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目次

古代妄想

*「連鎖する九州の比売神信仰。地域伝承から探る邪馬台国」
*「狗奴国残照。阿蘇祖神、草部吉見命の謎」
*「鬼の話。鬼とされた古代産鉄氏族の謎」
*「たたら製鉄の謎。南方由来の弥生製鉄」
*「日下部氏族の話。」
*「大いなる海人の系譜。」
*「日向、児湯の大和。神武東征の実証」
*「阿蘇と諏訪の話。国譲り神話の秘密」
*「阿蘇祖神、草部吉見命の考証」
*「鞍手の物部氏族の謎。」
*「遠賀川流域の神祇。」
*「鹿と鯰の話。国譲り神話の真実」
*「記紀神話の真実。天津神による稲作渡来」
*「邪馬台国幻想。豊比売命と台与」
*「警固神社の話。祓神と瀬織津比売」
*「古代吉備の謎。」
*「高天原神話の検証。神話の源流は南西諸島」
*「日向神話の実証。日向三代のストーリー」
*「記紀史観の復元。」
*「三韓征伐の真実。」
*「邪馬台国異聞。」
*「狗人の話。神武東征の実証」
*「狗奴国侵攻。火(肥)の民の筑紫進駐」
*「宗像三女神の話。 」
*「高良玉垂神の秘密。」
*「久米の鯰。」
*「阿多海人の系譜。 」
*「琉球や南西諸島の話。 」
*「鹿児島神宮の話。」
*「住吉神祭祀と王権成立のストーリー。」
*「久米氏考。天孫降臨と神武東征」
*「枚聞神社の話。」
*「笠砂の岬の話。」
*「河童の話。」
*「倭国と高句麗の拘わり。」
*「韓半島南域の倭人。 」
*「阿蘇と諏訪の話。 」
*「三つ巴の謎。」
*「宗像三女神の秘密。」
*「鯰の信仰。」
*「狗奴国考証。」
*「稲佐神の謎。国譲り神話の真実」
*「前方後円墳の秘密。」
*「求菩提の霊異。鬼の祭祀」
*「古層の神々。九州の古代王権」
*「比恵、那珂丘陵の奇跡。」
*「飯塚中枢の磐境。立岩(たていわ)」
*「日(火)と鷹の神祇。高良の日下部氏族」
*「遠賀川流域の天忍穗耳命。」
*「鷹の神祇 八幡の鷹見神社群。」
*「日と鷹(日高)の神祇。日田の靱編連」
*「弓の神祇 田川の弓削大神。」
*「剣(つるぎ)の神祇 鞍手の物部氏族。」
*「阿蘇の蹴破り神話と那珂川の裂岩伝承。」
*「古墳上に座す八幡神の謎。」
*「那ノ津の犬飼と草香江の鳥飼。」
*「瀬織津比売の謎。警固大神祭祀の話」
*「那ノ津(なのつ)の謎。」
*「岐志(きし)の話。」
*「安曇と五十猛神。(続、筑紫の五十猛神)」
*「筑紫の五十猛神。」
*「糸島の高祖(たかす)山。」
*「越の海人。」
*「隈(くま)の話。」
*「稲八金天神社の怪。」
*「川の神祇。」
*「筑紫の草香江の謎。」
*「神仏分離令の話。」
*「那珂川賛歌。」
*「亀の話。」
*「古代早良王国の謎。」
*「早良(さわら)の鯰。」
*「牛の話。」
*「稲佐神の秘密。」
*「飯牟礼山の神蹟。」
*「黒い神の系譜。」
*「女狭穂塚と男狭穂塚。」
*「句呉の系譜。」
*「熊襲の話。」
*「鬼の里。」
*「宇佐の比売大神。」
*「宇佐の神祇。」
*「安心院の玉依姫。」
*「中津平野の奇跡。」
*「宇佐への道 八幡神の生成。」
*「日根子の系譜。」
*「武内宿禰と大伴金村。」
*「豊比売命の系譜。」
*「御手長の話。」
*「都怒我阿羅斯等の話。」
*「香春の神。」
*「幡(はた)の話。」
*「宗像の三層構造。」
*「宗像の鯰。」
*「津屋崎の阿部氏族。」
*「黒と白。」
*「三つ巴の話。」
*「杵島の歌垣。」
*「鹿の話。」

*「古事記、 日本書紀への回帰。 記紀神話の復元」

*「阿蘇神話譚。神々の末裔」

*「WGIPの話。」
*「鉄器出土数をみれば邪馬台国論争は終わる。」
*「那珂川賛歌。」


油獏短編小説集より

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*「暁光の城。筑紫広門伝(抜粋)」
*「鉢の木物語。曲渕河内守伝(抜粋)」
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◎無断転載を禁ず

 

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連鎖する九州の比売神信仰。地域伝承から探る邪馬台国

 
 その集落は山々に囲まれた小盆地に家々が寄り添い、鄙びた佇まいの中にもどこか楚々とした慎ましさを漂わせて、集落のいかにも高貴な歴史さえ想起させる。

 集落へ入ったところに氏神であろう古い社(やしろ)が鎮座する。苔むした石の鳥居の奥、神妙な空間に瀟洒な社殿が佇んでいた。
 何気なく右手をみると神木の前に「鯰(なまず)」の石像が置かれていた。その石像はまだ真新しく、その信仰が今も生きていることを如実に感じさせた。


 佐賀平野の北部は背振山塊が大きく根張りを広げ、山内(さんない)と呼ばれる広大な山間に集落を点在させる。古く、山内は中央が把握できぬ地として、忌避された氏族が拠る域とされた。

 山内の中央を貫流する嘉瀬川を最奥にまで遡ると小さな山里に到る。この里の氏神は「淀姫(よどひめ)神社」である。山内の中枢、古湯の淀姫神社や三瀬、杠の野波神社など、山内の集落の多くに氏神として淀姫が祀られている。忌避されて佐賀平野を追われた民は嘉瀬川を遡ったのであろうか。

 淀姫とは嘉瀬川が山内から佐賀平野に流れ出す川上の地に鎮座する肥前国一ノ宮、與止日女神社(川上神社)の祭神、「與止日女(よとひめ)」のこと。
 川上の與止日女とは肥前国風土記に登場する地神。肥前の有明海沿岸には與止日女を祀る社は多く、中でも嘉瀬川流域には6社が祀られる。そして、冒頭の淀姫神社が示すように、與止日女は「鯰」を神使としている。

 また、與止日女は肥前国風土記に「海の神、鰐魚が流れに逆らって上りきて、この神のところに到るに海の小魚もしたがって来る」と記される有明海の海神であった。

 そして、もうひとり「鯰」を神使として、海神ともされる比売神の存在がある。

 鯰の伝承といえば阿蘇の大鯰の説話が知られる。阿蘇の開拓神、健磐龍命(たけいわたつ)の「蹴破り神話」と呼ばれる伝承。
 阿蘇のカルデラが大きな湖であった時代、健磐龍命は湖水を流して田畑を拓くため外輪山の壁を蹴り壊す。湖水は流れ出したが大鯰が横たわり、水はせき止められてしまう。健磐龍命はその大鯰を退治して湖水を流したという。
 この説話は中央から派遣された統治氏族に、鯰をトーテムとする先住の民が討伐されるという図式を示すといわれる。故に、阿蘇の古い民は鯰をトーテムとするといわれる。阿蘇神話は健磐龍命が九州鎮護のために下向し、地縁をつくって阿蘇を統治してゆくさまが語られる。

 阿蘇の大鯰の霊は阿蘇神社の元宮ともされる阿蘇北宮、「国造神社」の鯰宮に祀られる。そして、国造神社で祭祀される「蒲池(かまち)比売」の存在がある。
 蒲池比売は阿蘇の神々の母とも呼ばれ、国造神社の主祭神、速瓶玉(はやみかたま)命の妃神とも、阿蘇主神、健磐龍命の母神とも、阿蘇の祖神、草部吉見命の母神ともいわれ、阿蘇においてその存在感は大きい。
 また、蒲池比売は宇土半島の郡浦(こうのうら)より阿蘇に入ったとされ、肥後国三宮、郡浦神社を本地として、潮干珠、潮満珠の玉で潮の干満を司る八代海の海神ともされている。

 有明海の海神、與止日女もやはり、潮干珠、潮満珠の玉で有明海の干満を司ったとされていた。「鯰」を神使とし、潮干珠、潮満珠の玉で干満を司る海神とされることで川上の與止日女と郡浦(阿蘇)の蒲池比売の神格が重なっている。また、ともに記紀に載らない隠された地神として、その存在は異彩を放っている。


 そして、川上の與止日女の心霊は有明海沿岸から高良域へと転遷している。肥前国風土記逸文に「與止日女(よとひめ)のまたの名を豊姫(とよひめ)という」と記され、高良域の地主神とされる「豊比売(とよひめ)命」が川上の與止日女(よとひめ)と同神であるという。

 豊比売命は御井、高良域に集中して祀られる。高良玉垂宮(高良大社)の本殿に名神大社、豊比咩神社として合祀され、また、筑後川畔、大城の日比生にも豊比売神社が鎮座、その対岸、塚島の塚島天満宮も古くは豊比売神社であり、豊比売命の霊廟であったといわれる。北野、赤司の氏神、赤司八幡宮も古くは豊比売神社であった。

 その赤司八幡宮の縁起では、水沼(みずま)氏の裔が豊比売命を祭祀、神功皇后が豊比売命を「道主貴(ちぬしのむち)」として奉斎し、三女神の「田心(たごり)姫命」がその神であるという。道主貴とは航路神のこと。

 日本書紀に「日神の生れませる三の女神を以ては、葦原中國の宇佐嶋に降り居さしむ。今、海の北の道の中に在す。號けて道主貴と曰す。これ筑紫の水沼君等の祭る神、是なり」とある水沼君が斎る三女神とはこの事象。
 また、天照大神の神勅によって宇佐、宇像、道中の三ヶ所に降り立った三女神のうち、「道中」がこの地であるとされる。航路神、道主貴ともされる豊比売命の神霊は宗像三女神の田心姫命とも重なっていた。

 そして、物部氏族が拘わりをみせる。旧事本紀に「物部阿遅古連は水沼君の祖」と記される物部阿遅古連(もののべあじこのむらじ)とは磐井の乱を征討し、筑紫以西を統治した大連、物部麁鹿火(もののべあらかい)の弟。
 530年頃、物部阿遅古連は宗像で韓半島との航路を掌握し、道主貴の祭祀を司ったとされる。宗像、海北道祭祀の中枢、沖ノ島に祀られた田心姫命とは物部阿遅古連が筑後より宗像へ招聘した東シナ海の航路神、道主貴ともされる豊比売命の心霊であった。
 三女神の降臨伝承を遺す宗像域、鞍手の六ケ岳のあたりには全国で唯一、水摩(みずま、水沼)姓が多く伝わっている。


 また、川上の與止日女(よとひめ)と同神とされる高良域の地主神、豊比売(とよひめ)命の神霊は高良域から豊前、香春を経て、九州の神祇、宇佐へと繋がっている。

 香春三峰が聳える豊前、香春(かわら)において、豊比売命は香春三ノ岳に祀られ、今は、香春神社の元宮ともされる採銅所の地主神、古宮八幡宮で祭祀される。
 古社考証の書、神社覈録(じんじゃかくろく)に「高良(こうら)は加波良(かわら)と訓(よむ)べし」と記される高良と香春の拘わりがあった。
 また、古宮八幡宮の原初が三ノ岳の麓、「阿曾隈(あそくま)の宮」と呼ばれ、神紋を鷹羽とすることで豊比売命と火(肥)の阿蘇との拘わりさえみせる。

