平和を作るのも平和を壊すのも、人の心ですから、平和でありたいと思うなら、自分の心を平和にし平和な心を保つこと以外にはないと思います。心を平和に保つためには真理(事実)をありのままに知ることが必要です。「求める愛」ではなくて、「あげる愛」「期待しない愛」つまり「慈しみ」、平和は「慈悲喜捨」の心から生まれる。これが真理。・・・ということで、さて、続きです。
宗教は憎しみの親
宗教の中においても、信仰は人々の平和を壊す原因になってしまう。主観を離れ、みな真理を確かめることに励むべきである。仏教はいかなる争いも認めません。
真理は主張するものではなく、確かめるもの
ブッダは「確かめなさい」と言うのです。ブッダの語ったことを自分で確かめれば、信仰に頼らず自分で発見した真理になります。その結果、心は平安になる。真理を知った人は腹が立たないのです。知らない人にも真理を教えてあげようとします。教えても理解しないのなら、「そのうち分かるから、まあ放っておきましょう」ということになるのです。真理を知ることで、心に平安が訪れます。問題も簡単に解決するのです。
(我らの信じるのが真理である、と主張したり押しつけたりすることから争いになるのですね。宗教がエゴになっているのです。自分のエゴをなくす努力が平和への道。押しつけなければならない真理は本当の真理ではないのです。)
愚者は正義の味方となり、智者は過ちを許す
イエス様は徹底して、「愛」というか、慈しみを語っている。それから他人を善いとか悪いとか判断することを戒めていた。人には人を判断することは出来ない。仏教も同じような考え方を持っている。誰にも他の人を判断する権利はありません。自分も他者も同じ。もし他者の過ちを見つけたら、「私もまた、いとも簡単に過ちを犯す人間である」と理解すべきです。しかし、全く自分を省みることをせず、他人に指をさすのが普通の人間のあり方なのです。間違いだらけの世界にあって、真理を貫いて生きるのがいかに難しいか。
「仏教は教えを信仰するのではなく、確かめてみる道です。それが仏教と他宗教の決定的に違う所です」
(正義なんてあてにならない。正義も結局エゴ。神になったつもりで人を裁く。大事なのは異論の成り立たない事実。事実に基づいて動くだけ)
本物の修行は決して苦ではありません
正しい宗教とは、自分は苦しまないし、他人にも苦しみを与えません。自分がひとりで修行するのです。それは自分にとって楽しいことだし、幸福を感じる。自分が修行をすることで、他人もいくばくか幸福になってしまう。このような教えを他人にも広げれば、幸福な人間はどんどん増えていく。このような宗教があるならば、世界は何のことなく幸せになります。修行を始めたときから、その人の人生は楽になります。
(確かに。これは実感。怒りを捨てるぞ、と意識する、いや、怒りなんて成り立たないと分かるだけですっごく楽になる。自分にも人にも優しくなる。怒りがないと幸福感が高まるね。うん。)
道徳は価値観ではなく真理です
お釈迦様は殺すことも殺させることも認めないし、苦行も認めません。不法なことは絶対しないという修行をすれば個人的にも幸せが得られるし、周りの人々もそれで幸福になると教える。
「異論があるなら真理ではありません。そこには戦いだけ生まれてくる。少し考えれば、異論が成り立つ教え自体が間違っていて、実行すると不幸になることが分かる。だから止めなさい」
異論は間違っていることにはなりません。相反する考え方の場合はもしかすると一方は真理かも知れない。しかし両方とも決定的な証拠を持っていないから、異論が成り立つのです。
賢い人は恨みを捨てる
「恨みは恨みを返すことでは消えません。恨まないことでのみ消える。これが永遠の真理です」(ダンマパダ5)
(争いが起こるということは、何かが間違っているのです。相手に納得してもらえないなら自分の言葉が適切でないか伝える方法が適切でないか自分が何か間違っている・・・かなんですね。伝える能力が足りないなら真理に基づいてとりあえず距離を置くしかない。慈悲喜捨の心で。短絡的に悪行為をしたら自滅ですから。)
”信じるものは救われる” いやいや、それ危ないから
”私を信じて・・・” いえ、自分で事実を確かめます
また長くなった。続きます
ユダヤ教から発生した、キリスト教、イスラム教は本家、元祖、本舗のような争い事が絶えません。
他人の宗教に口出し無用がいいですね。
カルトはだめですが・・・^^
したっけ。
ただ、私たちは平和に生きるだけ。
まちがって”積極的に”平和を壊さないように(←逆効果、悪循環にならないように)、危険を回避して生きたいです。^^;