まるちゃんの めざせ!快適シンプルLife

本当の幸せを見つけて・・・
  第2の人生を歩き出した
      まるちゃんの徒然日記
    
 

ようこそ

いらっしゃいませ! このブログは、まるちゃんのひとりごとを中心に テキトーに、マイペースで更新していきます。好きな読書記録や、菜園日記等もかねてます。一緒に元気になれるブログをめざしたいと思いますが、しょもないことも書いてます。ちなみに、いちおう人気ブログランキングと日本ブログ村に参加してます。遊びに来られたついでに、記事下か左サイドバーのボタンを2つポチ、ポチッとしてくださると嬉しいです。ゆっくり遊んでってくださいね。 あ、コメント・置き手紙・トラバ・ボケ・ツッコミご自由にどうぞ。

5.命の教育は事実から

2017年11月30日 | お釈迦様

>国のために死ぬとか、会社のために死ぬとか、宗教のために死ぬとかいうのは、ぜんぶごまかしです。誰かが目的を達するために洗脳しているのです。人間は、他者のために死ぬ必要はないのです。・・・この場合「自分の命は自分のものだ」と思ってかまいません。しかし同時に「自分の命は、みんなと協力しないと成り立たない」ということです。「みんなで仲良く、人を生かして自分も生きる」というのが正しい道なのです。

>誰かのために死んだら、仏教では失敗です。・・・誰も死なないほうがいいのです。

 

タコはどのように卵を守り育てるか・・・

>タコは二、三ヶ月間、飲まず食わずで卵を守るのです。その間、ずっと新鮮な水を卵に送っているのです。そこに魚がやって来て、大事な卵を食べてしまったりするのです。お母さんが一生懸命子育てをして、やっと孵化する頃には、お母さんのすべての能力と体力を使い果たして、もう、泳げない。そのタコのお母さんの身体を、魚たちがまだ生きているうちから食べ始めるのです。

こういう「事実」を、子供に見せるのが教育。「命を大切に」などの”お説教”からは学べません。子供には理解できません。

「母親が自分を育てるのに必死で、とても苦労している」ということがわかると、子供は(安心して)すくすく成長できなくなります。だから、子供が親の育てる苦しみを知るには、他の一切の生命を観察しなくてはならないのです。(動画DVDなど利用すればいい。けど、自然から学ぶのがいい)

命が何か知らないで、命を大切にすることができるわけがありません。「命とは」というより「生きるとは、どういうことなのか」と教えた方が話が早い。それには「生きること」より「死ぬこと」を教えるのが理解しやすい。

自然観察をすれば、、、生き物はちょっとしたことで死ぬ。「ちょっと間違ったら死にますよ」ということを知れば、「命がいかにもろいか」ということがわかるのです。人間も同じ。

ちょっとしたことで生命は死ぬのです。

このことを教えてあげれば、子供は危機から身を守ることを学ぶ。「どうすれば私は生きていられるのか」を考える。

死んでないから生きている。命があるとは死んでないということ。でも、生命はちょっとしたことで死んでしまうもろいもの・・・。

「自分の命は自分の勝手」にはならないという事実。
知らないうちに自分の管理できないところで生まれ、身体や社会に縛られて生きている。口に入れる物も勝手にはならない(飲み食いしないでいるわけにも、勝手に窒素だけ吸って生きるってわけにもいかない)

「お互い様でなんとか生きている」という事実。「生きることは大変なことだ」という事実。大変だ、と”言う”のではなくただ「事実」を見せてあげればいい。

>人間は、嘘を言わず、インチキをせず、現実に即して具体的に育てるべきです。

「生きることは大変だ」という事実を教え、勇気と忍耐を教えなくてはいけない。大人は自分が楽をするために子供を「管理」する。管理するから抑えられたエネルギーがいじめになって出てくる。管理ではなく、教育をしなくてはいけないのです。

子供の自殺の原因のほとんどが「いじめ」。大人は、日本社会は、子供に事実をなにも教えてない。まともに教えられる社会でもないのです(いじめ社会・妄想社会ですからね)。子供のことはみんなの責任なのに、先生をいじめたり、誰かに責任を押しつけたり。こんなおかしな社会だから、環境が悪すぎなのです。

 

では、どうやって「いじめ」を乗り越えていけばいいのか・・・。

次回へ続く。   (「自殺と『いじめ』の仏教カウンセリング」より) 

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4.善友になりたい & 怒りを解消する方法

2017年11月29日 | お釈迦様

もうちょっと続けます

心が怒りで壊れそうになっている人は、心の中の怒りを何とかして鎮めるなり吐き出すなりするのがいい。話を聞いてくれる善友や、カウンセラーは、怒りを吐き出させて受け止めてくれます。

病気になるのは危険のサイン。サインがあるのはいいことです。ここで弱っている心を少しでも癒しておかないと、怒りが大きくなりすぎて死んでしまうこともある。でも正論や説教は危険(圧力になる)萎縮したり反発するだけ。慌てず、ゆっくり傾聴と共感(理解)してあげることです。怒りを吐き出すには、何を言っても大丈夫(共感して、わかってもらえる)という安心感(怒りを吐き出す大きな器)が必要なんですね。

根治は、元気を取り戻して理性的にものが受け止められるようになってからです。自発的に学びたいと思えるようになってからでいい。なので、この本(「自殺といじめの仏教カウンセリング」)も、現在死にたい病の人は読まない方がいいかも。読むなら病気になる前かな。(病気の人が多いのが現実)

善友に、なりたいなあ・・・。大きな器を持ちたい。まだまだ精進が足らない

 

自殺ほど割の合わない行為はありません。100%損でしかないのだから。ただ自滅するだけ。

死んだ瞬間に、生まれます。
死ぬまで(現世)の怒り、暗い絶望感など(悪因)の結果は、次の新しい人生(人間ならね)で実現されます。自殺はただの行為です。悪因悪果ですから、新しい人生で”悪果”があらわれる。死んだからといって苦しみが終わるわけではないのです。

さらに、その死が、親や家族や友人など周りの人々をどれだけ苦しませることになるか。生きてれば、まだどうにでもできる可能性があるのに、、、どん底で死んでも何もいいことはない。どん底ならはい上がればいい。というか、どん底で上がれないと思っているのは、それ、「ただの妄想」ですから

だから、自殺はやめたほうがいい。(と、冷静に受け止められる人は死にませんね

人が自殺に追い込まれなくてすむ方法があります。それは、怒り(非存在欲)を解消することです。つまり、怒りの反対である「慈悲」の心を育てること。怒りと慈悲とは両立しない。慈悲の心を強制的に何が何でも育てるしかない。これが根本治療です。

それには、「慈悲の瞑想」がいい方法です。落ち着いて何度も、心をこめて読んでみましょう。慈悲の心で怒りが次第に消えていきます。神様とかにお願いするのではなく、そういう心を育てますという瞑想トレーニング?です。


