さよなら三角 また来て四角...日本編☆第二章☆

オーストラリアから10年ぶりに帰国。特別支援教育に携わりながら
市民農園・家庭菜園に励んでいます。

矛盾

2017年08月12日 09時31分19秒 | Web log
人って変わりますよね。環境にいろいろと適応しながら、意外な能力を開拓したり、意外な自分を発見したり。性格も変わるだろうし、もちろん色んな経験を経て、考え方とか価値観だって変わっていく。変わんないって人いるんですかね? ま、いるのかな?...いるでしょうね。人それぞれだから。

年を経て味覚の指向も変わったりする。

マイクは「日本人が『このお米おいしい!』とか言うけど、米は米。味は一緒。」と昔、豪語していた。

最近になって「米の味の違いが分かってきた。そばもおいしいそばと、そうでもないそば(十割と二八の違いとか)が分かってきた」と言ってたけど、まずい国代表のイギリス出身で、食に興味がない偏食のマイクですら、少しづつ味覚が開拓されてきたようだ....

偏食のまま育つ子もいるかもしれないけれど、ジョナサンが小さいころは、本当に食べられるものが少なかった。保育園の先生に「どうして子供が楽しめるようなお弁当をつくってあげないのか?」と避難されたことがある。けれど、本当に食べられるものがなくて、食べられるものだけ入れていたら、そうなっちゃったってだけなのに...。非難されてちょっと傷ついた。

でも、いまでは結構いろんなものが食べられるようになった。これからだってそうだろう。

ベンジャミンはひき肉が苦手だったけれど、最近は少しづつだけど食べられるようになったし。

子供の味覚も性格も、それぞれ。育児本みたいにいかないのが現実なんだよ!子育てに悩んでいる皆さん、育児本や他人の意見は参考程度にしときましょうね。
あまりいじめられない様に。

育児本みたいに子供が成長したら、苦労なんてないっちゅーのよ。自分の子供の可能性を信じて、気楽にできるだけ楽しく過ごしたほうがいいのではないでしょうか....

ところで。

わたしははなちゃんのことをこよなく愛しているけれど、小さいときは結構神経質かつ我儘だったので、匂いにとても敏感だったり、毛が嫌だったり、自分がゆっくりしたいのに散歩に行かせられたりするのが嫌で、犬を楽しく飼っていたか?というとそうでもなかった。本当に自分の都合でしか考えられなかったし、わたしが散歩につれていかなかったら、犬は一日繋がれたままで自由がないんだとか、頭では分かっていても散歩に喜んでつれていったか?というとそうでもない。から、子供たちが散歩を嫌がる気持ちはとてもわかる。

でも、今は喜んで散歩に出ていける。はなちゃんが可愛くてしょうがない。もちろん、うんちだって「おえっ」とならずに拾える。健康状態もすかさずチェックする。
昔はとにかく匂いに敏感すぎて「おえっ、おぇっ」って感じだった→ベンジャミンがいまのところそんな感じ。

昆虫も面白いなと思えるようになった。

昆虫に関しては、小さいときに昆虫採集セットとか、解剖セット(おもちゃのやつ)を買ってもらって、手術めいたことをやったり、結構どころか、かなり残酷なことをした記憶もあるけれど、生態に興味があったかというとそうでもない。けど、最近は興味がでてきた。蜘蛛は嫌いだけれど、巣の張り方とか見ていると感動する。とんぼのホバリングなんてすごいなぁと思う。

爬虫類だって意外と面白いなと思えるようになった。蛇だって野生のものじゃなくて、安全な条件であれば触れる。カメレオンとか、結構かわいい顔しているなと思う。

魚だって、鳥だって小さいときはとにかくダメだった。気持ち悪い、げーって感じで触れなかったし、興味もなかった。

でも、最近は見ている分には面白いなと思える。触れないけど。男の子を育てた影響かもしれないな... と思う。

人は変わる、ということに関しては、ほとんどの人が同意してくれるかと思う。

けれど、実際はどうだろう。

実際の話、人は「全てのものは無常だ」ということをどれだけ受け入れている、受け入れることができているのだろうか?

人って変わるよね?そうだよね。と、言うことができることと、実際それを受け入れていることとはかなり違うと思う。

仮にそう言えても、固定観念とか先入観とか偏見とか、その人の今までがどうだったとか、その人が与えてきた影響とか、その他もろもろがあって、固定観念とか先入観に左右される部分が大きかったりする。

例えば

犯罪を犯した人が変わると信じられるか?自分には自信がない。

子供がいずれ成長して、良く変わっていく可能性だってあると信じて待つことができるか?

多くは今の態度に基づいて、否定的にあーだこーだと批判したり、不安になったりすることのほうが多い。人の性格なんてある種一時的なものなのに。

逆に変わっていくことを悲しく思うことはないか? 変わっていくこと、それが当たり前なのに「信じたくない、受け入れたくない」といったようなこと。

人が変わっていくことを認めない人だっているだろう。

こういうことは日常のあちこちにある。

平家物語じゃないけれど、全ては変わっていくもの。

なのに、いいことは変わってほしくないとか、逆に、いやな経験(人)については、変わらないものと思い込んでしまったり。

人が変わってしまったことを裏切りという人もいるかもしれない。

わたしたしは、前例とか過去とか願望とか不安とかいったものに、理屈を超えて本能的に執着していろいろ判断するするものなんだろうね。

というのは、目の前にある事実よりも、信じたいことを、信じたい生き物だから。

でも「信じる」ということだって、その時の「判断」だって、意外と理不尽なものだったり、不確かな情報だったり、過去のわずかな経験だったり、誰かが言っていたことだったり、  教えてもらったことだったり、沁みついた文化的な常識とか考え方とか価値観といった、非常に「あいまいな要素」に依っていることが多いのですけどね。

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