった芍薬を植えて百株にしていただけませんか。約束通り百株になりましたら、あなたの御心にそいましょう」と、伝えた。
∇少将はこの返事をきいて野山から芍薬を堀り取らせ、植え続けた。一株づつ植えては帰っていく毎日。(実は小町は、この頃疱瘡を患っていたのだと言われている。百夜のうちに疱瘡も治るだろうと、磯前神社の清水で顔を洗い、早く治るよう祈っていたのだ、と)。 深草少将は一日も欠かすことなく芍薬を植え続けた。いよいよ百日目の夜。この日は秋雨が降り続いたあとで、川にかかった柴で編んだ橋はひどく濡れていた。「今日でいよいよ百本」。小町と会える日がきたと喜び、従者がとめるのもきかず、勢いこんで百本目の芍薬をもって出かけた。しかし、少将は橋ごと流され、不幸にも亡くなってしまった。悲嘆に暮れた小町は世を避け、別当山にある岩屋洞に籠り、少将のために、香をたき、経を読み、自像を刻んだりして、残りの一生を静かに終えた。享年92歳と伝えられている。
∇──ところで、「小町」とは平安時代の後宮での呼び名で、同じ「町」名前を持つ姉妹がいたと考えられ、妹を「小さい町」すなわち「小町」と呼んだとする説がある。一方、永井路子著「歴史をさわがせた女たち」(庶民篇)に、平安朝の戸籍をのぞくと意外なことを発見する、として次のように述べられている。現存する平安朝の文書集録である「平安遺文」という書物の讃岐国入野郷の戸籍に、小町とよく似た名前がずらりと並んでいる。日下部今町女とか山口石町女とか。そうすると何町女というのは実は貴人や後宮での呼び名ではなく、当時のありふれた名前だったのではないか。それがいつのまにか美女の代名詞になってしまったようだと。「彼女達がそれを知ったら、どんな顔をするだろう」と皮肉まで雑えながら。……
∇又、「秋田音頭に」 ♪ 秋田のおなご、なんしてきれだと聞くだけ野暮だんす、小野小町の生まれだ所、おめはん 知らねのげ~、と歌われているが、小野小町が秋田訛りのズーズー弁をを喋っていたとしたら?云々等々と、絶世の美女たるに難癖をつけたがる向きもあるようだが、まあ、そう嫉妬しないで欲しい。小野小町は”桜の精”、願わくば謎多き伝説の女性のまゝであって欲しいものだ。最後に、小町の代表作を幾つかあげておこう。小町の和歌は総じて侘しい。紀貫之は「古今和歌集」の「仮名序」で、彼女の作風を「古の衣通姫(そとほりひめ)の流なり、あわれなるようにてつよからず、言わばよき女の悩めるところあるに似たり 強からぬは女のうたなればなるべし」と評している。例の允恭天皇の”桜の精”「弟姫」の流れを汲む歌人だ、と。──
○花の色はうつりにけりないたづらにわが身世にふるながめせしまに
○色みえでうつろふものは世の中の人の心の花にぞありける
○はかなしや我が身のはてよあさみどり野辺にたなびく霞と思へば
○思ひつつぬればや人の見えつらむ夢としりせばさめざらましを
○うたたねに恋しき人を見てしより夢てふ物はたのみそめてき
○卯の花のさける垣ねに時ならでわがごとぞなくうぐひすのこゑ
○ともすればあだなる風にさざ波のなびくてふごと我なびけとや
江碧鳥逾白 江は碧(みどり)にして 鳥逾(いよいよ)白く
山青花欲然 山はくして 花 然(も)えんと 欲す
今春看又過 今春 看(みすみす) 又た 過ぐ
何日是歸年 何(いづれ)の日か 是れ 歸年ならん
大河は碧(ふかみどり)。
その水面上を真白い鳥が飛ぶ。目にしみるように。
山は青(さみどり)。
そしてあちこちに今まさに咲き誇る赤い花、花、花。
今年の春も又、このようにしてむざむざと過ぎてゆく。
何もできぬまゝ──。
いつになったら故郷に帰れるのだろう。
そしてその時は来るのだろうか?!