  私は幸せでありますように。私の悩み苦しみがなくなりますように。私の願い事がかなえられますように。私に”悟りの光が”(”智慧が”でも)現れますように。私は幸せでありますように…(3回)

  私の親しい人々や生命が幸せでありますように。私の親しい人々や生命の悩み苦しみがなくなりますように。私の親しい人々や生命の願い事がかなえられますように。私の親しい人々や生命に悟りの光が現れますように。私の親しい人々や生命が幸せでありますように(3回)

  生きとし生けるものが幸せでありますように。生きとし生けるものの悩み苦しみがなくなりますように。生きとし生けるものの願い事がかなえられますように。生きとし生けるものに悟りの光が現れますように。生きとし生けるものが幸せでありますように(3回)

(できれば、「私の嫌いな人々や生命」「私を嫌っている人々や生命」にまで広げてみる。嫌いな生命ががなければ、生きとし生けるものでいい)

 

これで、慈悲喜捨の心を育てます。



余談ですが、、、
品格を言うなら相撲協会は、禁酒にしたらどうでしょう。
酒は理性をなくし、煩悩を抑えきれなくなり、問題をおこす元となります。酒は麻薬と同じ。怒りも酒のようなものです。弱い人間は
一時の快感に依存し、飲み(怒り)過ぎれば吐いたり病気になったり命を落としてしまうことも。強くて品格のある横綱を目指したいなら、酒(怒り)はいらない(障害)のでは?実際、酒なんて飲まなくても(飲まない方が安心して)幸せに生きられますからね。

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3.期待ゼロは立派な態度 怒ると破壊してしまう

2017年11月28日 | お釈迦様

昨日の記事のコメントに「精一杯生きてたら、そんなことは考えない」という貴重な言葉を頂きました。精一杯というのは「無理をせず、自分ができる精一杯」ということ。頑張りすぎて無理をするとつい、意識が「今、ここ」の現実ではなく、将来のことや過去のこと、他所のことに行ってしまう(暇すぎてという場合もあるけど、真面目な人は頑張りすぎのことが多い)


そして、(現実から逃げたくなったりして)将来や過去、他所のことを
「考えて」、「妄想」してしまうのですね。妄想と現実のギャップに苦しむ(自分はこうあるべきなのになぜ違う、べきだったのに、とかね)。悪循環にはまりこむ。
「現実」を受け止め(腹をくくって)「現実的に」自分にできる解決策などではなく・・・。考えてもどうしようもないことは「考えない」こと。できることだけやってればいい。

妄想(無明)が、怒りという煩悩を生みます。

「怒り」はあらゆるものを「破壊」します。まずは自分(精神、身体、自殺も)、物、他人、人間関係、社会、、、戦争やテロ行為も怒りです。しかも怒りは快感を伴うので、依存症になりやすい。本当に恐ろしい、麻薬、猛毒です。


ということで、「怒り」について。

怒り(人が不幸になる否定的な心のエネルギー)には、4つのグループがあります。

「怒り」(嫌なことがあると怒ってしまう)
「嫉妬」(なんで自分じゃないのかと怒る)
「物惜しみ」(自分の物を使ったり、あげたりするのを嫌がる)
「後悔」(自分を責める、攻撃する感情)

他に、「悲しみ」「悔しさ」「憎しみ」「恨み」「悩み」「執念深い感情」など、暗い感情はすべて怒りです。

人は何にでも怒っています。何もかもが怒りの対象です。どんだけ怒るねん、てくらいよく怒っている。みんな、当たり前のように怒ってますよ

見る物、触れる物など五欲の対象が「気に入らない」「手に入らない」「自分から離れる」「自分が離れなくてはいけない」といって怒ります。

自分に「体力がない」「知識がない」「才能がない」といって怒ります。

「世間(自分以外の人、社会)が自分を認めてくれない」「仕事・収入が自分の能力に合わない」「環境が自分に合わない」といって怒ります。

>本当に、何一つとして自分の思うようにはいきません。怒る原因はいくらでもあって、人間は怒らなければ生きていけないのです。

だからこそ、気をつけておかないと「怒りの奴隷」という苦しみにはまってしまうことになるのです。

>すべてに共通している点があります。それは「自分の期待がはずれると怒る」ということです。

>自分は全知全能の神様ではありません。
我々の「自分の期待はかなう」という思考は、勘違いもはなはだしいのです。希望が実現できるように着々と努力することが理性的で、正しい態度です。・・・着々と努力していても、やっぱりかなう希望よりかなわない希望のほうが、はるかに多くなるのです。

「期待ゼロ」は立派な態度なのです。

これを、理解しておくだけで、心は落ち着きます。期待しなければ、子どもが20点とって帰っても素直に喜べる(←ポジティブ思考)のです。期待は妄想

妄想するのをやめて、「期待どおり行かなくても当たり前だ」と理解しておくことで、何があっても「そりゃそうだわな。じゃ、どうするかな。」と明るく受け止めることができるようになる、てことです。(無常だからね

 

明るいでしょ?
「無常」を理解すれば悩まなくなります。
ま、日々精進ですな。(「自殺と『いじめ』の仏教カウンセリング」より)

 

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2 満たされない心で怒り(非存在欲)を溜め込むと死にたくなる

2017年11月27日 | お釈迦様

なぜ自殺したくなるのか、を仏教の立場で見てみれば、それはそういう本能があるから、ということになります。本能とは煩悩です。誰にでもある。ワタシは大丈夫、なんて他人事ではありません。

もう少し詳しく説明すれば、

「一切は無常であるという真理を理解しない無知な心」”無明”といい、無明から”渇愛”「尽きることのない欲望」が生まれる。
(”渇愛”により、”煩悩”が生まれ、”煩悩”によって生命は”輪廻”を繰り返してしまう。無明→渇愛→煩悩→輪廻

「無常」を理解している人は、自殺しません。煩悩のまま死んでも、問題は解決しないし、苦しみから解放されることもないのですから。そもそも、無常を理解してれば、自殺するような生き方にならない。

「満たされない心、乾いた状態」(渇愛)から苦しみは生まれます。

「五欲」・・・見たり、聞いたり、嗅いだり、味わったり、触れたりしたい、という欲。
「存在欲」・・・生き続けたい、死にたくない、という衝動。
「非存在欲」・・・破壊意欲。怒りです。

これら三種類の「渇愛」は誰でも感じることで、当たり前のことです。しかも、この渇愛のエネルギーが「生きるエネルギー」になっているのです。でも渇愛が大きくなると苦しくなるし、不幸になる。なのでこれを「理性」でうまくコントロールできるかどうかです。

死にたい(苦しい)人は、根本の解決にはならないけれど、
とりあえず美味しい物を食べたり、いい音楽を聴いたり、”五欲”を満たすことでエネルギーを補充した方がいい。とりあえず・・・。