 香春において豊比売命は日神の象徴、銅鏡の化身とされる。そして、古宮八幡宮は宇佐の大祭「放生会(ほうじょうえ)」の出立の地とされ、この地で鋳造された銅鏡が「宇佐大神」の正躰として宇佐神宮に奉納される。ゆえに豊比売命は宇佐の元神ともされ、宇佐の放生会の事象は豊比売命の神霊が香春から宇佐へ移動した記憶ともいわれる。

 宇佐神宮は名神大社、豊前国一宮、4万社ともいわれる八幡宮の総本宮。古く、伊勢神宮と共に二所宗廟とも崇められた大社。
 が、宇佐神宮の祭神の一、「宇佐の比売大神」とは出自を隠された神。豊比売命の神霊が投影された比売神とも思わせ、もとより、豊比売命は続日本紀において八幡比売神と記される宇佐元神であった。


 「豊、とよ(豊前、豊後)」の中枢、山国川の河口、中津に闇無浜(くらなしはま)神社が鎮座する。豊の産土神とされ、豊日別国魂神社とも称する。この社に銅鏡の伝承が伝わる。「豊の守護は銅鏡の化身であり、東方から白雲に乗り、日輪の像に照らされた女神が現れ、四隅を照して恰も日中の如し」と闇無浜(くらなしはま)の地名譚を伝える。
 豊日別国魂神(豊日別命)とは香春から齎(もたら)された銅鏡の化身、豊比売命の神霊であった。香春の豊比売命は中津平野において豊の国魂とされていた。豊比売命とは「豊、とよ」の地主神の意。当に、豊国(とよのくに)の称(よびな)は豊比売命に由来する。

 高良域の地主神、豊比売命の心霊は豊前、香春を経て、豊の国魂ともされ、九州の神祇、宇佐へと繋がって宇佐神宮の祭神、比売大神に収斂されていた。
 宇佐の神祇の生成は、古く、在地の宇佐氏の地祇、比売大神の信仰に渡来系の辛嶋氏が豊前で示現した原八幡祭祀を持ちこみ、さらに、6世紀に中央より下向した大神比義が国家祭祀として応神天皇の信仰を同化させたといわれる。

 宇佐の神祇の原初、在地の宇佐氏の地祇、比売大神の信仰とは豊の国魂、豊比売命の祭祀に他ならない。それが、香春において豊比売命の心霊が銅鏡の化身とされ、宇佐大神の正躰として宇佐神宮に奉納される意義。


 全国4万社といわれる八幡宮の総本宮、豊前国一宮、宇佐神宮の祭神は3柱。主祭神は一之御殿に祀られる八幡神、応神天皇。そして、二之御殿に比売大神、三之御殿に神功皇后が祀られる。ふつう、主祭神が中央に鎮座して配神が左右に祀られるが、この宮では横並びであることで二之御殿の比売大神の存在が注目されていた。

 宇佐神宮を参拝すると、やはり、比売大神を祀る二之御殿が主体ともみえる。神殿の外陣にそれぞれ神門があるが中央の神門が最も大きく、象徴的。また、内陣に三つの神殿が並ぶが中央の二之御殿の前には拝陣が設(しつら)えられて、二之御殿が主体であることを示している。宇佐の神祇とは、古く、比売大神の祭祀が本質であった。

 そして、宇佐神宮の由緒は比売大神を八幡神が現れる前の宇佐の地主神として、宗像三女神のこととする。宇佐に天降った三女神を宇佐氏が宇佐神宮の原初、御許山に祀ったという。
 が、この由緒は平安期の先代旧事本紀に始まるとされ、比売大神の出自については豊の国魂である豊比売命、託宣集による玉依比売命、国東、姫島の比売許曽神、阿加流比売などの説が示され、古代九州の謎のひとつとされていた。

 宇佐の拝礼の作法は大国主神が隠(こも)る出雲大社と同じく、二拝四拍手一拝とされる。当に、忌避された神の作法。比売大神は八幡神、応神天皇と神功皇后の神霊に挟まれて封じられるともみえる。


 九州における比売神の連鎖とは、八代海あたりの比売命祭祀に始まり、有明海沿岸や高良域、そして、香春、豊前へとその祭祀を転遷させて、九州の神祇、宇佐へと繋がっていた。
 郡浦の蒲池比売、川上の與止日女、高良域や豊前、香春の地主神、豊比売命など、いずれの比売神も記紀に載せられない隠された神、為政者より忌避されて、中央の祭祀思想から外された神々であった。
 その神威を畏れた為政者に忌避された神を民は別の神名で呼び、新しい神体を重ねている。その事象が異名似体の比売神群を生成して、比売神の連鎖なる事象が生まれたとも思わせる。


 豊比売(とよひめ)命の名義は魏志倭人伝にいう邪馬台国の女王、卑弥呼の宗女、「台与(とよ)」を彷彿とさせる。
 豊比売命や同神とされる與止日女(よとひめ)命が邪馬台国の台与(とよ)の神霊を投影するのであれば、台与の共立とは3世紀半ばの有明海沿岸、筑後川流域における事象。邪馬台国中枢が吉野ヶ里や高良域であることを補完する。邪馬台国九州説において、邪馬台国を有明海沿岸、筑後川流域とする説は根強い。
 與止日女や豊比売命の神格は古墳期以降に確立されたものであろう。が、それに投影された太古の神霊の存在までは否定できない。そういった記憶が神話(伝承)や信仰を生んだとも思わせる。

 そして、国の正史たる古事記や日本書紀に邪馬台国や卑弥呼、台与の記述が無いことが、のちの大和王権(畿内)と邪馬台国の繋がりが無いことを示すといわれる。
 また、在地の氏族が土蜘蛛や蛮夷たる熊襲(くまそ)などと呼ばれて忌避された事象と同じく、與止日女や豊比売命、宇佐の比売大神などが出自を隠され、その祭祀が中央の祭祀思想から外された訳も邪馬台国に由来するためとも思わせる。


 古く、宇佐神宮は九州第一の神祇と崇められて、比売大神を祀る二之御殿の下には祭神の石棺が眠るともいわれる。

 6世紀前半、筑後に在って大和王権に反旗を翻した筑紫君、磐井(いわい)は高良域で征討軍に敗れ、豊国(とよのくに)の峻しき山の曲(くま)で討たれる。磐井はなぜか宇佐を目指していたという。磐井の乱は大和王権による邪馬台国征討の最後の戦さとする説がある。(了)

 

(追補)阿多海人の話。邪馬台国の成立意義

 神話において、笠沙に在った邇邇藝命(ににぎ)は木花之佐久夜比売(阿多都比売)を娶り、火照命、火須勢理命、火遠理命の三子をもうける。三男の火遠理命(彦火々出見尊)が海幸山幸説話における山幸彦で、長男の火照命が海幸彦である。

 海幸彦の釣針を失った山幸彦は塩椎神(しおつち)に教えられて綿津見の宮へ赴き、そこで海神の女(むすめ)、豊玉比売に失った釣針と潮干珠、潮満珠の玉を与えられる。山幸彦は潮干珠、潮満珠の霊力で海幸彦をこらしめ、海幸彦(火照命)は山幸彦(火遠理命、彦火々出見尊)に従い、隼人の阿多君の祖となる。

 薩摩半島の西岸、金峰町の阿多郷は海幸山幸の説話にいう隼人の阿多(あた)君の本地とされる。

 縄文晩期から弥生、古墳期にかけて琉球や奄美産のゴホウラ、イモガイなどの貝輪が西日本各地で出土する。その時代、貝輪は支配層の人々によって邪を払う呪具、また、威信財として珍重され、南西諸島から九州西岸を経て北部九州や山陰、瀬戸内にまで齎されている。
 そして、肥前、伊万里の腰岳産の黒曜石が奄美、琉球にまで流通し、それらの事象は南西諸島から北部九州を繋ぐ「貝の道」と呼ばれる海上の交易ルートを想定させた。

 南薩、金峰町の高橋貝塚は縄文晩期~弥生中期の貝塚。籾痕のある土器や石包丁などの出土は早期の稲作を示し、鉄鏃など最古級の鉄器が出土して九州南端の文化様相を明らかにしている。また、この貝塚から加工途中の貝輪が大量に出土して、阿多が琉球や奄美産の貝輪の加工、交易の拠点であったことを示した。

 神話において、海幸彦に由来するのちの阿多隼人とは南方系の海人。この海上の交易ルートは南薩、阿多を基点として南西諸島から北部九州まで、潮流にのって自在に移動した海人集団を想起させた。金峰町の中津野遺跡では日本最古、弥生前期後半の準構造船の部材が出土、外洋航海を示す傍証とされた。

 そして、阿多海人が系譜的に九州西岸を北上した痕跡がみられる。

 九州西岸、八代海の北端、宇土半島の郡浦(こうのうら)で奉祭される蒲池比売(かまち)の存在がある。蒲池比売命は八代海の海神、潮干珠、潮満珠で潮の満ち引きを操る女神とされる。潮干珠、潮満珠の玉とは海神の女(むすめ)、豊玉比売由来。

 郡浦の蒲池比売は阿蘇の母神とも呼ばれ、阿蘇神社の元宮ともされる阿蘇北宮、国造神社でも祭祀される。
 阿蘇の古族、山部氏族の存在がある。姓氏家系大辞典は山部を隼人同族とし、新撰姓氏録は山部を久米氏の流れとする。
 降臨神話において、久米氏族の祖とされる天津久米命は邇邇藝命の降臨を先導した神。久米氏族は隼人系の海人とされ、阿多の上加世田遺跡の墨書土器には久米の名がみられる。

 また、山部の初見が「景行天皇の九州巡幸の折、葦北の小嶋で山部阿弭古が祖の小左(長)に冷水を求めた」という日本書紀の記述。葦北の小嶋とは八代の水島。古く、南方や大陸との交易の拠点であった。
 阿弭古(あびこ)とは「阿彦」。葦北は阿多海人の地ともされ、阿の地、阿蘇の山部が「阿」の観念において、阿多海人との繋がりをみせている。
 また、水島の対岸が天草の阿村。「阿」の名を冠する港は古く、天草第一の港湾であった。そして、阿村の航路の先は蒲池比売の故地、郡浦。


 古墳期の有明海に在って、大陸交易で活躍したとされる水沼氏(みずま、みぬま)の存在がある。水沼氏は禊の巫女を出す神祇の家柄。古く、有明海は三潴(みずま)のあたりまで湾入して、水沼氏の三潴は東シナ海交易の拠点であったといわれる。
 水沼氏はのちに日下部(くさかべ)を称する。日向の都萬神社で木花之佐久夜比売を奉祭する日下部神主など、九州の古い日下部氏族は中南九州の海人に纏わる神祇の氏族とされ、新撰姓氏録は日下部を阿多御手犬養同祖、火闌降命之後也とする。火闌降命とは阿多君の祖とされる火照命、海幸彦。そして、阿蘇古族、山部氏族がやはり、日下部(草部吉見)に纏わる。

 また、筑後の名族とされる蒲池氏において、祖蒲池(あらかまち)と呼ばれる古族が水沼氏族と重なり、祖蒲池は宇土半島、郡浦の蒲池比売(かまち)を祖にすると伝わる。
 そして、有明海沿岸には與止比売(よとひめ)の存在がある。有明海沿岸にはこの與止比売を祀る社は多く、中でも嘉瀬川流域には6社が鎮座する。與止日女命も豊玉比売由来の潮干珠、潮満珠の玉で有明海の干満を司る海神とされ、ともに鯰トーテムの比売神であることで、與止日女と蒲池比売が重なっている。

