かかりつけのお坊さん 奮闘編

転勤も定年もリストラもない、失うものは何もない最強な坊主が日頃の“感謝”を言葉にこめて、日常を綴ります。

慰霊と追悼

2012-08-16 21:20:05 | 如是我聞
きのうの“終戦記念日”に、

現閣僚の二人が、靖国神社に参拝しました。


「戦没者を追悼すること」は、どうあるべきなのか。

国民を挙げて、過去の反省を踏まえ、アジア諸国民の

国民感情に配慮したものであるべきです。


私もよく、「戦争で亡くなられた人たちの犠牲の上に、

今の私たちがある」とお話をします。

すると、「じゃあ、なぜ、住職さんはヤスクニに反対なんですか」と

切り替えされることがあります。


ヤスクニの「慰霊」と念仏者の「追悼」は、まったく違います。


「慰霊」とは、いったいどのようなことなのでしょうか。

まず、“鎮魂”ということ。

国のために命をささげるという大義は、敗戦ということに

よって、一転して、無意義なものに変わりました。

戦没者のこの愁嘆と怒りを、まず鎮める必要があります。

また、国家という大きな魔物に、無意味な苦難を強いられた

家族の悲しみを慰めなければなりません。

それが、“慰霊”です。

そして、国のためにと覚悟を決められた遺志に対しては、

その遺志を“英霊”として、顕彰しなければなりません。

そして、そのとき、その国家は、絶対化され、神格化されます。

絶対化され、正当化された国家、その国家のために戦ったのだから、

“英霊”として、祀られるのです。

そう英霊化することにおいて、戦争そのものは、過去のこと、

過去の一部の人たちがやったこととして容認され、加害者が誰で

あったか、不問に付されるのです。


日ごろ、置き去りで、ほったらかしでごめんなさい。
うらまないでください。災いや害をもたらさないでください。
忘れたわけではないのです。
感謝していますから。

今(私)の責任を問わない。過去の責任も問わない。

今(私)を丸々肯定し、今(私)を是認するための手続きとしての

“慰霊”。


「追悼」とは、思い起こして、悼むこと、悲しむこと、弔うこと。

弔うとは、問ぶらふ、問うていくということ。

戦没者一人ひとりの心に思いをはせ、

過去への反省に立って、未来への責任を今背負おうとすること。

日々の生き方のすべてをもって、戦没者のこころに応えていく

ことです。


広島ブログ いつも、ありがとうございます

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