または、心の中にある怒りを、書いたりしゃべったりして吐き出した方がいい。怒りは一種”快感”でもあるので、生きるエネルギーにもなりますが、ためてしまうと自分を破壊(自殺)してしまいます。死にたくなる人は、思い切り怒ればいいのです。そして、怒りをためないこと、出すことです。

怒りは快感でもありますが、とんでもない猛毒なのです。溜めてはいけません。
一番いいのは、怒りのない人間になる、明るく楽しく気楽な人格をつくることですが。それには、よき仲間(善友)をつくるといい・・・。

恐ろしい怒りについては、次回。

(「自殺といじめの仏教カウンセリング」より)

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『自殺と「いじめ」の仏教カウンセリング』アルボムッレ・スマナサーラ その1

2017年11月27日 | お釈迦様

仏教というと、「死を観察する」とか、「三毒(欲、怒り、無知)」や「執着」をなくすとか、そんなの楽しくもないし暗いし年寄りの生き方だ、、、と思われる方がおられるかもしれませんが、それは仏教を知らない人の大きな誤解。実はまったく正反対。仏教を学ぶと、心が晴れやかに明るくなります。死ぬまで明るく元気に生きることができるようになります。

なので、ここらでちょっと「自殺」「いじめ」問題について明るく考えてみたいと思います。暗くないよ~。

【自殺願望の正体を明らかにし、自殺が罪になる論理を示し、タコのお母さんから子供が学ぶことを教え、「キモイ」といじめられる子供の悩みに答える。仏教本来の智慧が冴えわたる抜本的なカウンセリング。】

帯にはこうあります。
>仏教では、自殺願望を当然と考えます。しかし、つらいから、いじめられたからと自殺する人を「腰抜け」ともいうのです。人生をサバイバルするために、ブッダの智慧を借りましょう。

人間には、本能として「五欲」「生存欲」「非生存欲」(三つ合わせて「渇愛」といいます)がある。誰でもみんな「非生存欲」をもっているのだから、自殺したくなるのは当たり前のことなのです。

といって、自殺をすすめるわけではなく、心を奮い立たせて生きる方がいいのです。自殺を美化してはいけません(自殺する人はただ気の毒です)。長老は、本能に負けた自殺者を「腰抜け」と、ちょっと過激な表現をしてますが、要は心のエネルギーが弱くなってしまっている、だから「腰抜け」のままじゃいけない、元気を出そうよ、ということなのですね。よい、悪いの話ではない。(心が弱くなって今にも死にそうな人に、どういう言葉かけがいいかは個人によって違うでしょうから、気をつけなくてはいけません)

日本人は「死ねばすべて解決する」とどこかで思っていたり、「死んだら善人も悪人も成仏だ」と思っていたりする。だから、(自殺すれば永遠に地獄だと考える西洋文化の人より)簡単に自殺する傾向がある。けれど、どちらも間違いなのです。死んでも解決しないし、解脱してない人が自殺すればまず成仏できないでしょう(可能性はゼロとは言えないけど)。

「自殺すれば永遠に地獄」は西洋の考えです(永遠はない)。
仏教では「人それぞれ、違いがある」と言います。そして、解脱しない限り輪廻を繰り返すのですから、「生きるのが苦しい」といって自殺しても、次の生でもまた苦しむことになります。終わりません。

苦しみをなくしたいなら、今のこの世で苦しみから脱するよりないのです。

では、この世で苦しみから逃れるにはどうすればいいのか。
ご安心ください、ちゃあんと、教えてくれてます。
仏教は幸福学ですからね。自殺なんてしなくても幸福になれます。幸福になれるのに自殺するなんて、もったいなさすぎる!

しばらく、このテーマでいってみようかな。

つづく・・・

 

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「善に達するチカラ 忍耐・堪忍の本当の意味」アルボムッレ・スマナサーラ

2017年11月16日 | お釈迦様

俗世間に生きていると、様々な人間の問題に遭遇します。そこで、三毒(貪・瞋・癡とんじんち)を乗り越えていない俗世間の人間は、その欲や怒りや無知で自分の心を汚してしまう。何があっても、欲や怒りで汚れて丸々大損なのは、自分の心です。

人間関係で、相手に対して腹を立てても相手には関係ない、自分の心が汚れるだけ、意味がありません。自分に対して嫌な気持ちになるということは、自分の心を汚しているというだけのこと、意味がありません。どうしたら、お互いが幸せでいられるか、考えることはそれだけでいい。

何で嫌な気持ちになってしまうんだろう、と悩む必要もありません。人間なんだから当たり前、本能ですから。乗り越えるべく日々気をつけていればいいだけ。繰り返し繰り返しです。

社会や政治の問題は大きすぎて、一人の人間の小さな力では解決できません。当たり前です。なので、常に落ち着いて、冷静に、自分の心を磨くことです。自分を磨くことなしに、人生も社会もよくなるということはありえません(社会とは人間の集まり)。無力だとあきらめるのではなく(あきらめて努力をやめたらよくなることはない)、小さなことから(でもそれが大事)こつこつと、、、です。

と、前置きがヒジョーに長くなりましたが、久しぶりに仏教の本(kindle)。

[アルボムッレ・スマナサーラ]の善に達するチカラ: 忍耐・堪忍の本当の意味

 

183 一切の悪を犯さないこと。善にいたること。自らの心を清めること。これは諸仏の教えである。

184 忍耐・堪忍は最上の修行である。涅槃は最高のものであると、仏陀たちは説きたもう。他人を害する人は出家者ではない。他人を悩ます人は沙門(道の人)ではない。(ダンマパダより)



ひとが真理を発見して、生きる苦しみを最終的に乗り越えたならば、ブッダといいます。ブッダとは、真理を発見した人、覚った人、という意味です。論理的には、真理を発見する人は誰でもブッダと呼ばなくてはいけなくなります。
テーラワーダ仏教では一般的に、最初に真理を発見した先駆者たる釈尊に「ブッダ」という言葉を使います。弟子たちが真理を発見したら、アラハン(阿羅漢)という敬称で呼びます。これは、師匠と弟子を区別するために工夫したのです。しかし、お釈迦さまもアラハンの一人であることに変わりありません。アラハンとは、聖者、尊敬に値する人、人格を完成した人を意味します。

人格を完成した方、智慧を開発した方、真理を発見した方(ブッダ)のメッセージに、みな耳を傾けるべきでしょう。では、ブッダは我々にどのようなメッセージを伝えたいのでしょうか? (本文より)】