 水沼氏はのちに始祖を玉垂神として筑後国一宮、高良玉垂宮(久留米、高良大社)を奉祭したと伝わる。そして、高良玉垂宮の元宮ともされる三瀦総社、大善寺玉垂宮には筑後国神名帳による玉垂媛神の存在があり、玉垂神は比売神ともされ、與止日女命とも重なっている。玉垂神の名義とは潮干珠、潮満珠の玉に由来している。

 高良玉垂宮には玉垂神の裔を称する日下部神主(草壁、稲員)の存在があり、古く、高良(こうら)は郡浦(こうのうら)の転化であり、山麓は来目(くめ、久米)と呼ばれて、久留米の地名由来ともされる。

 水沼氏の本拠とされる高三潴の塚崎に高良御廟塚と呼ばれる古い墳墓が在る。 弥生期の墳丘墓で高良玉垂命の墓とも伝わる。墳丘には貝殻が葺かれていたといわれ、周辺に白い貝殻が散在している。 当に、海人の比売神の墳墓に相応しい。

 阿多海人の系譜が南薩から九州西岸、八代海の海神、蒲池比売や有明海の與止日女に拘わり、有明海の海人氏族、水沼氏や筑後の国魂、高良玉垂命にまで繋がっている。

 邪馬台国九州説において、邪馬台国を有明海沿岸、筑後川流域とする説は根強い。太古の有明海沿岸に邪馬台国を建国した集団の原初とは、南薩を基点として九州西岸を北上した阿多海人の系譜を想起する。
 魏志倭人伝が描く邪馬台国の風俗は、稲作、断髪、鯨面(入墨)など南方系海人のものであった。
 偏西風が西から東に吹き、黒潮が南から北に流れることで、古い時代、列島に拘わる事物の主体が南方から東シナ海を北上したことは自明の理。日本の基層文化は飽くまで南方系のものであった。


 有明海を臨む吉野ヶ里遺跡の弥生中期後半の甕棺墓からは腕に36個もの貝輪をつけ、絹の衣を着けたシャーマンとされる女性の骨が出土している。
 また、肥前国風土記において、姫古曽神や大山田女、狭山田女、世田姫(よたひめ)など、この域ではのちに土蜘蛛とも呼ばれて忌避された女性領袖の存在が際立っている。そして、これらは太古の女性優位や女神祭祀の痕跡。

 古く、百越の倭人と呼ばれる存在がある。百越(ひゃくえつ)は大陸南域からベトナムに到る広大な沿岸に在った諸族。北方の漢人とは言葉、文化を異とする民で、稲作、断髪、鯨面(入墨)など、倭人との類似が指摘される。当に、南方系海人、阿多隼人の原初。
 そして、百越に拘る大陸南域の諸族とは女神を奉斎する民でもあった。広西やベトナム北部のチワン族は人間の祖を洛甲(みろちゃ)なる母神とし、トン族は薩神(さっしん)なる女神を祖神とする。インドシナ北部のハニ族やミャオ族(苗族)は稲魂を女神として、海南島のリー族は大地の女神(地母)を祭祀する。

 邪馬台国における卑弥呼や台与の共立にみられる女性優位や女神祭祀の観念は南方系海人に由来する。また、卑弥呼と弟王の関係は琉球のおなり神信仰を彷彿とさせる。太古の有明海沿岸に邪馬台国を建国した集団とは南薩あたりを基点として、南西諸島から北部九州まで潮流にのって自在に移動した女神を奉祭する海人の系譜とも思わせる。


 最近の吉野ケ里遺跡の発掘調査において、最古級の青銅器鋳型片2点が出土。弥生中期前半(BC2世紀頃)のものとされ、初期の青銅器生産の様相を示した。有明海沿岸は古い時代から韓半島の影響が強く、半島系無文土器が沿岸の各域から出土、半島由来とされる青銅器生産などは福岡平野に先駆けて弥生前期から繁栄している。

 古く、韓半島南域にも倭人が在ったという。東シナ海で黒潮より分かれた対馬海流は九州西方から対馬海峡を抜け、日本海へと流れる。
 大陸南岸を発した百越の倭人は九州南西岸に辿り着く。そして、いくらかの船は対馬海流にのって韓半島南岸にも到ったとみえる。それが韓半島南域に倭人が在った意義。

 神話において、素戔嗚尊は新羅の曽尸茂梨(そしもり)に天降り、その後、子神の五十猛命と列島へ渡る。曽尸茂梨とは半島南域、洛東江上流。列島へ降臨した天孫、瓊々杵尊と同根の神が半島南域へ天降ることが韓半島南域の倭人の存在を投影するとも思わせる。
 彼らは列島に大陸南岸の稲作を持ちこんだ弥生人同種。そして、韓半島南域の倭人は対馬海峡を跋扈した海人、玄界灘沿岸のみならず弥生前期の有明海にも半島由来の北方系事物を持ちこんでいる。

 また、弥生中期になると、有明海における江南との交易が示唆される。吉野ケ里遺跡の墳丘墓は弥生中期の墳墓としては列島最大のもの。揚子江流域の様式が直接伝わったとされる。また、出土した玉類などの事物も江南のものであった。

 弥生期の有明海沿岸は特異な域であった。韓半島由来の北方系事物と江南との交易による揚子江流域の文化が交錯している。邪馬台国前夜の事象。
 有明海沿岸の地理的意義とは、九州西岸を北上した南方由来の観念と前記の大陸南北の事物が出会う文化熟成の域であったことに由る。それが3世紀の有明海沿岸において女王、卑弥呼を共立した盟主、邪馬台国の成立意義。

 

(追補)鯰トーテムの民、久米氏族の原初。

 久米(くめ)氏族の原初を東南アジアのクメールとする説がある。クメールはカンボジアを中心とする東南アジアの民。古く、メコン川の中下流域、タイやベトナムにも分布、高床式の住居に住んで稲作を行い、精霊信仰をもつという。

 そして、久米氏族は鯰をトーテムとするという。メコン川は東南アジア最大の大河。中下流域に生息するメコンオオナマズは世界最大の淡水魚で全長2、3米ほどにもなり、タイでは神の使いとされる。カンボジアのアンコール遺跡やアンコールトムのバイヨンには鯰のレリーフが描かれて神聖視されている。

 久米氏族をクメールに纏わる極南界の海人とする説は興味深い。久米氏族は隼人系の海人とされ、のちの隼人の楯の渦巻紋や鋸歯紋の類が、東南アジアの楯に悪敵を払う呪術として見られ、隼人が拘わる山彦海彦の説話が東南アジアの神話をルーツとする説もそれらを補完している。

 倭人に拘るとされる百越の民とは、古く、大陸の南方、江南からベトナム(越)に到る広大な沿岸域に在った非漢人諸族の総称。百越のいくらかは東南アジアのモン・クメール語派とされ、南域ではクメールと同化していたとされる。

 南海から北上する黒潮に沿って、九州の南に弧を描く南西諸島の久米島や南西諸島に散在する久間や来間(くま)地名も興味深い。
 久米島などでは古い時代より稲作が行われて、民俗学者、柳田国男は著作「海上の道」において、南西諸島のいくつかの久米、クメと呼ばれる地が、古く、稲作が行われた痕跡とする。列島の古い稲作は南方から齎されたとして、「米、コメ」とはクメの転化とされ、「神、カミ」などの重要な言葉はモン・クメール語から派生したとする説もある。

 神武東征の神話において、日向を発した神日本磐余彦尊の側(そば)に在って、能く藩屏となりし大久米命の存在がある。大久米命は黥利目(入墨目)であり、その習俗は百越の海人のもの。而して、久米氏の氏寺、橿原の久米寺には「鯰」の奉納額が飾られている。
 
 
 

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狗奴国残照。阿蘇祖神、草部吉見命の謎

 
 その南に狗奴国あり。男子を王となす、その官に狗古智卑狗あり。女王に属さず。(中略) 正始8年(248年)太守頁 官に到る。倭の女王 卑弥呼、狗奴国男王、卑弥弓呼ともとより和せず、倭の載斯、烏越等を遣わして郡に詣り、相攻撃する状を説く。(魏志倭人伝)

 3世紀の倭国において、邪馬台国の南に在り、邪馬台国と対峙していたという狗奴国の存在がある。男王、卑弥弓呼(ひみくこ)があり、官を狗古智卑狗(くこちひこ)とする。邪馬台国と狗奴国は戦闘状態にあったという。


 邪馬台国の比定は畿内説と九州説にほぼ二分される。その時代、鉄器の出土は畿内に比べて北部九州が圧倒的に多く、また、鉄器関連遺構が大和盆地には殆ど無いため、邪馬台国九州説の論点となっている。魏志倭人伝には倭人(邪馬台国)は鉄鏃を使うと記される。而して、邪馬台国を北部九州域、有明海周辺や筑後川流域とする説は根強い。
 何よりも国の正史たる古事記や日本書紀に邪馬台国や卑弥呼の記述が無いことが、のちの大和王権(畿内)と拘りが無いことを示している。

 そして、邪馬台国九州説において、その時代、鉄製武器(鉄鏃)の集積で北部九州を圧倒する火(肥)北部が、邪馬台国の南に在ってその存在を脅かしたとされる「狗奴(くな)国」にも比定される。
 狗奴国には男王、卑弥弓呼と官の狗古智卑狗が在ったとされ、狗古智卑狗(くこちひこ)を「きくちひこ、菊池彦」と解して狗奴国を菊池川流域に比定する論者は多い。

 正始8年(248年)、邪馬台国の女王、卑弥呼は狗奴国との戦いを魏に報告、帯方郡から塞曹掾史張政が派遣されている。その記述は邪馬台国が大量の鉄製武器(鉄鏃)を集積する狗奴国に苦戦していた様子を思わせる。そして、狗奴国との戦いのさ中、邪馬台国女王、卑弥呼は没したという。


 九州北域、筑前と筑後の境界、夜須、三輪、小郡あたりに、隈、篠隈、小隈、乙隈、横隈、山隈、湯隈と「隈、くま」地名が集中する。

 筑紫平野の中央に比高100メートルほどの孤丘が聳える。筑前と筑後の境界はこの小さな山であった。この山は筑後では「花立山」と呼ばれる。が、筑前では「山隈山」、隈(くま)の山と呼ばれる。古く、この山を「隈、くま」の名で呼んだのは筑前の民であった。そして、前述の「隈」地名はこの山を中心に展開する。北に筑紫野の隈、夜須の篠隈、小隈。小郡の乙隈、西に横隈、南に三輪の山隈、今隈と「隈」の地名が山を廻(めぐ)る。この山は古く、隈(くま)の神奈備であった。

 隈(くま)とは山や川が曲がったところ、または、奥まったところの意ともされる。が、九州において、熊本などに遺る隈(くま)という称(よびな)は、火(肥)の民に根源的に纏わる。隈庄、隈部、隈府。隈本とはのちの熊本。
 古く、隈(くま)とは人吉盆地を中枢とする火(肥)南域、「球磨、くま」に由来するという。

 熊襲(くまそ)が球磨贈於ともいわれ、球磨の人吉盆地や大隅の隼人域、贈於(そお)に在った民ともされる。そういえば、筑紫平野において、「隈」地名が集中する夜須、三輪のあたりは熊襲ともされた「羽白熊鷲(はしろくまわし)」が神功皇后に討たれた地であった。
 夜須、三輪、小郡あたりに隈(くま)地名を集中させたのは、熊襲ともされた火(肥)の民とも思わせる。山隈山の西麓、干潟(日方、ひかた)集落の氏神は火(肥)の神祇、阿蘇神社であった。