∇今回は震災や政治の話題は一休みして、桜余話。その美貌ゆえにクレオパトラ、楊貴妃とならんで、世界3大美人といわれた”桜の精”小野小町の四方山話でもしよう。小野小町は六歌仙・三十六歌仙の一人。平安時代前期9世紀頃の女流歌人。後宮に仕えていたことは確からしい。「小町」の名から、姉と共に仁明天皇の更衣であったと見る説が有力である。──奈良時代末、怪僧・道鏡の画策により皇位継承が揺れ動いた事件も鎮まった後、794年、桓武天皇は、政治刷新の意図を以て京都に遷都した。(平安京遷都は、「794=鳴くよ鶯平安京」と、語呂合わせで覚えたものだ) 以後鎌倉幕府が開かれるまでの約400年間を平安時代と呼ぶ。天皇は強いリーダーシップを示して政治改革を推進し、坂上田村麻呂を征夷大将軍に任じて東北地方を納め、九州から東北まで律令国家体制を遍くすべく鋭意専心して、朝廷の基盤を固めた。
∇そして平安京遷都12年後の806年、桓武天皇死去に伴い平城天皇が即位した。が、病弱のため809年に弟の嵯峨天皇に皇位を譲った。810年、平城上皇の側近であった藤原薬子が、兄の仲成と上皇の復位を謀って乱を起こしたが、天皇に鎮圧された。その後大きな事件は起らず、823年に嵯峨天皇は淳和天皇に譲位して上皇となる。833年、仁明天皇が即位して842年に崩じるが、その間、嵯峨上皇は院政を仕切り、絶対権力をもった家父長として君臨した。嵯峨天皇─上皇時代は極めて政情は安定し、宮廷は繁栄し、中国文化の影響下国令が整備され、「令義解」などが編纂されたり、「凌雲集」をはじめとする勅撰漢詩集も相次いで編纂された。唐から帰朝した空海が「延暦寺」を建立し、嵯峨天皇も彼らと盛んに交流して、宮廷に詩文が大流行した。この「よき平安時代」に生を享けて歌人としてもてはやされ、数奇な生涯を閉じたのが小野小町である。
∇小野小町は秋田美人の元祖でもあり、数々の逸話が残っているが、不思議なことに生没年は不詳で、謎多き伝説の女性である。一般的には秋田県の雄勝町を出生地とされる。父は出羽の国の郡司として京から赴任してきた小野良実又は出羽守小野滝雄、母は土地の豪族の娘・大町子であったとされている。二人の間に生まれた娘は「小町」と名付けられた(後述参照)。幼い頃から歌や踊りはもちろん、琴、書道となんでも上手にこなし都の風習や教養も身につけた。中でも特に和歌に抜群の才能を発揮した。13才の頃に郡司の任期が終わり小町は父の帰国に従って都に上がり、さらに和歌の道に励んだ。そして、父の勧めにより宮中に入り、仁明天皇の後宮とよばれる“美女三千人”の中で暮らすことになった。やがて小町はその美貌と才能故に、若い貴族たちにもてはやされ時の人となる。
∇しかしそれも束の間、一説には藤原氏ら貴族の抗争により、天皇から遠ざけられ、同僚からの妬みにもあい、宮中では辛い日々を強いられた。そして仁明天皇の逝去にともない、小町は後宮を去ったのである。それからの小野小町には、古今・後撰の歌から想像されたのであろう、小町との贈答で知られる僧正遍照や色男・在原業平などとの恋物語があったとか、文屋康秀の任地三河の国に行ったとか、武蔵の国から陸奥へと旅を続けたとか記録不詳の逸話が添えられる。その中でも最も有名なのが深草少将との話であり、能の「通い小町」の題材にもなっているそうである。以下、雄勝町有志で作った「小野小町の絵本」という優れた絵本の内容などを拝借して“さわり部分”のみを記述してみることにする。