目次
第一章 ブッダが教えた「善に達する方法」
 『諸仏の教え』のキーワード
 一切の悪を犯さないこと
 善に至ること
 自らの心を清めること
 平和の実現
 実践の仕方を詳しく
第二章 忍耐とは我慢ではなく「落ち着きの心」
 Khanti(kṣānti)・忍耐
 苦行は無意味
 最上の修行
 ハードルを乗り越える人は成長する
 ハードルとは何か?
 生きることも楽ではない
 俗世間のトラブル
 「こうすればよかった」は悪魔の誘惑
 正しく生きる道
 諸問題を根こそぎ解決する
 高度な目標・目的を目指す
 Khantī・忍耐は必需品
第三章 堪忍とは障害・邪魔を巧みに避けること
 Titikkhā・堪忍で障害を避ける
 堪忍がなければ人生に負ける
 忍耐があれば堪忍もついてくる
第四章 忍耐と解脱
 忍耐の活用法
 勘違いの続き
 Khantīとtitikkhāのまとめ
 Khantīとは解脱の智慧です
 随順忍耐

”悪を犯すことなかれ”ではない。これは命令ではないのです。
仏弟子には”一切の”と厳しく言われますが、俗世間の私たちは「これは善いこと?悪いこと?」といつでも自分に聞くことです。そうやって用心することですね。

”善行為”さえすればいいのではなく、”善にいたる”ことです。
善の心が大切なのです。心を清らかにして善行為をしながら、善に達すること。
悪い思考は心を汚します。すると、善行為も善行為でなくなります。

我慢=怒り(瞋)ですからなくした方がいい。
我慢ではなく、忍耐(落ち着き)と堪忍(障害を巧みに避ける)こと。

これは仏陀のメッセージであり、幸福への道なのです。

簡単?当たり前? そうですね。^^

当たり前のこととして、心がけたいですね。
すぐに効果が実感できるようになります。
実践すればするほど実感します。

読むだけでも、心が洗われる。(深いわ~

 

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口は災いの元 口の四善業 

2017年09月17日 | お釈迦様

口は災いの元。口は慎み、言葉をよく選んで使いたいものです。

仏教には口の四つの善業(口の四善業くのしぜんごう)の教えがあります。
人間関係をよくするために大切なことです。

 

①不妄語(ふもうご)・・・嘘や偽りを言わない。正直に、真実を語る。

②不両舌(ふりょうぜつ)・・・人の仲を裂いてしまうような言葉は使わない。仲たがいしている人たち(自分と相手の関係も含む)が仲直りするような言葉を語る。

③不悪口(ふあっく)・・・粗野でぞんざいな言葉を使わず、上品でやさしい言葉で話す。

④不綺語(ふきご)・・・無駄話をしない。理にかなった、実のある話を、時と場所にふさわしく語る。

 

嘘はいけません。嘘をつかなくていいように心を磨き、賢くなることです。ありのままの真実を受け入れなければ、自分勝手に解釈すれば、問題はこじれます。嘘をつかれると困るのです。問題をどう解決すればいいか分からなくなるからです。

無駄話も、仲良くなるための馬鹿話とか、無駄に思えて実は無駄ではない話、元気になって心が晴れる話ならいいのです。本当に無駄な話(愚痴悪口噂話など、心を暗く汚し、為にならない話)は、時間の無駄。自分だけでなく他人の人生の貴重な時間を奪うことにもなりますからね。

凡人にはなかなか難しいですが、気をつけたいと思います。

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2017年04月28日 | お釈迦様

ブルーベリーとキンギョソウ

 

50 他人の過失を見るなかれ。他人のしたことしなかったことを見るな。ただ自分のしたことしなかったことだけを見よ。(「ブッダの真理の言葉 ダンマパダ」)

 

このこと一つだけでも出来るなら、世の中はもっと平和になると思う。

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サッレーカ・スッタ(戒め)ー「自己」の取り扱い説明書ー A.スマナサーラ

2017年04月09日 | お釈迦様

>「みんながやっているから私もやります」と、悪いことを正当化します。「誰もやってないんだから私もやりません」と、善いことをしないために言い訳をします。これが世の中の普通の生き方です。こうなると世界は一向に善くならないのです。人間のこの弱みを理解したお釈迦様は、「ほとんどの人々がやっていないからこそ正しい戒めをしなさい」と説かれているのです。

私の教えこそ正しい、あなた方の教えは間違っていると思い込んで、他人を悪人に仕立てて戦いに挑んで人類の平和をなくし、苦難のみを増大させるような生き方をしている人間に、お釈迦様は端的に正しい道を示しているのです。(A.スマナサーラ)

まったくです。一般人はともかく、影響力の大きい権力をもつ人などが自らを戒めず、好き勝手にしてしまうと社会は生きにくくなるばかりです。しかし、権力者といえどもただの人間(困ったもんだが仕方がない)他人がどうであれ自分の人生は自分のものですから、自分の人生を生きるしかない。

両方の見解があるということは、どちらも正しいわけではないということです。・・・人の諸々の意見、見解の内容は大したことではありません。人間が主観で作り上げたただの妄想に過ぎません。自分はそれに関わりを持たないで、その見解に対する執着から解放されるのです。

見解(=偏見)を持たないこと、見解がない、というのが正見(正しい見解)ということになりますね。見解に対する”執着”が問題なのです。自分の見解(=偏見)に執着せずみんなが幸福になる(よりよい)方法を見つけること、(正見、ありのままを見て)どう行動するかが大切なのではないでしょうか。どんな小さな悪(不幸)もなさないことです(…ように努力すればするほど生きるのは楽になると思うのですが)

お釈迦様の言葉「サッレーカ・スッタ(戒め)」を見てみましょう。お釈迦様は押しつけるということはされません。仏教は教えであり洗脳ではない。人それぞれの自主性・判断を尊重するのです。見解について、戒めについて、チュンダ長老に尋ねられてお釈迦様は答えます。

 

・・・それではチュンダ(長老)よ、このように戒めるべきです。

1.他人は他者に害を与えるが、我々は加害者にならないようにと戒めましょう。

(まず、いきなりここでコケてますね。相手が悪いんだ、正当な報復だ、圧力だ、指導だ、抑止力だとかなんとか言って、結局自分が加害者になる。加害者という意識もない。自分の悪行為はヤツの悪行為とは違う、などと棚に上げるのです。悪行為は悪行為にちがいないのに。人に偉そうにいう資格はないのです。資格のある人はそもそも偉そうなことを言わないですね。

悪をつぶす(加害者になる)のではなく、聞く耳持たない不幸の元からはなるべく離れる、避難する(助ける、一緒に避難する)のみ。けんかの仲裁はどっち側についても主観的になってよくないし、どっちに対しても慈悲の心で解決方法を提案するのです。どんな相手に対しても慈悲の心をなくせば不幸は終わらない。慈悲=平和。気をつけたいです…)