 隈(くま)の神祇は佐賀平野あたりにもみえる。佐賀平野の中枢、神埼の北方に日ノ隈、早稲隈、帯隈、鈴隈の四山が並ぶ。いずれも低山ながら存在感を示す。また、筑後川上流域、日田では盆地の生成伝承に由来する日隈、月隈、星隈の三つの浸食残丘が配置され、「三隈、みくま」の神祇とも称される。
 これら隈(くま)の神祇は筑後川流域や佐賀平野あたりに系統的にみられ、或る時代、これらの域に火(肥)の民が跋扈した痕跡とも思わせる。そして、魏志倭人伝にいう「狗奴(くな)国」も隈(くま)に纏わるという。


 弥生後期の火(肥)を中心に出土する「免田式土器(重孤文土器)」の存在がある。そして、免田式土器の出土域を狗奴(くな)国の領域とする説がある。
 免田式土器は熊本平野から阿蘇、宇城、八代海沿岸、球磨川流域、人吉盆地など中南九州に分布。球磨、人吉盆地の免田から大量に出土したためその名を得た。

 免田式土器は祭祀土器ともされ、胴部はそろばん玉の形、開き気味にのびる長頸をもち、胴部に重弧文や鋸歯紋などが描かれる。優美なシルエットは気品に溢れ、最も美しい弥生土器ともいわれる。
 人吉盆地が球磨(くま)の中枢、のちの熊襲(くまそ)の域とされることで「熊襲の至宝」とも称される。蛮夷ともされる熊襲に纏わる民が、何故、このような上質で繊細な土器をつくり得たのか。その姿は金属器を模倣したともいわれ、起源は大陸南域にあるといわれる。

 その人吉盆地の免田に才園古墳が在る。この古墳から舶載の鍍金鏡が出土した。43文字の銘文が刻まれた神獣鏡であった。鍍金とは金メッキ、鍍金鏡の出土は国内で僅か3例、が、精緻な画文帯神獣鏡はこの鏡のみ。そして、この鏡が3世紀の江南で鋳造された秀品であるとされた。
 球磨の閉鎖された山間に在って免田式土器を奉じ、鍍金鏡を伝世させた民とは大陸、江南に纏わる氏族とも思わせる。免田式土器の美しさが、のちの熊襲の本来の姿を垣間見せている。


 弥生期の火(肥)の考古において、火(肥)は本来、北部九州の影響が強い域であった。弥生中期には北部九州の須玖式系土器が熊本平野南域、宇城あたりまでみられ、北部九州由来の青銅器や甕棺墓、また、韓半島系の無文土器などもこのあたりを南限とする。そして、弥生中期後半になって地域色をみせる黒髪式土器が登場する。

 やがて、弥生後期に火(肥)の土器様相は大きく変わる。熊本平野から八代海沿岸、球磨川流域に前述の免田式土器(重孤文土器)が濃く分布するのである。
 免田式土器は人吉盆地と宇城、そして、阿蘇が拠点的な出土域とされ、薩摩北部や日向南域にまで出土域を広げている。古墳期を迎えて姿を消すが、人吉盆地ではその後も存続している。前述の流金鏡の存在と併せて、球磨、人吉盆地の地域性は異質であった。

 そして、火(肥)の神祇の中枢、阿蘇の考古が特徴的である。阿蘇の狩尾遺跡群は弥生後期の列島において、鉄に拘わる遺構が最も集中する域とされる。また、阿蘇の大規模集落では祭祀遺構が際立ち、免田式土器が祭祀的な様相で出土する。

 これら弥生期の火(肥)の考古に時間的な要因を勘案すると、ひとつのストーリーが浮かび上がる。弥生後期に球磨、人吉盆地を本地とする特異な集団が八代海沿岸、宇城、熊本平野から阿蘇へと拡散した様子を伺わせる。
 人吉盆地で免田式土器を奉じた集団は球磨川流域から八代海沿岸、宇城、熊本平野を北上、阿蘇で大量の鉄器と出会う。
 やがて、鉄製武器を大量に集積し、かつてない軍事力を有した彼らはその領域を菊池川流域にまで広げ、広域国家、狗奴国を建国したとも思わせる。免田式土器の広がりがその痕跡ともみえる。


 阿蘇の祖族とされる山部氏族の存在がある。新撰姓氏録によると、山部氏族は隼人系の海人に拘わる大族、久米氏族の流れとされる。そして、久米(くめ)氏族の故地が肥後国球磨郡久米郷(人吉盆地)ともいわれる。
 古く、メとマは同じ音とされ、久米はクマ(球磨)とも称される。「隈、くま」という火(肥)の根源的な称(よびな)の原初。
 歴史学者、喜田貞吉は「久米は玖磨にして、久米部は玖磨人、即ち肥(くま)人ならん」と述べ、久米は熊襲に拘わるとする。そして、狗奴(くな)国も「隈、くま」に由来すると述べている。

 また、山部氏族が斎祀る阿蘇の母神とも呼ばれる「蒲池(かまち)比売命」の存在がある。蒲池比売命は宇土半島、郡浦(宇城)を本地とする比売神。
 久米氏族を通じて阿蘇と球磨の人吉盆地が繋がり、蒲池比売命を通じて宇城と阿蘇が繋がっている。球磨と宇城、阿蘇が免田式土器の拠点的な出土域とされることで、当に、免田式土器を奉じて球磨の人吉盆地に拠った集団が拡散、球磨から宇城、そして阿蘇へと拠点を置いた痕跡ともみえる。

 日本書紀に「熊襲は衆類甚(ともがらはなはだ)多く八十梟帥(やそたける)がいた」と記され、のちの火(肥)の民、熊襲は単一の族ではなく、多くの種があったとする。而して、広域国家、狗奴国とは球磨や宇城、阿蘇、そして菊池川流域を拠点とした集団が割拠する様相であったとも思わせる。


 弥生期の鉄器生産は韓半島との交流により、北部九州域がいち早くその技術を得て、弥生中期以降、韓半島から輸入された鉄挺(てってい)を原料として鉄器生産を集中させている。
 が、弥生後期の鉄器出土において、近年、火(肥)の鉄器出土が北部九州域に迫り、鉄製武器の出土数では火(肥)北部が北部九州域を圧倒している。而して、その様相は邪馬台国域とその南にあったとされる狗奴国の存在を見事に投影している。

 火(肥)北部の鉄器生産遺構としては、鉄鏃など170点の鉄器や鍛冶遺構群を検出した菊池川流域、山鹿の「方保田東原(かとうだひがしばる)遺跡」や130点の鉄製武器など国内最多、580点もの鉄器出土を誇る大津の「西弥護免(にしやごめん)遺跡」などが知られる。
 そして、阿蘇の遺構が注目される。阿蘇の狩尾遺跡群は阿蘇谷北西の外輪山麓、湯の口遺跡、方無田(かたなた)遺跡、前田遺跡などの総称。鉄に拘わる遺構が国内で最も集中される域とされ、湯の口遺跡からは鉄鏃など330点の鉄器と大量の鍛治炉が出土している。

 而して、阿蘇の鉄器生産に関しては韓半島輸入の鉄挺(てってい)を原料とするだけではなく、阿蘇に産する褐鉄鉱(かってっこう)を使ったともいわれる。
 褐鉄鉱とは鉄の酸化鉱物、天然の錆(さび)。鉄を含んだ温泉水などの酸化やバクテリアによって形成され、沼地などに堆積して鉱床をつくり、低温で溶融できるため古代製鉄の原料になり得るという。狩尾遺跡群周辺では「阿蘇黄土、リモナイト」と呼ばれる褐鉄鉱を大量に産出する。
 鏃(やじり)程度のものであれば褐鉄鉱による古代製鉄でも技術的には問題は無いとされる。火(肥)出土の鉄製武器とは殆どが鉄鏃であった。そして、褐鉄鉱による製鉄技術は東南アジアなど南方系のものとされる。

 阿蘇の山部氏族に関して、山部の部名とは王権直轄の山間管理や産物を納する品部。応神天皇の代に山部を定めたとされる。阿蘇の褐鉄鉱や生成される鉄製品は、当に、阿蘇山域の重要な産物であった。阿蘇の山部とは褐鉄鉱由来の産鉄、鍛冶の民とも思わせる。


 阿蘇、南郷谷に大規模弥生集落とされる幅(はば)、津留(つる)遺跡が在る。環濠、倉庫、工房、大規模水路や墓域を備え、阿蘇の拠点集落とされる。
 鍛冶工房群からは鉄鏃などの鉄製武器や鍛冶遺物が大量に出土、また、祭祀遺構の存在が際立ち、免田式土器が祭祀的な姿で出土する。3世紀に最盛期を迎えたとされ、その規模は吉野ヶ里遺跡を凌ぐとも。而して、狗奴国の国邑とも思わせる。

 そして、前述の「方保田東原遺跡」を盟主とし、大量の鉄製武器を集積する菊池川流域の大規模集落群が存在感をみせる。方保田東原遺跡は菊池川岸の台地上に広がる集落遺構。100を超える住居跡や巨大な濠などが検出されている。
 また、菊池川中流域、和水の「諏訪原遺跡」や下流域、玉名の「下前原遺跡」などでも大量の鉄製武器や鉄滓を伴う鍛冶遺構群が出土、この域における圧倒的な鉄製武器の集積は際立っている。

 菊池川流域の鉄製武器の集積は邪馬台国との境界域とされる軍事的緊張に因るともみえる。この域の北、筑肥山地は現在も福岡、熊本県境であり、弥生後期においても邪馬台国域と狗奴国の境界であったと思わせる。

 また、魏志倭人伝において、国王の卑弥弓呼より先に記される狗奴国の官、「狗古智卑狗(くこちひこ、菊池彦)」が存在感をみせる。菊池川流域は特徴的なジョッキ型土器やのちの装飾古墳の存在など、火(肥)に在って、独自性が強い特異な域であった。
 狗古智卑狗率いる菊池川流域の集団とは広域国家、狗奴国の前衛。阿蘇の褐鉄鉱に依る鉄製武器の大量集積を背景とした圧倒的な軍事力で卑弥呼を怯えさせた狗奴国の尖兵とも思わせる。
 この集団は邪馬台国と激しい攻防を繰り返したとみえる。吉野ヶ里遺跡の墳墓群には鉄鏃が刺さった多数の人骨や首から上が無い人骨などがみられ、凄まじい戦いの痕跡とも思わせる。


 正始8年(248年)、邪馬台国の女王、卑弥呼は狗奴国との戦いを魏に報告、帯方郡から塞曹掾史張政が派遣される。邪馬台国が大量の鉄製武器(鉄鏃)を駆使する狗奴国に苦戦していた様子を伺わせる。
 そして、戦いのさ中、卑弥呼が没し、男王が立つが混乱を抑えられず、卑弥呼の宗女、台与(とよ)が共立されたという。
 やがて、晋書にいう266年の台与の朝貢を最後に、413年の倭王「讃」(倭の五王)の朝貢まで、150年近く大陸の史書から倭国の記録が消える。そのため4世紀は「空白の世紀」とも呼ばれる。その空白の4世紀に邪馬台国(連合)の存在は消え、吉野ヶ里遺跡などの環濠集落も消滅している。
 当時、邪馬台国と対峙していたのは狗奴国のみ。而して、狗奴国が邪馬台国を滅亡に追いこんだとみるのが妥当であろう。
 吉野ヶ里遺跡などが姿を消した後も、方保田東原遺跡など菊池川流域の大規模集落は3世紀の状態のまま古墳期まで存続している。