∇小町は、うるさい都の暮らしがいやになり、故郷のことばかりを思うようになった。そんなとき、深草の少将から、こんな和歌が届けられた。<恋ひ死なむ身はおしからぬ後の世の罪つむ君の身こそかなしき>。私は恋死にすることは惜しくない、でもそれが貴女のせいだと知れれば、貴女は罪びとになる。それが悲しくて死ねないのです、と。小町は、この和歌にときめいたが、望郷の念もだしがたく、返歌を贈って都をあとにした。小町が書や琴そして和歌に親しんで、都の憂さを忘れかけた頃、深草の少将から手紙が届いた。「会いたい」と。小町はすぐに少将と会おうとせず、「わたしを心から慕ってくださるなら、高土手に毎日一株づつ亡き母が好きだった芍薬を植えて百株にしていただけませんか。約束通り百株になりましたら、あなたの御心にそいましょう」と、伝えた。
∇少将はこの返事をきいて野山から芍薬を堀り取らせ、植え続けた。一株づつ植えては帰っていく毎日。(実は小町は、この頃疱瘡を患っていたのだと言われている。百夜のうちに疱瘡も治るだろうと、磯前神社の清水で顔を洗い、早く治るよう祈っていたのだ、と)。 深草少将は一日も欠かすことなく芍薬を植え続けた。いよいよ百日目の夜。この日は秋雨が降り続いたあとで、川にかかった柴で編んだ橋はひどく濡れていた。「今日でいよいよ百本」。小町と会える日がきたと喜び、従者がとめるのもきかず、勢いこんで百本目の芍薬をもって出かけた。しかし、少将は橋ごと流され、不幸にも亡くなってしまった。悲嘆に暮れた小町は世を避け、別当山にある岩屋洞に籠り、少将のために、香をたき、経を読み、自像を刻んだりして、残りの一生を静かに終えた。享年92歳と伝えられている。
∇──ところで、「小町」とは平安時代の後宮での呼び名で、同じ「町」名前を持つ姉妹がいたと考えられ、妹を「小さい町」すなわち「小町」と呼んだとする説がある。一方、永井路子著「歴史をさわがせた女たち」(庶民篇)に、平安朝の戸籍をのぞくと意外なことを発見する、として次のように述べられている。現存する平安朝の文書集録である「平安遺文」という書物の讃岐国入野郷の戸籍に、小町とよく似た名前がずらりと並んでいる。日下部今町女とか山口石町女とか。そうすると何町女というのは実は貴人や後宮での呼び名ではなく、当時のありふれた名前だったのではないか。それがいつのまにか美女の代名詞になってしまったようだと。「彼女達がそれを知ったら、どんな顔をするだろう」と皮肉まで雑えながら。……
∇又、「秋田音頭に」 ♪ 秋田のおなご、なんしてきれだと聞くだけ野暮だんす、小野小町の生まれだ所、おめはん 知らねのげ~、と歌われているが、小野小町が秋田訛りのズーズー弁をを喋っていたとしたら?云々等々と、絶世の美女たるに難癖をつけたがる向きもあるようだが、まあ、そう嫉妬しないで欲しい。小野小町は”桜の精”、願わくば謎多き伝説の女性のまゝであって欲しいものだ。最後に、小町の代表作を幾つかあげておこう。小町の和歌は総じて侘しい。紀貫之は「古今和歌集」の「仮名序」で、彼女の作風を「古の衣通姫(そとほりひめ)の流なり、あわれなるようにてつよからず、言わばよき女の悩めるところあるに似たり 強からぬは女のうたなればなるべし」と評している。例の允恭天皇の”桜の精”「弟姫」の流れを汲む歌人だ、と。──
○花の色はうつりにけりないたづらにわが身世にふるながめせしまに
○色みえでうつろふものは世の中の人の心の花にぞありける
○はかなしや我が身のはてよあさみどり野辺にたなびく霞と思へば
○思ひつつぬればや人の見えつらむ夢としりせばさめざらましを
○うたたねに恋しき人を見てしより夢てふ物はたのみそめてき
○卯の花のさける垣ねに時ならでわがごとぞなくうぐひすのこゑ
○ともすればあだなる風にさざ波のなびくてふごと我なびけとや