2.他人は殺生するが、我々は殺生しないようにと戒めましょう。

3.他人は与えられていないものを取るが、我々は与えられてないものを取らないようにと戒めましょう。

4.他人は性的な関係を持つが、我々は性的な関係を持たないようにと戒めましょう。

5.他人は嘘をつくが、我々は嘘をつかないようにと戒めましょう。

6.他人は陰口を言うが、我々は陰口を言わないようにと戒めましょう。

7.他人は暴言を吐くが、我々は暴言を吐かないようにと戒めましょう。

8.他人は無駄話をするが、我々は無駄話をしないようにと戒めましょう。

9.他人は強欲になるが、我々は強欲にならないようにと戒めましょう。

10.他人は激怒するが、我々は激怒しないようにと戒めましょう。

11.他人は邪見をもつが、我々は正見を持てるようにと戒めましょう。

12.他人は邪思惟するが、我々は正思惟を持てるようにと戒めましょう。

13.他人は邪語をするが、我々は正語を持てるようにと戒めましょう。

14.他人は邪業(罪を犯すこと)をするが、我々は正業をするようにと戒めましょう。

15.他人は邪命(罪を犯して生計を立てること)をするが、我々は正命をするようにと戒めましょう。

16.他人は邪精進(罪を犯すために努力)をするが、我々は正精進をするようにと戒めましょう。

17.他人は邪念(精神的な混乱、怒り、落ち込み、引きこもり、などを引き起こす思考、妄想)を持つが、我々は正念を持てるようにと戒めましょう。

18.他人は邪定(悪いことをする時、我を忘れて集中すること)を育むが、我々は正定を育むようにと戒めましょう。

19.他人は邪智者(生命は永遠である、全ては絶対者により創造された、生きることは極楽である、生きることは極苦である、などの本末転倒の考え)であるが、我々は正智者になれるようにと戒めましょう。

20.他人は邪解脱(天国での永遠の命を目指すこと、命は死で終了するので生きている間に手段を選ばず遊びほうけることを目指すこと、ありもしない魂の完全な浄化を目指すことなど)を目指すが、我々は正解脱を目指すようにと戒めましょう。

 

44まであって長くなるので、ここまでにしておきます。これは、長老(出家者)に話されてるので多いけど、一般のふつうの人は5つ(五戒)で大丈夫かと思います。(どんなに悟っている人でもすべて戒めているなどとはいえないと言われれます。しかし努力することが大事なのです。努力してみようかな、試してみようかな、どういうものかと知るだけでも価値があるし、自分が向上することが人のためになるのだし、幸せ・悟りへの道なのですと言われます。幸福への道はすべての生命に開かれているのです)

ワタシはこれを読むと、そうだなあ、まずは自分の人格や徳、能力を高めることだよなあ、できるだけはがんばりたいなあ(人間に生まれたこのチャンスを無駄に過ごすのはもったいない。今のうちにできるだけ…)と思いますが、感じ方は人それぞれでしょうね。

 

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「お布施ってなに?経典に学ぶお布施の話」藤本晃

2017年03月25日 | お釈迦様

【「あげる」「してあげる」お布施は人生の修行です。「お布施」についてお釈迦さまから学ぶ。】

お寺に対して、個人的にお布施をしたことはありませんが、母が、お勤め?をしてくださったお坊さんにお布施?お礼?をしたり、お寺を改築するとかで寄付みたいなのが回ってきてるのを見たことがあります。でも、お布施は、お礼や金を出すこと(何かの対価)をいうのではないのですね。つまり、商売になってはいけないのですね。

お布施とは、人に「あげる」「してあげる」行為そのもの。喜んで捨てる、喜捨。人のためになるもの(食べ物、着る物、薬、座るところなど)や事(愛語、笑顔、手助けなど)を、ただ「あげる」「してあげる」。それが、自分の心を育てることにもなる、功徳になる。

お寺へのお布施はしたことはないけど(母がしてる)、身近な人へのお布施はしてます。

お布施をするときの心の状態・動機は8つに分類されるそうです。みんながやってるから…(母はこれ?)ではなく、きちんと意味を知って自発的に、自分の心をよりよくするためにする方がよいですね。

お布施を受ける側の有り様によって、
(立派なお坊様か、徳の高い人か、普通に道徳を守ってるいい人か、戒を破ってる凡夫か、動物かなど…個人は14種に、団体は7種に)
つまり相手の徳の高さ・大きさによって、功徳の大きさが違ってくるし、相手のためにならない行為(欲を助長して不幸になるとか)にならないように気をつけることも必要だとか。

でも、お布施はお布施する人の心だから、もし、ダマされてもダマした行為の結果はダマした人が受けるだけで、純粋にお布施した人には功徳があるそうです。ダマされないだけの智慧がある方が功徳は大きいけどね。(ダマされてるかも?などと思いながらとか、嫌々お布施すれば功徳は小さい)

家のお寺のお坊さんが、遊び人の破戒者(ただの凡夫だね)であれば、これはお寺(仏教)を守るためにお寺にお布施します、と言って(という心で)お布施すればよいそうです。

お布施で大事なのは、智慧と慈悲・喜捨の心。

お布施するものは、お金(本来お坊様はお金を受け取ってはいけないのだけど、日本社会ではお金がないと何もできないし、お坊様が戒を破り懺悔しつつ受け取っているらしい。でも、”お布施としてお金を要求”するのはお坊様としてはできないらしい)だけでなく、相手が必要としていて役に立つもの、喜んでもらえるもの、戒を破らないもの(酒とか違法なものとか)を選ぶこと。

見栄を張ったり(エゴ)、無理をしたりしないこと。自分でお布施できなくても、人がお布施(寄付)したことを一緒に喜ぶ(随喜)のもいいとか。

日本の仏教で腑に落ちないことでも、本来のお釈迦様の教えを勉強すれば問題なくなります。大事なのは、自分の心なのですね。

詳しく、きっちり説明されててすごく勉強になりました。(Q&Aあり)
気持ちよくお布施していきたいと思います。

世のためすべての生きとし生けるもののため、ですね。 

 

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「初期仏教経典 現代語訳と解説 餓鬼事経 死者たちの物語」藤本晃

2017年03月21日 | お釈迦様

餓鬼道に堕ちた者たちが繰り広げる51の物語。『スッタニパータ』や『ダンマパダ』などと同等の経典として大事に伝えられてきた初期仏教経典『餓鬼事経』を、解説付きの現代語訳で読む!】

幽霊のお話は、子どもの頃からテレビなどでよく聞きましたが、こんなにきちんと解説され学ぶことがなかったので、何となく怖い話というイメージがありました。できるなら会いたくない見たくない…と。

しかし、この経典の物語(現代語訳と解説。事例集みたいですね)を読んで、幽霊(餓鬼界に生まれかわった方)とは怖い存在ではなく慈しみを向けるべき気の毒な方たちなんだと見方が変わりました。さらに、餓鬼(幽霊)に生まれかわらないように、つまり、悪因苦果とならないように気をつけたいと思いました。

悪因を作らないように、善い心でしっかり生きたい。そう思わせる経典です。

実際この話のまんまではないにしても(ワタシにはわかりません)、こんな感じなのねとイメージはできます。どんな悪因によってどんな苦果が生まれるのか、餓鬼に生まれ苦しんでいる方がどのように救われるのか、餓鬼の方たちのために人間には何ができるのか等がよくわかります。子供だましの作り話とはちょっと違います。子どもにも理解できると思いますが、大人はきちんと理性的に補足説明してあげるといいと思います。(気楽に読めますが^^)

餓鬼に生まれたら(自分の心次第だけど)そりゃあ大変、むちゃくちゃ苦しい。一遍読んでみてください、ひょえ~~です。ごめんなさい、カンベンしてくださいです。(地獄は餓鬼よりもっとスゴイらしいから、よくよくよ~~~く気をつけて、お利口にしてなきゃ!!!)