 冒頭の筑紫域における「隈、くま」地名の拡散や筑後川流域や佐賀平野の「隈(くま)の神祇」の存在とは、火(肥)の民が跋扈した痕跡。邪馬台国を滅亡に追いこんだ狗奴国集団が弥生末期の邪馬台国域に進駐した事象ともみえる。狗奴国の物実ともされる免田式土器(重孤文土器)は筑後川流域や佐賀平野でも散見される。
 のちの古墳期の筑後川流域に散在する装飾古墳は、当に、菊池川流域を本地とする火(肥)の感性であった。

 そして、火(肥)の別名が「建日向日豊久士比泥別」であった。その名には日向、豊、そして、筑紫の国名までも含まれる。かっての狗奴国の領域を示したものであろうか。それが佐賀平野あたりが「火(肥)」とされた意義であるとも思わせる。

 肥前国風土記によると、肥前と肥後はもとは「火国」というひとつの国であり、火国が「火前」と「火後」に分かれたのは7世紀のこと。そして、和銅6年(713)の勅命により、「火」を好字の「肥」に改めたという。何故か、佐賀平野あたりは火国とされていた。火(肥)とは、本来、阿蘇の火炎や八代海の不知火に由来する域、氷(ひ)川下流域の「肥伊(ひい)郷」あたりが原郷であるという。


 阿蘇神話に大鯰の説話がある。昔、阿蘇は外輪山に囲まれた大きな湖であった。阿蘇の開拓神、健磐龍命は湖水を流して田畑を拓くことを考え、湖の壁を蹴り壊す。湖の水は流れ出すが大鯰が横たわって水をせき止める。健磐龍命はその大鯰を退治して湖の水を流したという(蹴破り神話)。

 この大鯰の説話は中央から派遣された氏族に鯰をトーテムとする在地氏族が征討、統治される図式を示すともいわれる。そして、大鯰の霊は阿蘇神社の元宮ともされる阿蘇北宮、国造神社の鯰宮に祀られる。阿蘇の古い民(草部吉見氏族、山部)は鯰をトーテムとするという。


 阿蘇神話とは肥後国誌、阿蘇神社縁起などで語られる阿蘇の地方神話。阿蘇の主神、健磐龍命(たけいわたつ)が中央より阿蘇に派遣され、阿蘇を開拓してゆくさまが語られる。
 そこには神話的な説話に彩られた神々の姿がみられ、その中で統治氏族が先住の民と婚姻を通して同化してゆく過程が語られる。

 阿蘇神話の系譜において、古く、阿蘇には神武天皇の御子、日子八井命(草部吉見命、国龍命)が在った。のちに神武天皇の孫である健磐龍命が九州鎮護の任で下向する。そして、健磐龍命は日子八井命の女(むすめ)、阿蘇都比売命を娶り、阿蘇に土着する。
 健磐龍命の御子、速甕玉命(はやみかたま)が初代、阿蘇国造となり、その子の日子御子命が阿蘇大宮司家の祖となる。以降、阿蘇大宮司家は連綿92代に亘って阿蘇を統治している。


 先に阿蘇に在った草部吉見命(くさかべよしみ)は不思議な存在である。神武天皇の御子、日子八井命ともされるが、日子八井命の存在は日本書紀には記されず、古事記にもその事績の記載はない。而して、その実体は謎。
 そして、神武天皇の御子、日子八井命と孫の健磐龍命の二人が阿蘇に下向し、血縁をつくってまで阿蘇に土着する必要があったのかという謎。2代に亘る皇統の下向は不自然であろう。

 草部吉見命は阿蘇において草部吉見氏族という地族を派生させている。故に、草部吉見命は阿蘇の祖神ともされる。そして、阿蘇の系譜を見るとき、阿蘇大宮司家を補佐する阿蘇権大宮司家、阿蘇祠官家、阿蘇北宮祝家などの社家はすべて草部吉見氏族である。また、阿蘇神社は健磐龍命を主神として12神を祀るのであるが、その殆どは草部吉見系の神であった。

 祭祀においても阿蘇神社の火の祭典「火振り神事」は草部吉見神の結婚を祝うものといわれ、「おんだ祭り」などの四季折々の農耕祭事は社家、草部吉見系の宮川一族の祭りであると伝わる。この不自然さは何であろう。建磐龍命を主神としながら、草部吉見神に纏わる祭祀が主体になっているという構図に謎を感じる。


 阿蘇に鬼八説話が伝わる。阿蘇の主神、健磐龍命は配下の鬼八が叛いたため退治しようとする。が、鬼八は阿蘇の南郷谷を逃げ出し、矢部や高千穂で健磐龍命と争うが、遂には健磐龍命に征伐されてしまう。が、鬼八は幾度も生き返り、健磐龍命に飽くまで抵抗する。そこで、健磐龍命は鬼八の首や手足を切り分け、それぞれ異なる場所に埋めたという。
 それ以来、阿蘇では鬼八の怨念で霜害が続き、困った健磐龍命は霜神社を造り、火焚き神事を行って鬼八の霊を慰めたという。

 この鬼八説話には統治氏族と在地氏族との間に繰り広げられた抗争の物語が秘められるといわれる。阿蘇でも中央王権が在地氏族を支配、統治してゆく過程で抗争が繰り返されたとも思わせる。

 阿蘇外域、草部に鎮座する草部吉見神社の由緒は、阿蘇祖神、草部吉見命を神武天皇の御子、日子八井命とするが、在地の社家の古伝には日子八井命の名は無く、草部吉見命はこの域の地主神であり、草部の吉見池に棲む龍体であるとする。草部吉見命(国龍命)とは中央から阿蘇に下向した統治ではなく、在地の領袖であるという。
 さすれば、前述の阿蘇の信仰が草部吉見命を主体とする訳も、草部吉見命が本来の阿蘇の領袖であったことに依るともみえる。そして、草部吉見命は何らかの理由で皇統に組み入れられたとも思わせる。


 健磐龍命の御子、速甕玉命は第10代 崇神天皇の時代に阿蘇国造とされ、崇神天皇は4世紀初頭の天皇ともされる。而して、草部吉見命の時代は3世紀で、健磐龍命の下向が3世紀末、「狗奴国」終末の頃とも思わせる。

 3世紀中葉、草部吉見命の時代の阿蘇は広域国家、狗奴国の中枢ともみえ、大規模集落、「幅、津留遺跡」の繁栄や「狩尾遺跡群」による鉄器の大量集積など、阿蘇が最も輝いていた時代であった。
 魏志倭人伝によると、3世紀の倭国において邪馬台国の南に在り、邪馬台国と対峙していたという狗奴国には男王、「卑弥弓呼(ひみくこ)」の存在があった。而して、阿蘇の領袖、草部吉見命とは狗奴国王、卑弥弓呼の投影とも思わせる。

 狗奴国の国邑ともみえる幅、津留遺跡の傍、白川の湧水池に鎮座する白川吉見神社には草部吉見命(国龍命)が地主神として祀られる。阿蘇における草部吉見命の存在は極めて大きい。

 阿蘇神話において、健磐龍命が九州鎮護の任で阿蘇に下向する意義も阿蘇が狗奴国の中枢であり、阿蘇に狗奴国王、卑弥弓呼が在ったことに因るとも思わせる。

 国造本紀などによると、第10代 崇神天皇の時代に健磐龍命の御子、速甕玉命が阿蘇国造を奉じ、火国造も崇神天皇の時代に置かれている。
 そして、第11代 垂仁天皇の時代に大分国造が置かれ、第12代 景行天皇の時代に葦北国造、第13代 成務天皇の時代に筑紫国造、豊国造、国前(くにさき)国造、肥前の米多(めた)国造などが九州北半に置かれている。

 大和王権の九州統治において、大和王権はまず阿蘇に入り、阿蘇を足がかりに火(肥)を統治。そして、支配域を九州北半にまで広げている。当時の阿蘇は九州統治の要(かなめ)であったと思わせる。
 前項では邪馬台国を衰退に追いこんだ狗奴国が、筑後川流域や佐賀平野域をはじめ、九州北半までも狗奴国の領域としたともみえていた。


 やがて、広域国家、狗奴国は大和王権によって解体される。弥生末期に火(肥)から筑後川流域、佐賀平野域にまで拡散した狗奴国の物実、免田式土器は4世紀にこつ然と姿を消す。そして、速甕玉命を阿蘇国造とした第10代 崇神天皇は大和王権の版図を拡大し、統一国家の礎を築いた天皇とされている。

 狗奴国残存は纏ろわぬ民、蛮夷たる「熊襲」と呼ばれ、徹底して排除される。第12代 景行天皇と皇子の日本武尊、そして、日本武尊の御子、第14代 仲哀天皇の3代に亘る九州遠征、熊襲征伐がそれを物語る。

 「阿蘇、アソ」とは燃える山の意味であるとも。が、「蘇」の字は「魔物、邪気」の意をもつ卑字である。大陸では古く、辺境の民を蛮夷として卑字を宛てた。大陸の思考を取り入れた大和王権も纏ろわぬ民を蝦夷、隼人、そして、熊襲と蔑称で呼んでいる。

 草部吉見命が神武天皇の御子、日子八井命とされた意義も、帰順を拒んで抵抗を繰り返す阿蘇の氏族を懐柔するために、祖神の草部吉見命を王権の系譜に列したものではないだろうか。阿蘇の民は頑迷であるという。
 神話は政治的な意図を持って創作されたとされる。しかし、荒唐無稽な話をわざわざ作り上げたわけでは無く、何らかの史実を投影して創作されたことも事実であろう。(了)

 

(追補)鉄鏃出土数が示す邪馬台国と狗奴国。

 邪馬台国の位置については、江戸期から大きく九州説と畿内説に分かれて論争が続いてきた。魏志倭人伝における記述について、道程は連続説や放射説、方角の間違い説、距離については誇張説や短里説などで現在も賑わっている。(wikipedia)

 が、弥生期の鉄鏃出土数を示した下記のグラフをみれば邪馬台国論争は終わる。

 下記のグラフは弥生期の鉄鏃出土数を県別に示したデータである。弥生期の鉄器出土において最も数が多いのは鉄鏃。そして、魏志倭人伝に「倭人(邪馬台国)は鉄鏃を使う」と記される。

 弥生期の鉄鏃出土数は福岡県と熊本県が突出している。それは、邪馬台国域とその南にあったとされる狗奴国の存在を見事に示している。そして、奈良県はほぼゼロ。弥生期の大和には鉄の文化は普及していなかったのである。この事象は所謂、物証みたいなもの。

 而して、メディアなどで高名な学者が複雑な理論をもって、纏向説などを述べても空虚というしかない。また、朝貢品として魏に贈っていたとされる「絹」も鉄鏃と同じである。弥生後期の北部九州から出土する絹は大和からは全く発見されない。そして、多くの畿内説論者は鉄鏃や絹の話には触れようとはしない。

「弥生時代鉄器総覧」川越哲志編より

 

