無縁社会、虐待、孤独死、いじめということばが氾濫する社会になった。
人とのつながりを絶ってしまう社会。結婚もしない、子どもも作らない。自らの意志でつながりをなくしてしまう社会。
戦争が終わって生まれた団塊の世代は、貧しい時代に子供時代を過ごし、一億中流と言われた高度成長期を謳歌した。今思えば、その間に決定的な家族の変容があった。
バナナが贅沢なおやつ、メロンは高嶺の花、肉は細切れ、牛肉は月一回程度、着るものもお古が一般的だった。だが、当時、貧しさはあったが、親戚や家族は助け合っていた。
近所には子どもたちが大勢いて、遊び相手がいなくて、困ることはなかった。どの家庭も子供は二人から四人、団塊の世代の子どもたちは多く、一人っ子はほとんどいなかった。
わたしたちは年齢の上下に関係なく、遊んだ。遊びでいじめの標的にされることもあったが、それが何日も持続することはなかった。
時代は大量生産大量消費社会に移行する。物質的に豊かになり、テレビ、洗濯機、冷蔵庫が三種の神器として各家庭に普及していった。サラリーマンは出世と高い報酬を求めて夜遅くまで残業する。
専業主婦は子育てに専念し、教育ママになる。家庭内にいざこざが増える。学歴をつけて「よい会社に入れ!」と子供の尻を叩く。出世競争に敗れた亭主は居心地が悪くなる。
都会での住環境は大家族を許さない。狭い家に親と同居するのは無理であり、精神的にストレスがたまるとして、核家族化に拍車がかかる。「家族の崩壊」や「無縁社会」は、経済や社会の変貌によって必然的にできたものだ。皆が地縁血縁のわずらわしさを回避したいために望んで出来上がった社会だ。その過程で人の心も他人を思いやる余裕を失っていく。
田舎では、あらゆる情報は筒抜けになってしまい、瞬く間に広がってしまう。うるさい親戚があることないこと騒ぎ立てる。それが嫌で早く抜け出したいと思っていた。今は、そういった干渉が懐かしい。
独身の高齢者が血縁を頼って北海道に移り住んだ。離婚したいとこが兄弟や親を頼って北海道に帰って行った。少ない血縁を頼って、田舎暮らしを考えた方がいいのかもしれない。
空気はきれいだし、自然の恵みもいっぱいある。無縁社会の都会にいるより、ずっと幸せになれるかもしれない。
都会の郊外で新しいコミュニティをつくるのは想像以上に難しい。消費社会の豊かさに極端な個人主義が加わって、個人の責任は放棄され、コミュニティーの崩壊に拍車がかかる。公任せで個人には隣の高齢者、近所で起きているいじめ、引きこもりに責任はないとされる。貧富の格差が拡大し、たまたま運が良くて余裕のある生活をしているものに高齢者を支援したり、体の不自由なものを助ける義務はないとされる。
核家族化や大都市志向で高齢者の面倒をみる大家族がいなくなった。コミュニティーが高齢者に対して責任を共有する、新たな仕組みを作るしか解決策はないように思うが、これが難しい。
自治会活動が比較的活発な地域でも、活動に参加する住民は1割程度だ。
「ボランティアでやっている自治会役員は好きでやっているんだからいいが、そんな活動に私たちを引き入れないでほしい。班長や地区長は当番で回ってくるが、お金で免除してもらえないか?」こんな情けない意見が堂々と述べられ、それに真っ向から反論する人も殆どいない。定年退職後、さまざまな理由によってひとり暮らしを余儀なくされている高齢者。貧困や介護、病気によって、一人暮らしを余儀なくされてしまった高齢者が孤独死に至るのも自己責任だから、放っておけばよい。それが先進国と言われる国の国民の常識、道徳観らしい。そして「他人に迷惑をかけてはいけない」という日本人の美徳に忠実な人ほど「孤立無縁」に陥りやすい。
孤立無援の過酷な状況は高齢者に限ったことではない。人間は、社会生活を営む以上、一人だけで生きていくことはできない。他人と一切関わらずに仕事を続けていくことはできない、できなかったはずだが、自宅に閉じこもってしまう「ひきこもり」という現象も大きな社会問題となっている。生徒たちの不登校の多くは校内でのいじめなどがその原因と思えるが、子供たちにとってはまさに孤立無援という精神状態である。
わが子を虐待して死に至らしめるというニュースも頻繁に聞こえてくる。母親から命を授けられても、生まれる前に堕胎されてしまうか、無事に生まれても幼少時代は親に虐待され、青少年時代は学校でのいじめにおびえ、社会に出ると上司のパワーハラスメントでうつ病になる。部屋に引きこもるか、家族とも縁を切って無縁社会で暮らすしかない。介護が必要になったら、再び施設での虐待が待っており、殺されることもある。最後は自殺か無縁死で一生を終える。
いじめにせよ虐待にせよ、その解決方法が議論されても、その原因について議論されない。対症療法は議論されても、いじめや虐待のない社会作りという観点は全く論及されない。
怖いのは無縁社会が親から子へ連鎖していくことだ。「子供の無縁社会」という本は衝撃的だ。子どもを無縁にするのは大人であり、「頼れる人がいない」親世代と、まともな友だち関係を結べない子世代の問題をとりあげ、背筋が寒くなる現実をルポしている。
2011年の「居所不明児童生徒」が1183人いる。身元不明の死亡人のなかには子供もいて、官報に記載される。
◆平成18年12月22日付
名前 本籍・住所・氏名不詳
年齢 10代前半
性別 女性