そのまま信じることもないですが(出会ったことがないし、自分の目で見て経験したわけじゃないので)、嘘だ非科学的だ、とは言えません(そろそろ最新の科学なら説明できるかな)。ワタシは、きっとそういう感じなんだろうと思っています。

とにかく、悪いこと(無慈悲、悪口、不倫、殺生、盗み、強欲、等々不幸につながる行為)はしない、善いこと(慈悲喜捨、布施、親切、等々徳を高め幸福につながる行為)をすることですね。


116 善をなすのを急げ。悪を心から退けよ。善をなすのにのろのろしたら、心は悪事をたのしむ。

117 人がもし悪いことをしたならば、それを繰り返すな。悪事を心がけるな。悪がつみ重なるのは苦しみである。

119 まだ悪の報いが熟しないあいだは、悪人でも幸運に遭うことがある。しかし悪の報いが熟したときには、悪人はわざわいに遭う。

121 「その報いはわたしには来ないだろう」とおもって、悪を軽んずるな。水が一滴ずつ滴り落ちるならば、水瓶でもみたされるのである。(「ブッダの真理の言葉感興のことば」中村元訳より)

過ちはこの世のうちに懺悔し償っておかなければ、餓鬼に生まれてしまうとこの世の何倍もの苦しみを味わうことになってしまう
正直に、誠実に・・・どんな悪も為さないこと
安らかな、充実した心を確立できたらいいな~。
 

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そうだったのか! お彼岸 先祖供養とは・・・

2017年03月16日 | お釈迦様

明日は彼岸の入りということで、お彼岸とは、先祖供養とは何か、勉強してみました。

お彼岸は日本独自の文化です(お釈迦様の教えにはない)。お彼岸とは、昼と夜の時間が同じになる春分の日と秋分の日をはさんで前後三日の7日間(春のお彼岸と秋のお彼岸の2回)をいうようですね。で、この時に(この世である此岸ではなく)あちらの世であるお彼岸にいるご先祖様を供養しましょう、というわけです。

日々の暮らしに忙しい私たちが、年に何回かでもご先祖様のことを思うということはよいことだと思います。しかし、先祖って、昔々に亡くなっているわけで、花を供えても見えないしお供え物も食べられない、”お供え”に意味があるんだろうか…と思う人もいるかもしれない。

いや、生きている私たちの気持ちが大事なんだ、先祖に感謝の気持ちを捧げるためにするんだからと思っている人も多いでしょう。でも見ず知らずの先祖に何を感謝するの。何かしてもらったっけ、自分の人生は自業自得でしょ?とか、疑問に思うこともあるかも。

もちろん、自分の人生は自業自得。自分次第。神も仏もご先祖様も何かしてくれるわけではありません。

以前はワタシも、葬式も法事もお彼岸もお盆も、亡くなった人はすでに生まれかわってるんだから届かないだろうし、残された人のためにするものなんだろう。お墓に住んでるわけでもないのに日にちを決めてお墓にまで行く必要があるのかなあ?などと思ってました。

しかし、結論から言うと「供養」はとても意味がある。
(お参りの形式、時期などはまあ日本の文化ということで、それはそれで自由。どんなやり方でも何でもいい、こだわらない。”儀式や形式に執着しない、頼るなこだわるな”がお釈迦様の教え。)

形はどうあれ、供養は、「生きとし生けるものがしあわせでありますように」という慈悲の心なのです。慈悲の心による「人(生命)助け」みたいなもの。

自分が生きている人間界をこの世とすると、次に生まれる所があの世ということになります。悟りの境地(涅槃?解脱?)を彼岸というらしいですが、実際のところそう誰でも彼岸(悟りの境地)に行けるわけがない。どっちにせよ、今現在、生きとし生ける生命の存在する世界がこの世でありあの世なのです。

科学的に言えば”エネルギー保存の法則”によって、生命(心と体)は死んでも「無」になるとは言えない。体は分解されて別の物質になるし、心も因果法則によれば亡くなる瞬間の心を原因として、結果として生まれる心がある。

死ぬ瞬間に強い怒りがあればその結果としてどんな心として生まれるか。強い執着(欲)で亡くなれば・・・。物質(体)と結びつけば人間や動物などになるだろうけど、そうでなければ・・・。

俗な言葉で言えば、安らかな天界、やり直しの人間界、執着の餓鬼界、微生物を含む畜生界、地獄の苦しみの地獄、(争い戦いの阿修羅)という感じでしょうか。人間界以外の記憶がないので分かりませんが、因果法則によればこうなる。天や餓鬼、地獄の映像イメージは多分人間が想像したもので、まあそういう境遇(心)ということでしょう。イメージでしょうね。

でも、生命とは人間や動物などの体をもつものだけでなくて、目に見えない生命もあるということです。(自分の目に見えないからと言って、無い、とは言えない。物理学、量子力学の世界でもあるね)

ちなみに、世界、次元が違うので普通は見えないが、たまに餓鬼界の生命がホノグラムのように見えてしまうことがあるらしい。波長があったときに、自分の脳の中で映像をつくるのかな?俗に言う幽霊ですね。見たことがないのでわかりません。

で、あらゆる生命の中の、餓鬼界に生まれた生命(長い長い長~~~い輪廻のどこかでワタシと親子だったり兄弟だったり縁があったでしょう)の苦しみをなくしてあげられる可能性のある方法が、徳の高いお坊様へのお布施や餓鬼への供養(功徳の廻向)なんですね。

さすがに地獄にうまれてる生命は難しい、というか、苦しみが大きすぎてそれどころじゃない、助けに気がつかないでしょう(でも、地獄にも寿命がありますからがんばれ)。天は人間ナンカよりずっと安らかなので助けは必要ないだろうし、肉体をもつ人間同士や動物は普通に助けてあげればいい。(ちなみに、天にも餓鬼にもすべてに、個々の業の強さによって寿命がある。永遠ということはない)

なので、特定のあの人の供養と思っても、もし人間や天などに生まれていれば届かなかったり必要なかったりするでしょうが、餓鬼に生まれてれば救ってあげられる可能性があるのですね。