(追補)狗奴国とは句呉の太伯(たいはく)の裔。

 太宰府天満宮に伝わる国宝、唐の類書、「翰苑(かんえん)」は「女王国の南の狗奴国は、自ら 太伯(たいはく)の後であると謂った」と記している。

 「太伯」とは古代中国の伝説上の人物。太伯説話によると、周王の長子であった太伯は英明とされた末弟に王位を譲るべく南に去り、自ら文身、断髪して蛮となり、後継の意志が無いことを示す。文身(刺青)、断髪とは海人の習俗。
 太伯は長江下流域に国を興し、「句呉、くご、こうご」と号した。荊蛮(けいばん)の人々がこれに従ったとされ、のちに「呉」を称した。
 春秋末期、長江下流域で呉と越は抗争を繰り返し、紀元前473年、越に滅ぼされる。呉の遺民は蛮とされ、北方の漢人に追われて海へ逃れたという。そして、倭人を太伯の子孫とする説があり、東夷伝などに倭人は「自謂太伯之後」と記される。

 古伝に大隅国一ノ宮、「鹿児島神宮」には句呉の祖とされる太伯を祀ると記される。南九州に太伯を祖神とする句呉の遺民が在ったのであろうか。

 鹿児島、隼人町に鎮座する鹿児島神宮は彦穂々出見(ひこほほでみ)尊と豊玉比売命を祭神とし、彦穂々出見尊の宮であった高千穂宮を社(やしろ)にしたと伝わる。
 彦穂々出見尊(火遠理命、山幸彦)とは天孫、瓊瓊杵(ににぎ)尊の御子。海神(わたつみ)の女(むすめ)、豊玉比売命を妃とした。
 海幸山幸説話において、瓊瓊杵尊の三柱の子神のうち、末弟の彦火々出見尊が王権を継ぐ話や神倭伊波禮毘古命(神武天皇)が鵜葺草葺不合(うがやふきあえず)尊の末子であることが、末弟に王位を譲る太伯説話の投影ともみえ、古代王権における末子継承の由来とも思わせる。

 また、海幸山幸説話において、山幸彦(火遠理命、彦穂々出見尊)は満珠干珠の玉で潮を操り、兄の海幸彦(火照命)を下す。海幸彦は「今より以後、汝命の守護人と為りて仕へ奉らむ」と末弟の山幸彦に服属を誓い、海人、隼人の祖となる。
 太伯説話においては周王の長子、太伯は末弟に王位を譲るべく、自ら刺青を施し、断髪して海人となる。つまり、海幸、山幸説話と太伯説話は同じ骨子なのである。隼人の祖、海幸彦(火照命)は太伯の投影とも思わせる。

 南九州に在った「句呉、く、こう」の裔は列島本来の縄文の民と同化して、中南九州において同じ狗(句、く)の名をもつ狗人に拘わるともみえ、のちの狗奴国もそれに由来するとも思わせる。

 最も秀逸な弥生土器と謂われる「免田式土器(重孤文土器)」が、蛮夷とされる熊襲の中枢域に分布し、江南鋳造の秀品とされる「鍍金鏡」が免田から出土する意義。また、大陸王侯の象徴、玉璧(へき)が日南の串間から出土する訳もそれに由来するのかも知れない。
 免田式土器の姿は金属器を模倣したといわれ、その起源は江南にあるともされる。免田式土器は東シナ海に連なる南西諸島でも出土している。球磨を中枢として免田式土器を奉じ、鍍金鏡を伝世させた民とは大陸、江南に由来する。

 のちに忌避されて、熊襲や隼人と呼ばれた民の原初は句呉の太伯の裔に纏わる狗(句、く)人に由来し、三国時代の「呉」と繋がる狗奴国が、「魏」と通じた邪馬台国と対峙する構図の由来とも思わせる。

 

(追補)高良玉垂神の秘密。高良に進駐した火(肥)の神祇

 筑紫平野の要衝、高良山の山腹に鎮座する筑後国一宮、「高良大社(高良玉垂宮)」は、古く、筑紫の国魂と仰がれ、筑後域はもとより、有明海沿岸や筑前にまでその信仰域を広げる。
 仁徳天皇代の鎮座ともされるが、山内の出土遺物は太古の時代にまで遡り、その信仰の古さをみせる。霊泉や磐座群の存在は自然信仰の痕跡ともされ、神籠石の名称由来ともなった神域の列石は歴史ロマンを誘う。

 高良山は耳納連山が筑紫平野に突出した先端。景行天皇の熊襲征伐においては高良行宮が置かれ、神功皇后の山門征討では陣が敷かれた。また、南北朝時代には南朝の懐良親王が征西府を置き、島津の九州統一や豊臣秀吉の九州征伐では本陣が置かれた。この山は常に九州の軍事の要衝であった。
 社地より俯瞰すれば足下に筑紫平野が広がり、筑後川が滔々と流れる。平野を北上すれば筑前。南下すれば筑後、肥後国境。筑後川を遡れば日田盆地を経て豊後へ。西には佐賀平野が広がる。当に、九州の扇の要(かなめ)、筑紫、肥(火)、豊の国々を扼(やく)している。九州を征する覇権は常にこの山を目指している。

 高良大社の祭神論争は有名である。主祭神の「高良玉垂命」には武内宿禰説、藤大臣説、彦火々出見尊説、景行天皇説、物部祖神説、饒速日命説、そして、水沼氏祖神説など多くの説がある。高良玉垂命は記紀に記されない隠された神。朝廷から正一位を授かった神なのに正体不明。

 久留米市域の南、三瀦(みずま)に鎮座する「大善寺玉垂宮」は高良玉垂宮と同じく玉垂命を祀る。この地の古代氏族、「水沼氏(水間、みぬま)」が始祖を玉垂神としてこの宮に祀ったと伝わる。また、この社は三瀦総社にて高良玉垂宮の元宮ともされる。この玉垂命に関して、筑後国神名帳には玉垂媛神の存在があり、大善寺では玉垂神は女神ともされる。

 禊(みそぎ)の介添えの巫女が水沼(みぬま)であり、水の女神が水沼女とされる。水沼氏は禊の巫女を出す家柄でもあった。そして、水沼が三瀦(みずま)に変化している。古墳期の水沼氏は有明海沿岸に在って東シナ海航路を管掌する海人に由来する氏族であった。

 筑後の名族とされる「蒲池(かまち)氏」において、祖(あら)蒲池と呼ばれる古族が阿蘇の蒲池(かまち)媛命を祖にすると伝わる。そして、この古族が水沼氏族と重なる。
 阿蘇の蒲池媛命とは阿蘇祖族、草部吉見氏族(山部)が奉祭する阿蘇母神とも呼ばれる女神。阿蘇神社の元宮ともされる阿蘇北宮、国造神社で祭祀される。が、本来は宇土半島、郡浦において、潮干珠、潮満珠を用いて潮の満ち引きを司る八代海の海神であった。

 そして、玉垂神の名義が潮干珠、潮満珠に纏わる。また、高良(こうら)とは蒲池媛命の本地、宇土半島、郡浦(こうのうら)の転化ともされる。高良玉垂命の原初には火(肥)の蒲池媛命の神霊が重なっている。

 水沼氏はのちに日下部(くさかべ)氏を称して、高良玉垂宮の神職に高良神の裔を称する日下部氏(草壁、稲員)が在る。水沼氏族と阿蘇の草部吉見氏族(日下部)が繋がりをみせている。新撰姓氏録は日下部を「阿多御手犬養同祖、火闌降命之後也」として隼人の系譜とする。もとより、神話において潮干珠、潮満珠は隼人の祖、火闌降命(海幸彦)に由来する。

 これらの事象は火(肥)の氏族が筑紫平野の要衝、高良に進出した痕跡とも思わせる。大善寺玉垂宮の神事、「鬼夜」は壮大な火祭り。阿蘇神社の火振り神事とともに九州を代表する火の祭祀であった。当に、火(肥)の氏族に相応しい。
 そして、高良山前衛が吉見の峰と呼ばれ、草部吉見命の存在を伺わせる。古伝において、草部吉見命は筑後を鎮護していたと伝わる(熊本県神社誌)。

 筑紫平野の西に基山が聳える。南麓の荒穂神社には韓半島由来の神、「五十猛(いそたける)神」が祀られ、元は山上に在ったとされる。この社には、筑後川を隔て、南に向かい合う高良の神と石を投げ合ったという伝承が遺される。高良の神が投げた石が荒穂神社の境内に在り、荒穂の神が投げた石は高良の宮の床下に在るという。これらは「礫打(つぶてうち)伝承」と呼ばれ、戦さの記憶とされる。

 その時代、筑後の神祇、高良山に在って、韓半島由来の筑紫神と対峙したは火(肥)の神々であった。3世紀後葉、邪馬台国を屠るべく筑後川流域を侵した狗奴国集団は、戦略的拠点として高良山に拠ったともみえる。
 やがて、邪馬台国を滅ぼした狗奴国集団は、韓半島と拘わりの深い伊都国や奴国など筑紫域の国々とも対峙したのであろうか。

 高良山の伝承では、高良玉垂神は有明海から大川へ上陸、瀬高、八女を経て高良山に住居を定めたという。そして、高良山の麓に鎮座する「高樹(高木)神社」の縁起では、高良山には古く、高木神が鎮座していたが、玉垂神に山を貸したところ、結界を張って鎮座されため高木神は山上に戻れず、麓に鎮座していると伝わる。

 

(追補)景行天皇と日本武尊、仲哀天皇による熊襲征伐の意義。

 第12代 景行天皇は熊襲を征伐すべく、自ら九州へ西下する。景行天皇の九州巡幸と称される。景行天皇は周防で賊を誅殺して筑紫(九州)に入り、豊前に行宮を設ける。そして、豊後で土蜘蛛を討ち、日向に入り、高屋宮を設けて熊襲梟帥(くまそたける)を誅殺する。その折、景行天皇は熊襲梟師の女(むすめ)を火国造に賜うとしている。火(肥)国はすでに王権の支配域とされていた。

 その後、景行天皇は高屋宮に6年に亘って留まり、御刀媛(みはかしひめ)を妃として日向国造の祖、豊国別(とよくにわけ)皇子を得ている。
 やがて、高屋宮を発した景行天皇は夷守(小林)を経て、熊県(球磨)に進み、熊津彦兄弟の兄を従わせ弟を誅殺する。
 狗奴国の物実、免田式土器は古墳期を迎えて姿を消すが、球磨(人吉盆地)ではその後も存続して、球磨は狗奴国(熊襲)の本地とも思わせていた。

 そして、景行天皇は八代海沿岸、葦北、火(氷川)、高来(島原)を経て、玉杵名邑(玉名)で土蜘蛛を誅殺。阿蘇では健磐龍命の裔とも思わせる阿蘇都彦、阿蘇都媛と対面している。

 菊池川流域は邪馬台国と対峙した狗奴国の前衛ともみえていた。が、菊池川中流域、山鹿の伝承では景行天皇を松明(たいまつ)をかかげて迎えたとする。この域の狗古智卑狗(くこちひこ)の集団は既に健磐龍命(阿蘇国造)あたりに征討されていたともみえる。

 そして、天皇は筑後の八女、的邑(浮羽)あたりを何事もなく通過して還御している。旧邪馬台国中枢域には征討すべき賊は無かった。4世紀前半の大王ともされる景行天皇の九州巡幸とは日向南域の熊襲梟帥、球磨の熊津彦兄弟など、狗奴国残存の平定譚ともみえる。

 数年後、景行天皇は再叛した川上梟帥に対し、皇子の小碓(おうす)命を討伐に遣わす。小碓命による川上梟帥の征討とは当地の伝承に依れば肥前、大和町川上での事象。
 小碓命は川上梟帥を謀殺し、川上梟帥よりその武勇を称えられ。日本武尊(やまとたける)の尊称を献じられる。
 肥前、大和町川上は邪馬台国九州説において、その国邑ともされる吉野ヶ里域。而して、再叛した川上梟帥(かわかみたける)とは武尊(たける)の尊号を冠した誇り高き邪馬台国(連合)残存の領袖とも思わせる。

