
「苦しみに向かいあえば、何でもやらざるをえません」
お坊さんをやってて、最近、こんなことを強く感じるんです。
説くことは難しい、と。
そもそも、仏教そのものが、説くことが難しい教えであると
いうこともあります。
でも、現代社会は、「わかりやすい」ということが前提で、
無条件に「わかりやすさ」求めています。
だから、難しいこと、わかりにくいことは、どうしても、
軽視され、そこを避けて行きがちになります。
情報の氾濫が、そういうことをますます増長させます。
生きることで、ちょっと問題に出くわしたら、情報は
すぐに答えを教えてくれます。
だから、すぐに情報に飛びついちゃうんです。
私が今(から)、歩んでいる(いく)“老病”がどんなものか、
もうちゃんと答えが出ています。
高齢化社会だとか、これからは老人が増えるから、
どうこうしなければいけないとか、老人は社会の
害悪みたいな言い方をされる。
老後、年金生活、介護、認知症などなど、もう答えが
出ちゃってるものに追い立てられながら、生きていくなんて、
だから、情報化社会は、“答え”があることは逆に
怖いんです。
有名人が“ガン”を告白しますよね。
すると、マスコミはこぞって、その勇気を賞賛し、涙を
流してニュースを伝えます。
でも、これはちょっと変です。
ガンを公表する人と、最後までガンを隠し通す人を比べて、
どちらが偉いかというようなものではないと思うんです。
そして、“ガン”という言葉そのものが、もう「宣告」とか
「告知」というような“答え”を抱えた冷たい言葉なんです。
“老い”とか“病い”という言葉が、わかりやすくなると
いうことは、そういうことなんです。
答えが出ている中で、“老い”を受け入れ、“病い”と
闘っていかねばならない。
わかりやすいということは、大事なことを、わからなくさせる
“危うさ”みたいなものが潜んでいる。
わかりにくいものこそが、実は私たちの生きるということの、
本当のことを教えてくれるもの、大事なものを気づかせて
くれるものなんじゃないかなと思います。
仏教って、そんなものかもしれません。
「苦しみに向かいあえば、何でもやらざるをえません」
得体のしれない苦しみが次々とやってくるのに、今度は、
いちいち答えを出してるヒマなんかありません。
とにかく、動かないと。。。
問題は、その動くときの、私の覚悟なんです。
老いて、病んでいく自分を不幸だと思うのか、
大きなはたらき、支え、励ましの声に後押しされて、
「動かさせていただいている」と受け入れるのか。
そして、やがて最後の問いに向き合うことになります。
人間にとって、“死ぬ”ことは不幸ですか。
人間は、最後はみんな“不幸”なんですか。

きょうも来てくださって、ありがとうございます
このブログの“タイトル”「君はまだ、抱いていたのか!!」の意味は、
こちらです!
お坊さんをやってて、最近、こんなことを強く感じるんです。
説くことは難しい、と。
そもそも、仏教そのものが、説くことが難しい教えであると
いうこともあります。
でも、現代社会は、「わかりやすい」ということが前提で、
無条件に「わかりやすさ」求めています。
だから、難しいこと、わかりにくいことは、どうしても、
軽視され、そこを避けて行きがちになります。
情報の氾濫が、そういうことをますます増長させます。
生きることで、ちょっと問題に出くわしたら、情報は
すぐに答えを教えてくれます。
だから、すぐに情報に飛びついちゃうんです。
私が今(から)、歩んでいる(いく)“老病”がどんなものか、
もうちゃんと答えが出ています。
高齢化社会だとか、これからは老人が増えるから、
どうこうしなければいけないとか、老人は社会の
害悪みたいな言い方をされる。
老後、年金生活、介護、認知症などなど、もう答えが
出ちゃってるものに追い立てられながら、生きていくなんて、
だから、情報化社会は、“答え”があることは逆に
怖いんです。
有名人が“ガン”を告白しますよね。
すると、マスコミはこぞって、その勇気を賞賛し、涙を
流してニュースを伝えます。
でも、これはちょっと変です。
ガンを公表する人と、最後までガンを隠し通す人を比べて、
どちらが偉いかというようなものではないと思うんです。
そして、“ガン”という言葉そのものが、もう「宣告」とか
「告知」というような“答え”を抱えた冷たい言葉なんです。
“老い”とか“病い”という言葉が、わかりやすくなると
いうことは、そういうことなんです。
答えが出ている中で、“老い”を受け入れ、“病い”と
闘っていかねばならない。
わかりやすいということは、大事なことを、わからなくさせる
“危うさ”みたいなものが潜んでいる。
わかりにくいものこそが、実は私たちの生きるということの、
本当のことを教えてくれるもの、大事なものを気づかせて
くれるものなんじゃないかなと思います。
仏教って、そんなものかもしれません。
「苦しみに向かいあえば、何でもやらざるをえません」
得体のしれない苦しみが次々とやってくるのに、今度は、
いちいち答えを出してるヒマなんかありません。
とにかく、動かないと。。。
問題は、その動くときの、私の覚悟なんです。
老いて、病んでいく自分を不幸だと思うのか、
大きなはたらき、支え、励ましの声に後押しされて、
「動かさせていただいている」と受け入れるのか。
そして、やがて最後の問いに向き合うことになります。
人間にとって、“死ぬ”ことは不幸ですか。
人間は、最後はみんな“不幸”なんですか。

きょうも来てくださって、ありがとうございます
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