大事なのは、慈しみのやさしい気持ちです(高額な壺などを買わされないように^^;心は物や金額で測れません)欲や怒りのない清らかな心でお布施や供養をする。餓鬼には花を見たりお供えを食べたりはできないけど、「苦しみがなくなりますように。幸せになってね」という優しい気持ちで供養すれば、その気持ちが餓鬼に「ああうれしい。じ~ん…」と共鳴する。そうやって、餓鬼の心の中に生まれた善心によって、餓鬼の心が変わって救われる(餓鬼の寿命が尽きて天に生まれたり)というわけです。(慈悲の心が餓鬼の”自業自得”を助けるんですね)

供養はしないよりした方が絶対にいい。餓鬼に生まれて苦しんでいる誰かを救ってあげられる可能性がある。なにより、自分の慈悲の心を育てることにもなる。つまり、自分の修行・徳にもなるのです。(”自分”が極楽に行くためなどという強い”エゴ””執着や欲”があったら、行けない可能性が高いでしょうね、多分^^;)

先祖だけでなく、すべての生命の幸せを願う。もちろん、あの人を思って供養してもいい。天に生まれていても、ありがとうって思ってもらえるでしょうね。(餓鬼に生まれた先祖やあの人に当たるかどうかは分からないけど、指名すれば気づいてもらえるかも←廻向)

 

生きとし生けるものが幸せでありますように・・・

 

詳しくは、「仏教の正しい先祖供養 功徳はなぜ廻向できるの?」(藤本晃 著)を読んでみてください。とてもわかりやすいです。
大事なのは、慈しみの心なのですね。特別な日だけでなく、日常の中で供養や慈悲の実践をしていけたらいいなあ、と思います。幽霊(ただ苦しんでるだけで気の毒)にあっても、慈悲の心でやさしい言葉をかけてあげよう。

 

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慈悲の瞑想を完成させよう(『ノコギリのたとえ』最終回)

2017年01月26日 | お釈迦様

お釈迦様の教えに興味のない方、申し訳ありません(スルーしてね)。しつこくやってますが、『ノコギリのたとえ』はこれで終わりにしたいと思います。(個人的には、とっても楽しかったです

 

一般世間の人々は、言うべき時か、根拠がある事実かどうか、役に立つかどうか、などおかまいなしに一方的に非難したりするものです。でも、他人がそうだからといって、自分も怒って感情的になって(仕返したりして)いては解決できる問題も解決できなくなる。ぶつかり、互いに傷つくだけです。

そういう時には、怒りと反対のもの、つまり「慈悲の心」「思いやりの心」「相手を理解する心」が必要だということです。「怒り」に克つのは、「慈悲の心」しかない。「慈悲の心」を育てましょう、というお話でした。

そうはいっても、実際ののしられたり、理不尽な事を言われたりされたりしたらどうしたらいいのか。弱い心は自分の感情(怒り)に負けてしまいそうです。どうやって自分の心を強くもてばいいのか。

お釈迦様は、次に五つのたとえで、慈悲の心を完成させるように繰り返し励ましてくださいます。

1 大地のたとえ
人がこの大地をぐちゃぐちゃにして大地でなくしてやるといって、「次から次へと掘り返し、次から次へと撒き散らし、次から次へと唾を吐き、次から次へと尿をかけ」ても、大地は動じません。大地は大地です。「この広い大地は、深く、限りがない」からです。 

2 大空のたとえ
たとえ人が、赤や黄や青や茜色の塗料をもってやって来て、この大空に絵を描いてやろう、絵が見えるようにしてやろう、としても、大空に絵を描くことはできません。大空は塗料に染まることはないのです。 

3 ガンジス河のたとえ
たとえ人が、火のついた松明を持ってきて、ガンジス河を熱してやろう、沸騰させてやろう、としても、ガンジス河は沸騰することはありません。ただ流れているだけです。 

4 猫の皮のたとえ
柔らかくよくなめされた猫の皮に、いくら人が木片や小石でサラサラと、バラバラと音をさせてやろうとしても、柔らかい猫の皮はサラサラ、バラバラと音をさせません。 

2500年も前のインド社会のことなので、”猫の皮のたとえ”はスマナサーラ長老もよくわからないと言われてますが、他のたとえは現代でもよくわかります。

慈悲の瞑想を完成させた人は、「大地のように」「大空のように」「ガンジス河のように」(「猫の皮のように」)他人の怒りに動じず、染まることなく、悠々と(怒りを消して)生きるのです。
そのような心を育てるように努力しましょう、と繰り返し言われるのです。

>比丘たちよ、他人に話しかけるときは、使用する言葉の用途が五つあります。すなわち、時機に(語る)、もしくは、非時機に(語る)。根拠に基づいて(語る)、もしくは根拠もなく(語る)。柔和に(語る)、もしくは粗暴に(語る)。有益に(語る)、もしくは、無益に(語る)。慈しみの心で(語る)、もしくは、怒りで(語る)ーです。

>比丘たちよ、他人は、時機に、もしくは、非時機に、語るのです。他人は、根拠に基づいて、もしくは、根拠もなく、語るのです。・・・・・・

>比丘たちよ、そこでまた、まさにこのように、戒めねばなりません。すなわち、ー私の心は、決して、動揺しないのだ。また、悪しき言葉を、私は発さないのだ。また、こころ優しい者として、慈しみの心の者として、怒りのない者として、私は生きるのだーと。また、その人とその言葉に対しても、慈しみの心を広げて生きます。また、すべての世界に対して、増大した、増幅した、超越した、無量の、怨恨のない無害な慈しみの心で、接して生きますーと。比丘たちよ、まさしくこのように、あなたたちは戒めねばなりません。

それぞれのたとえについて、上の言葉が繰り返されます。そして、最後に・・・、

5 ノコギリのたとえ
これは最初の回で紹介しました。

前がこれだけあっての、ノコギリのたとえだったのです。これだけ、丁寧に何度も繰り返し繰り返し「慈悲の心を完成させようね」って説かれれば、がんばってみようって思ってしまいますよね。それに、怒りの人より慈悲の人の方がかっこいい。慈悲って無敵。
あこがれます~

ワタシはまだまだ凡夫ですが、一歩でも、慈悲の人に近づきたいと思うのであります。
(幸福への道は、幸福です^^) 

中部経典21『ノコギリのたとえ』のお勉強でした。

 

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慈悲の心を完成させるチャンス(『ノコギリのたとえ』その6)

2017年01月25日 | お釈迦様

すみません。『ノコギリのたとえ』もう少し続けます。(ワタシの勉強なのです

>比丘たちよ、他人に話しかけるときは、使用する言葉の用途が五つあります。すなわち、時機に(語る)、もしくは、非時機に(語る)根拠に基づいて(語る)、もしくは根拠もなく(語る)柔和に(語る)、もしくは粗暴に(語る)有益に(語る)、もしくは、無益に(語る)慈しみの心で(語る)、もしくは、怒りで(語る)ーです。