 そして、日本武尊の御子、第14代 仲哀天皇は神功皇后を伴って、再叛した熊襲を討つために西下、筑紫の橿日宮(香椎宮)に到る。そして、天皇は熊襲を攻めるが、空しく敗走、翌年、橿日宮で薨去する。日本書紀の異伝によれば、熊襲の矢に倒れたともされる。
 崩御した仲哀天皇を粕屋の齊宮で弔った神功皇后は天皇の遺志を継いで、松峽宮(朝倉)に移動、羽白熊鷲(はしろくまわし)と対峙する。
 羽白熊鷲の本地、朝倉のあたりは冒頭の「隈、くま」の神祇の域。羽白熊鷲とは邪馬台国を討ち筑紫に進駐した狗奴国残存とも思わせる。九州中南の蛮夷ともされる熊襲が九州北域に在る訳。
 当に、神功皇后の神懸りにおいて、神が戦さを避けさせようとさせた強敵。恐らく、大量の鉄製武器を集積した強軍であった。
 が、神功皇后は新たな兵を参集して羽白熊鷲を屠る。その後、神功皇后は筑後で女酋、田油津媛を討っている。仲哀天皇と神功皇后による熊襲征伐とは、景行天皇より三代に亘って行われた大和王権による狗奴国、邪馬台国の残存征討における最後の戦いの様相。

 

 

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鬼の話。鬼とされた古代産鉄氏族の謎


 本殿の裏手から続く長い回廊を歩くと、右手に重い空気を漂わせた釜殿が佇んでいた。温羅(うら)の首はこの釜殿の下に埋められたとされる。そして、13年に亙り、唸り続けたという。古代吉備の統治、温羅は鬼であったという。


 吉備の中山と呼ばれる小山はいかにもその平野の神奈備といった風情で、大きく根張りを広げていた。その山裾で吉備の鎮守、吉備津神社は広大な神域を誇る。吉備津造りと呼ばれる重厚な本殿は室町中期、足利義満の造営にて国宝ともされる。
 吉備津神社の祭神、吉備津彦命は「温羅(うら)」を討伐して吉備を平定したという。温羅は渡来人であり、吉備に製鉄を齎し、鬼ノ城を本拠として吉備を支配したとされる。
 吉備の民は中央に窮状を訴え、第10代 崇神天皇は四道将軍のひとり、五十狭芹彦命(いせさりひこ)を吉備に派遣、五十狭芹彦命は熾烈な戦いを経て温羅を討ち、吉備の統治として吉備津彦命を名乗る。

 そして、この出来事は桃太郎の鬼退治説話のモチーフになったという。吉備津彦命の臣、犬飼武命、吉備県主の楽々森彦命、鳥飼に優れた留玉臣命がそれぞれ、桃太郎説話の犬、猿、雉のモデルとされる。


 吉備津神社は吉備津彦命が陣を敷いた地とも、斎殿を営んだ跡ともされる。本殿外陣の北東隅には艮(うしとら)御崎神として温羅が祀られる。「艮(うしとら)」とは丑と寅の間、鬼門とされる北東のこと。また、牛の角と虎の牙をもつ鬼の意。吉備において温羅(うら)は飽くまで鬼として忌避されている。

 吉備津神社の釜殿では鳴釜神事が行われる。釜殿の下に埋められた温羅の首が唸り声をあげ続けたため、吉備津彦命は温羅の妻女、阿曽(あそ)媛に神饌を炊かせる。すると声は止み、温羅は吉凶を占う神霊となる。以来、巫女が神饌を炊く鳴釜神事が続けられている。
 温羅の妻女、阿曽(あそ)媛は吉備津神社の北西に対面する鬼ノ城(鬼城山)の麓、阿曽郷(総社市阿曽)の祝(ほおり)の媛とされる。阿曽からは古代製鉄の遺構が多数出土して、鳴釜神事の釜は阿曽の鋳物であり、鳴釜神事を行う巫女は阿曽の女とされる。


 肥後、阿蘇(あそ)にも鬼の伝承が遺される。阿蘇の開拓神、健磐龍命(たけいわたつ)は配下の鬼八を伴って、往生岳から外輪山の麓にある的石と呼ばれる大岩に矢を射ていた。鬼八は阿蘇谷を一跨ぎに矢を拾っては往生岳の命に渡していた。健磐龍命は幾度も矢を放ち、やがて、九十九本にもなった。鬼八は最後の矢を拾ったがさすがに疲れ果て、矢を足で蹴って健磐龍命に渡した。
 折悪しく、矢は健磐龍命の太股に刺さり、怒った健磐龍命に畏れをなした鬼八は逃げ出す。鬼八は矢部で健磐龍命に捕まるが、隙をみてふたたび逃げ、高千穂の三田井まで逃がれる。そして、鬼八は高千穂の五ケ瀬川を挟んで健磐龍命と争うが、遂には健磐龍命に討たれる。

 健磐龍命は剣で鬼八の首や手足を切るが、鬼八の躰は直ぐに元に戻り、なかなか死なない。そこで健磐龍命は鬼八の首や手足を異なる場所に埋めてしまう。
 それ以来、鬼八の恨みで阿蘇では霜(しも)の害が続き、人々を苦しめたという。困った健磐龍命は霜神社を造り、「火焚き神事」を行って鬼八の霊を慰めたという。以来、阿蘇の乙女が59日間に亙り、火でご神体を温める神事が行われている。

 この鬼八伝説には統治氏族と先住氏族との間に繰り広げられた抗争が秘められるという。健磐龍命は九州鎮護のため中央から阿蘇へ下向したとされる。阿蘇でも先住の民を統治してゆく過程で争いが繰り返されたのであろうか。

 そして、阿蘇が古代製鉄の地ともされる。弥生後期において、阿蘇の狩尾遺跡群は鉄に拘わる遺構が列島で最も密集する域とされ、大量の鉄器を集積したことで知られる。
 弥生期の鉄器生産は韓半島から輸入された鉄挺(てってい)を原料として、のちの砂鉄などを原料とする「たたら製鉄」は5、6世紀に韓半島より伝わったとされる。
 が、阿蘇の狩尾周辺では「阿蘇黄土(リモナイト)」と呼ばれる褐鉄鉱を大量に産出、鉄滓などが検出されることで褐鉄鉱による製鉄の存在が示唆される。
 褐鉄鉱とは鉄の酸化鉱物、天然の錆(さび)。沼地などに鉱床をつくり、採取が容易で低い温度で溶融できるため古代製鉄の原料になり得るという。そして、褐鉄鉱による製鉄は南方系の技術とされる。


 科野(しなの)にも鬼の伝承が遺される。悪事を働く安曇野の魏石鬼八面大王は朝廷から派遣された征討軍によって討たれる。そして、魏石鬼八面大王もやはり、首や躰を切り分けて埋められたという。

 阿蘇と科野の系譜において不思議な事象がある。阿蘇の主神、健磐龍命(たけいわたつ)と諏訪の氏神、武五百建命(たけいおたつ)は同一であり、諏訪の系譜において武五百建命は崇神天皇の代に科野国造とされ、武五百建命の子のうち兄の速瓶玉命は阿蘇に下向して阿蘇国造を賜り、弟の健稲背命は科野国造に任じられたという。
 速瓶玉命の系譜は阿蘇大宮司家に繋がり、健稲背命の系譜は諏訪大社大祝の金刺氏、神氏に繋っている。つまり、諏訪と阿蘇の統治は同じ氏族であり、類似する鬼八と魏石鬼八面大王の伝承もひとつの説話が移植されたとも思わせる。
 また、諏訪において武五百建命の妃が建御名方命の裔、会知速男命の女(むすめ)の「阿蘇比売命」とされることで、諏訪の伝承が阿蘇から移植されたものとも思わせる。科野にもアソ(安曽)地名が遺される。

 そして、諏訪も古く、褐鉄鉱の産地として知られ、科野褐鉄鉱の象徴ともされる「諏訪鉄山」の存在があった。


 吉備の温羅(うら)、阿蘇の鬼八、科野の魏石鬼八面大王ともに首と躰を切り分けて埋められたとする伝承の類似。また、神饌を炊く吉備の鳴釜神事と阿蘇、霜神社の火焚き神事が重なって、アソ(阿曽、安曽)地名の共通も氏族の移動などによる事象とも思わせる。古く、阿蘇に在った産鉄、金属精錬氏族が吉備や諏訪に入ったのであろうか。
 同じ系譜の民が分断されて、ともに忌避されて鬼と呼ばれ、中央から派遣された征討軍によって討たれるという構図。背景に古い時代の製鉄の残影と産鉄民の存在。殊に、阿蘇や諏訪で古く、南方系の技術とされる褐鉄鉱による産鉄が行われた痕跡が興味深い。

 果たしてこれら特異な事象が意味するものとは。

 弥生期における鉄器の出土は九州北半が突出し、また、丹波、北陸など日本海沿岸にも夥しい。そして、弥生期の大和盆地には鉄器は見当らない。大和盆地に鉄器が普及するのは古墳期以降である。前述の温羅や鬼八の伝承で語られる第10代 崇神天皇の代が3世紀後半から4世紀前半ともされ、当に、大和王権が基盤を築いたとされる古墳期が始まる時代であった。

 崇神天皇は北陸、丹波、東海、吉備へ四道将軍を派遣する。北陸、丹波、吉備は弥生後期の鉄器出土の集中域。大和王権はまず、鉄器文化を持つ域に征討軍を派遣、統治氏族を討伐したともみえる。
 また、九州の国造は阿蘇国造と火(肥)国造が最も古く、第10代 崇神天皇の時代とされる。そして、第12代 景行天皇の九州巡行で豊後から日向、球磨や南九州域が平定され、第13代 成務天皇の代に筑紫や肥前の米多、豊国造などが九州北半に置かれている。大和王権の九州征討は阿蘇から始まっている。

 大和王権の国家生成において、脆弱な青銅の武器しか持たなかった大和盆地の兵は、まず、鉄製武器(鉄鏃)を欲したのではないだろうか。そして、討伐した統治氏族が再起できぬように、「鬼」として徹底して忌避したともみえる。それが鬼の伝承の正体とも思わせる。


 国譲り神話において、建御雷命との力競べに敗れた建御名方命(たけみなかた)は諏訪に逃げこむ。
 建御名方命は風の神とされ、風を操る鞴(ふいご)に纏わる産鉄、金属精錬氏族を彷彿とさせる。建御雷命は剣の神であり、軍(いくさ)神とされる。当に、征討軍の投影。
 建御名方命と建御雷命の力競べとは、鉄器文化を持つ域に派遣された征討軍が産鉄、金属精錬民の統治氏族を駆逐する「鬼の伝承」と同じ構図。大和王権の生成期における闘争の投影とも思わせる。

 


(追補)鬼とされた古代産鉄氏族の原初。蚩尤(しゆう)と都怒我阿羅斯等(つぬがあらしと)の話

 中国神話において「蚩尤(しゆう)」は夏の君主、黄帝から王位を奪うべく、魑魅魍魎を率いて暴風雨を起こし、黄帝と戦う。蚩尤は黄帝の軍を苦しめたが遂には討伐される(琢鹿の戦い)。
 蚩尤は鉄沙をもって剣、戈、矛、戟など優れた兵器を造り、兵主神ともされた。また、暴風雨を支配する風の神とは「ふいご」によって風を操る産鉄、金属精錬の民を投影するという。
 そして、蚩尤は人の身体に牛の頭を持ち、頭には二本の角があったとされる。而して、鬼の姿。蚩尤神話は「鬼」ともされた古代産鉄氏族の原初ともみえる。