上記の者は、平成17年10月14日午後9時頃、岩沼市○○○の川で頭蓋骨で発見されました。死後10年程度、死亡場所及び死因は不明。
◆平成20年10月9日付
名前 本籍・住所・氏名不詳
年齢 嬰児
性別 女児
身長 48センチ
上記の者は、平成20年7月17日、仙台市○○○の公園内において、造園の剪定作業を行なっていた作業員が、ツツジの植え込み内に置かれた紙袋を発見し、臨場警察官が同袋内を確認した結果、ビニール袋にくるまれた嬰児死体であることが判明したもの。
◆平成21年11月9日付
名前 本籍・住所・氏名不詳
小児の顔面頭蓋、下顎骨を欠く。所持金品はなし。
上記の者は、平成21年5月8日午前11時、姫路市○○○約7.6キロメートル沖海底で発見されました。死亡推定日時は平成16年頃と推定され、死亡の原因は不明。
子育てよりもネットゲームを優先する母親の話もありそうな話だ。実家で両親と同居。月10万程度のバイト代はすべてネットゲームに費やし、ゲームで知り合った男性と結婚。そのまま夫も転がり込んでの同居。本人はそのままゲームを続ける。そして妊娠。出産。子育てがゲームに支障をきたすので、同居の両親に子育てをおしつけ、ゲームに専念する。
子育てができない親が増えている。その未熟な親が子どもを「無縁」にし、無縁な大人を再生産する。
子どもの遊び声に対する苦情も多く、東京都では保育所も満足に作れない。子供の声を騒音としか感じない高齢者自体に問題がある。孫がいない、いても孫との関係が希薄なのだと想像する。
地域や他者とどう関わればいいか分からない大人たちが孤立無援な子供たちを再生産していく。地域社会が子どもを育てるという感覚はまったくない。
90年代半ば:社宅前の駐車スペースに大きなビニールプールを用意し、社宅の子どもたちは水遊びをする。準備、片付け、監視役は、親が交代で行う。
2000年代:近所に気兼ねして「共用プール」は消滅。家ごとに小さなビニールプールを並べて、別々に遊ばせる。
さらに5年後:共用の場所を個人で使うのは不公平という意見から、ビニールプールそのものが消滅。
このように、協力や共用よりも個人の主義主張を尊重する大人の都合で、子どもたちは繋がりを失っていく。そして、他人の気持ちなど理解できない子供たちが精神的に未熟な大人になっていく。
いじめでは被害者だけが辛い目にあい、殺されたり自らの命を絶たなければならない状況に追い込まれる。加害者は親に守られ、学校に守られる。こんな社会で我関せず、傍観者でしかない大人があまりにも多い。そして子供たちも傍観者になり、それが陰湿ないじめを助長する。
福岡県苅田町の町立小学校の女子児童(9)の父親が今年3月、同級生らからの「いじめ」を放置したなどとして、学校側を相手取って提訴する意向を学校に示した際、校長から相談を受けた町議が提訴しないよう父親に求めていたという。
滋賀県守山市にある名門私立高校の元教諭の男が、男子生徒にわいせつな行為をした疑いで逮捕された。母親とともに、学校に相談したが、学校の副校長からは、「警察事案となれば更に彼の将来の道もたたれます。彼のことを想うなら警察は避けるべきです。」と言うメ-ルが来た。被害者に泣き寝入りを求める内容だった。
学校は加害者と結託していじめや性的虐待を隠ぺいするから、学校に相談する時は用心が必要だ。
「いじめから子供を守ろう ネットワーク」は子供や親がいじめと戦うための具体的な方法として以下の実践を提唱している。
1)親が先頭に立って子どもを守る、「いじめ」に立ち向かう決意をする。子供一人に闘わせてはいけない。
2)いじめの被害をできるだけ詳しく記録を残す。証拠を集める。
3)文書化した上で、学校長と話し合いの場を持つ。
文書にして、教育委員会、校長、担任にいじめ解決の措置を要求する。加害者の保護者にもこれを訴え、加害者を指導するように求める。
話し合いは録音し、証拠となる原本(日記、連絡帳、手紙など)を学校に渡さない。
4)外の人に相談する。
警察、教育委員会、教育センター、人権擁護委員会などの「相談窓口」に相談する。教育委員会も、身内を守ってしまう傾向があるので信用できない。公的機関は、文書を提出して相談しないと、動かない場合が多々あるので、文書で提出する。また、物損や暴力、精神障害などが発生する「いじめ」は犯罪と認識して、すぐに警察に「被害届」を出す。マスコミや市会議員、県会議員、代議士、知事、市区町村長など政治家に陳情することも大事だが、油断をしないこと!!!
いじめ問題への対応としては、加害者への指導と被害者へのフォローに重点が置かれがちだ。
しかし、本当に指導すべきは、周りで見ていた傍観者だと思う。
「“見ているだけ”も罪になる」「無関心も罪」
直接手を下したわけではないのに責められるのはおかしいかもしれない。自分の身を守るためには仕方がなかったかもしれない。
しかし、傍観者でいることはいじめを認めていること。黙認しているということだ。こうした傍観者の存在こそが、加害者のいじめ行為をエスカレートさせ、いじめが劇場化する要因となる。「みんな面白がっていた。ヒ-ロ-になった気分だ」…そんな自己正当化がまかり通る。
いじめは子供社会だけに存在するのではない。大人社会のえぐいいじめ構造の反映でもある。
長期雇用、年功賃金等が特徴であった高度経済成長期の日本型雇用慣行は崩壊した。今の大人には子供社会のいじめを止める余裕はなさそうだ・・・・・