このお釈迦様の言葉から、私たちは人に話しかけるとき、気をつけるべきことがわかります。つまり、

1 言うべき時(適時)かどうか、2 根拠に基づいているかどうか、3 優しく受け入れやすい言葉(愛語)かどうか、4 言われる人にとって役に立つかどうか、5 慈しみの心で話しているかどうか

ということです。(これが難しい…^^;)
今が話すべき時なのか、しっかりした証拠や根拠があるのか(事実なのか)、言葉の使い方はどうか、相手のためになるか、慈しみの気持ちで冷静に話せてるか、に気をつける。”突然、何の根拠もなく、乱暴でキツイ言葉で”非難されるのはイヤなものですからね。

ところが、お釈迦様はここではそういうことが言いたいわけではないようです。つまり

>比丘たちよ、他人は、時機に、もしくは、非時機に、語るのです。他人は、根拠に基づいて、もしくは、根拠もなく、語るのです。・・・・・・

他人は、そんなことはおかまいなしにしゃべる(非難したり称讃したり)。いつも気を遣ってしゃべってくれるわけじゃない。世間とはまあ”そんなもんだよ”、ということでしょう。

>比丘たちよ、そこでまた、まさにこのように、戒めねばなりません。すなわち、ー私の心は、決して、動揺しないのだ。また、悪しき言葉を、私は発さないのだ。また、こころ優しい者として、慈しみの心の者として、怒りのない者として、私は生きるのだーと。また、その人とその言葉に対しても、慈しみの心を広げて生きます。また、すべての世界に対して、増大した、増幅した、超越した、無量の、怨恨のない無害な慈しみの心で、接して生きますーと。比丘たちよ、まさしくこのように、あなたたちは戒めねばなりません。

俗世間から出家した比丘は、相手がどんな乱暴な言葉で非難しようが、言うべき時や場所をわきまえないで非難しようが、根拠のないことで非難しようが、「怒ることなく心が動揺して感情に陥ることがないように」自己を戒めなくてはいけない。何を言われても、いかなる場合でも怒らず、相手のことを心配して、慈しみの心で生活する、そういう生き方を心がけてください、と言われるのです。俗世間の生き方で怠けてたのじゃ、悟りに至る心まで成長できないよ、と。

自分を理不尽にののしる相手にも「この人がどうか幸せでありますように」と、慈しみの気持ちを広げる。慈悲の瞑想をする。そして、慈悲の瞑想を完成させる。

慈悲の心を育てるよいチャンス

だと言われるのです。これが精進するということなんですね。(怒りだけでなく、褒められても舞い上がって天狗にならないように)

ワタシは比丘じゃないけど、心がけたいと思います。
心に慈悲喜捨の気持ちがあるときは確かに幸福(楽)で、反対に怒りがあれば苦しいのです。慈悲こそが怒りの解毒剤で、幸せの特効薬だと確信します。そして、自分の心を成長させるのは、環境や周りの人のお陰があるからだけど、最終的には自分(の意志)なのだと思います。自分の心は自分次第。
話しかけるときも、五つの使い方に気をつけたいです(口は災いの元。愛語だね~)。 

(私を嫌っている人々や生命も幸せでありますように)
生きとし生けるものが幸せでありますように・・・

 

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真に素直であること (『ノコギリのたとえ』その5)

2017年01月24日 | お釈迦様

中部経典『ノコギリのたとえ』のつづきです。

>比丘たちよ、ちょうどこのように、ここに、或る比丘は、諸々の不快な言葉に遭遇しないかぎり、おだやかな中にもおだやかで、つつましやかな中にもつつましやかで、ものしずかな中にもものしずかでいるのです。比丘たちよ、しかしながら、諸々の不快な言葉が、その比丘に遭遇するとき、まさにそこでこそ、その比丘たちは『おだやかで、つつましやかで、ものしずかである』と、知るべきなのである。

と、真に『怒らない』とはどういうことなのかを語られたお釈迦様は、


さらに比丘たちに、真に『素直である』ことの意味、大切さについて話されます。

>比丘たちよ、私は、衣食住薬、生活必需品を得るために素直になっていることで、(真の)素直だと説きません。それは、なぜでしょう。比丘たちよ、その比丘は、衣食住薬、生活必需品を得られないことになるならば、素直にならず、素直さに至らないのです。

生活必需品(生きるために最低限必要なもの)は大事ですが、それでもそれらを”得るため”の素直さは偽善であり見せかけの素直さであり、本物の正直で素直な性格とは言えない、ということです。

>比丘たちよ、しかしながら、まさに、真理を尊び、真理を重んじ、真理を敬い、素直になり、素直に至るのであるならば、私は、彼を、『素直である』と説きます。比丘たちよ、ですから、ー私たちは、真理を尊び、真理を重んじ、真理を敬い、素直になろう、素直さに至る者となろうーと、比丘たちよ、あなたたちは、まさしくこのように戒めねばなりません。

頑固で人の話を聞こうとしない人には、次第に誰も声をかけなくなります。人のアドバイスを聞く耳がある、柔軟で謙虚な人は、どんどん成長することができる人です。素直な人には、周りも声をかけやすく、アドバイスしてあげやすいのです。悟りを開くまでずっと成長し続けようと思うなら、人のアドバイスに耳を傾けられるくらいの謙虚さ、素直さがなければいけない、ということです。

”あまりに素直で人にだまされる”といわれることがありますが、それは素直だからではなく「無知」だから。ものごとを理性的に判断できない(鵜呑みにするとか)から騙されるのであって、素直だから、ではない。真理を学び、素直に能力を伸ばして、理性的に判断ができるようになった人は騙されません。

さらに、”誘惑に負けないしっかりした性格”を、「頑固」とは言いません。理性的なのです。理性的(真理を重んじている)だからしっかり判断ができるし、論理的にきちんと説明もできるのです。

>「素直」といっても、俗世間的なご褒美をねらった偽善的な素直さと、真理を重んじて行う真の素直さは区別しなければいけません。世俗人の社会は損得の世界だから、素直か頑固かも損得論で決めてしまいます。・・・・「何もわからないから、反対できないから、気が弱いから、相手が偉いから、相手が怖いから、利益を得るから、相手が喜ぶから」などの理由で素直になっても、ひとつも真の素直ではないのです。(スマナサーラ長老)

仏教の真の目的は解脱することなので、比丘はそこから脱線してはいけない、ということです。損得ではなく、素直に人格を高めましょう、ということですね。

 

成長するためには、「素直さ」(頑固でないこと。言葉をかけられ易いこと)が必要。
”損得がらみ”の素直さは「真の素直さ」ではない。真理を尊び、真理を重んじ、真理を敬うことで、真の素直さに至るのがよい。

 

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