かかりつけのお坊さん 奮闘編

転勤も定年もリストラもない、失うものは何もない最強な坊主が日頃の“感謝”を言葉にこめて、日常を綴ります。

業感縁起(ごうかんえんぎ)

2012-06-05 21:12:52 | 如是我聞
            彼女が犯した犯罪行為は、どれだけの人を
            悲しませ、苦しませてきたのか。
            彼女の業報は、彼女が死んでも、決して
            消え去るものではない。


業力は不滅ですから、現在の業が次の世界に現われます。
死んだら変わるのであって、業は決してなくなりはしません。
すべてのものは、業報によって、永遠に変化の道をたどっていきます。
だから、現在の一念も一行も、おろそかにできないという
厳粛な生き方がうちたてられるはずです。

冬、栗の実を土の中に埋めておきます。
春になってそれから芽を出し、やがて一本の栗の木になります。
そのとき、冬に埋めておいた栗の実があるか調べてごらんなさい。
決してありません。では、なくなったのでしょうか。
いや、そうではなく、栗の木と変わったのです。
しかし、栗の実には、栗としての業がありますから、
栗の実から桃の木だの柿だのと違ったものはできません。
それが業報です。  (工藤義修「人間の原点」)

「人間は死んだらどうなりますか」
『あなたはどうなると思いますか』

「死んだらなくなってしまうと思います」
『人間は死ねばなくなるという、同じ結果になるのに、
 生まれてくる人間の顔はなぜ一人ひとり違いますか』

「それは別に理由はないと思います」
『あなたのお答えには矛盾がありませんか』

「別に矛盾はないと思いますが」
『でも、死ねばなくなるという以上は、なくなるという
 理由があるのでしょう。生まれてくるものの顔かたちの
 違っていることに理由がなくて、死ぬ時には理由が
 あるのですか』

「それでは、どう考えたらいいのですか」
『生まれてきた現在も、死にゆく未来もみな理由があります』

「その理由とは・・・」
『それは業感縁起、厳粛な因果の道理であります』

「世間で言う業報というものですか」
『そうです。各人みな顔かたちが違うのは、人間の過去の業
 すなわち身に行い、心に思い、口に語ったことがそれぞれに
 違っていますから、その働きが積み重ねられて業報と
 なって現われてきます。人の顔が違うのは、みんなの
 過去が違うからです』


広島ブログ いつも、ありがとうございます

人の顔がみんな違うように、みんなの過去の業もみんな

違っている。

それともう一つ、人間の過去世のすべての業を

私一人が全部背負って生まれてくる。

それが、人間の宿業といわれるもの。

誰に教えてもらったわけではないのに、縁が整うと

形となって現われる。それが“煩悩”である。

生まれたばかりの赤ちゃんが、お母さんの乳房に

吸いつきながら、もう一つの乳房は、自分の手で

しっかり押さえこんでいる。

「こっちのおっぱいも、私のものよ」
コメント    この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« 壬生の花田植え | トップ | 私の便秘解消法? »
最新の画像もっと見る

コメントを投稿

ブログ作成者から承認されるまでコメントは反映されません。

如是我聞」カテゴリの最新記事