 伝説によると、揚子江流域に在った蚩尤の族は流浪の民となり、漢人はこの民を三苗と呼んだ。この三苗が苗族の祖であるという。
 「苗族」は中国南域からベトナム、ラオス、タイ北部の山岳地帯に分布する民族集団。焼畑で陸稲、棚田で水稲を作る。雑穀、芋を作り、納豆を食べ、麹で酒を造る。家の中に祖霊を祀り、万物に神が宿るとして依代を祭祀して五穀豊穣を祈る。
 当に、日本古来の文化そのもの。行事、祭祀、儀礼など、日本人と苗族の基層は大きく重なるという。古く、苗族祖先の列島への渡来を示唆する研究者は多い。


 また、韓半島の伝承では蚩尤の族は兵主の地、山東半島から新羅の曽尸毛犁(そしもり)へ渡る。韓半島の桓檀古記によると、檀君王倹は番韓を蚩尤の裔、蚩尤男に治めさせたという。
 日本書紀では素盞嗚尊が韓半島の曽尸毛犁(そしもり)に天降り、子神の五十猛命とともに列島に渡ったとされる。曽尸毛犁とは牛頭山。のちに素盞嗚尊は二本の角をもつ牛頭天王と同一視される。

 もうひとり、鉄の文化に由来して「鬼」を想起させる人物が在る。

 敦賀(つるが)の地名由来、角鹿(つぬが)の地主神ともされる韓半島渡来の「都怒我阿羅斯等(つぬがあらしと)」の存在がある。
 越前国一宮の気比神宮は伊奢沙別命(いざさわけ)を主祭神とし、古く、角鹿(つぬが)氏が管掌していたという。伊奢沙別命とは第11代 垂仁天皇の時代に渡来した加羅の王子、都怒我阿羅斯等とも。都怒我阿羅斯等は鉄器を齎した神とされ、韓半島の金属精錬の民が奉斎するという。

 そして、都怒我阿羅斯等(つぬがあらしと)とは「角があるひと」の音ともされ、二本の角をもつ牛冠を被るといわれる。当に、「鬼」の姿。吉備などで鬼ともされた産鉄氏族とは「牛冠」を被る氏族であったのかも知れない。

 気比神宮では吉備の桃太郎神像が守護とされ、気比、けひ(きひ)と吉備(きび)が音を同じくする拘わりがあった。都怒我阿羅斯等と吉備の温羅との繋がりを思わせる。温羅は渡来人ともされていた。
 また、吉備については温羅の妻女が阿曽(あそ)媛とされ、阿蘇(あそ、阿曽)地名がみられることで、吉備の製鉄文化は阿蘇由来の産鉄民とのちの韓半島の金属精錬氏族の二重構造とも思わせる。

 鬼の説話の背景や建御名方神話にみるように、太古の産鉄、金属精錬氏族の地域との拘わりや王権との葛藤は時空を超えて複雑に絡み合っている。この国の古代において、「鉄」の存在感は極めて大きいようだ。

 


(追補)たたら製鉄の謎。褐鉄鉱による弥生製鉄と久米氏族

 弥生期における鉄器生産は韓半島から輸入された鉄挺(てってい)を原料として北部九州域に集中している。のちの「たたら製鉄」は5、6世紀に韓半島より齎されたという。
 近年、カラカミ遺跡(壱岐)や小丸遺跡(広島)など、弥生期の製鉄遺跡とされる遺構の発見が相次いでいる。が、史学は弥生期の製鉄を認めようとしない。

 そして、韓半島より伝わったとされる「たたら製鉄」に関して不思議な事象がある。

 たたら製鉄は直接製鉄法とされる。直接製鉄法とは砂鉄や鉄鉱石を低温で半溶融のまま還元し、炭素の含有量が少ない錬鉄(れんてつ)を生成する。これを加熱、鍛造して不純物を搾り、強靭な鋼(はがね)を得る。
 が、その時代、中国や韓半島で行われていた製鉄技術は間接製鉄法であった。鉄鉱石を高温で溶融、還元させるが鉄は炭素を吸って脆い銑鉄(せんてつ、ずく)となる。これを再度、加熱溶融、炭素調整をして鋼を得る方法である。中国では大量に鉄を生産できるこの方法が古代より発達している。

 韓半島より齎された筈のたたら製鉄が何故か日本独自の技法といわれる所以。そのルーツとされる中国や韓半島の製鉄法とは技術が異なるという謎。古く、中国や韓半島とは異質の製鉄文化が列島に伝わっていた可能性が考えられる。


 太古、鉄器文化はBC1400年頃の西アジア、ヒッタイトに始まったとされる。鉄鉱石による製鉄で炭を使って還元し、鍛造して鋼を得る直接製鉄法であった。
 BC1200年頃にヒッタイトが滅亡するやその技術は周辺に拡散、エジプトやメソポタミア、インドなどに伝播している。中央アジアではBC800年頃のスキタイが製鉄技術を得ていたとされる。
 中国においては「殷」の遺跡で鉄器が発見されているが金属器の主体は青銅であり、本格的に製鉄が始まるのは春秋戦国期(BC770年~BC221年)の頃とされる。


 奈良、富雄丸山古墳で発見され、その巨大さで世間を沸かせた「蛇行剣(だこうけん)」の存在がある。蛇行剣は剣身が蛇のように曲がりうねったもの。その形状から儀礼用のものとされる。
 全国の古墳などから出土しているがその半数は九州であり、とくに南九州、日向などの地下式横穴墓から集中的に出土することで南九州の発祥ともされる。そして、この域の地下式横穴墓は隼人系集団の墳墓ともされる。

 民族学の先駆、鳥居龍蔵は蛇行剣がインドネシアやマレーシア、フィリピンあたりのクリス短剣を連想させるとして、その原初は東南アジアにあると考察している。南方系海人に由来するという隼人の拘わり。奈良、富雄丸山古墳出土の巨大な蛇行剣は初期天皇の親衛として皇宮を守護した隼人系武人の象徴に相応しい。
 隼人とは南九州の海人。神話において隼人の祖とされる火照命に纏わる海幸山幸の説話や火中出産説話などは東南アジアや南洋にルーツがあり、隼人の楯の渦巻紋や鋸歯紋の類は東南アジアにおいて悪敵を払う魔除けとされる。隼人は東南アジアあたりの海人に由来する。

 そして、前述のクリス短剣(蛇行剣)の原初は、BC300年頃から紀元前後にかけて繁栄したベトナム北部のドンソン文化に由来するともいわれる。ドンソン文化は東南アジア初期の金属器文化。特徴的な銅鼓などの青銅器が発達、鉄器の使用も知られる。そして、ドンソン文化の特徴的な銅鼓は中国南域からマレー半島、タイ、インドネシアなど東南アジア全域に拡散している。

 古く、百越の倭人と呼ばれる存在がある。「百越(ひゃくえつ)」は大陸南域からベトナムに到る広大な沿岸に在った諸族。北方の漢人とは言葉、文化を異とする民で、稲作、断髪、鯨面(入墨)など、倭人との類似が多いとされる。当に、隼人の原初。
 偏西風が西から東に吹き、黒潮が南から北に流れることで、古く、列島に拘わる事物の主体が、南方から東シナ海を北上したことは自明の理。日本の基層文化は飽くまで南方系のものであった。
 つい最近まで大陸から韓半島を経て北部九州へ伝播したといわれていた水田稲作でさえ、大陸南域から直接、東シナ海を経て列島に伝わったことが最新の遺伝子研究などで解明されている。

 而して、ヒッタイトより東アジアへの製鉄技術の伝播ルートにおいて、中央アジアを経た北方の黄河ルートに対して、南方のインドルートがあった。ヒッタイトの初期の技術、直接製鉄法は古く、インド、ミャンマーからタイ、ラオス北部、雲南を経て、ベトナムなどへ伝わったともされる。
 タイ東北部のバンドンブロン遺跡ではBC300年頃の製鉄遺構が発見され、遺構や鉄滓の分析により直接製鉄法であったことが解明されている。

 「たたら製鉄」のルーツが5、6世紀に韓半島より齎されたものではなく、古い時代に大陸南域、東南アジアあたりから伝わっていたものであれば、弥生期の製鉄遺跡の存在やその製鉄技法の主体が中国や韓半島の製鉄法と異なるという謎は解ける。


 弥生期の鉄器について、韓半島輸入の鉄挺(てってい)を原料として北部九州域が鉄器生産を集中させている。が、弥生後期に中九州域、火(肥)北部の鉄器出土が激増、とくに鉄鏃(てつぞく)など鉄製武器の出土数では火(肥)が北部九州域を圧倒している。
 菊池川流域の盟主とされる大規模集落、方保田東原遺跡や大津の西弥護免遺跡などでは弥生後期の鍛冶遺構や鉄製武器が大量に出土、この域における圧倒的な鉄器の集積は際立っている。

 而して、邪馬台国九州説において、鉄製武器の集積を背景にした弥生後期の火(肥)北部域が、女王国の南に在ってその存在を脅かしたとされる「狗奴国」にも比定される。
 魏志倭人伝によると正始8年(248年)、邪馬台国の女王、卑弥呼は狗奴国との戦いを魏に報告、帯方郡から塞曹掾史張政が派遣されている。邪馬台国が大量の鉄製武器(鉄鏃)を駆使する狗奴国に苦戦していた様子を思わせる。


 阿蘇の狩尾遺跡群の存在がある。狩尾遺跡群は阿蘇谷北西の遺跡群の総称。周辺の弥生集落は鉄に拘わる遺構が列島で最も密集する域とされ、大量の鉄器を集積したことで知られる。
 そして、狩尾遺跡群周辺では「阿蘇黄土(リモナイト)」と呼ばれる褐鉄鉱を大量に産出し、鉄滓などが検出されることで褐鉄鉱による産鉄の可能性が示唆される。
 褐鉄鉱とは鉄の酸化鉱物、天然の錆(さび)。沼地などに鉱床をつくり、採取が容易で低い温度で溶融できるため古代製鉄の原料になり得るという。
 大和の古墳出土の刀剣類で、褐鉄鉱や赤鉄鉱(ベンガラ)を原料にするものも多いというデータがあり、古く、わが国には褐鉄鉱による古代製鉄が存在したとする説は根強い。

 そして、褐鉄鉱による製鉄法は、古く、東南アジアなど南方系の技術ともされる。前述のタイ東北部のバンドンブロン遺跡の製鉄遺構においては、この域の紅土(ラテライト)由来の原料を使ったともされる。ラテライトの主成分とは褐鉄鉱(リモナイト)であった。


 古く、阿蘇において、褐鉄鉱由来の産鉄、鍛冶の民ともみえる阿蘇祖族、山部氏族の存在がある。姓氏家系大辞典は山部を隼人同族とし、新撰姓氏録は山部を久米氏の流れとしている。
 また、阿蘇には大鯰(なまず)の伝承が遺され、阿蘇の古宮には「鯰」が祭祀されて、阿蘇祖族、山部氏族は鯰トーテムともされる。そして、久米氏の氏寺、橿原の久米寺に鯰の奉納額がみられることで、久米氏も鯰トーテムの氏族とされ、阿蘇の山部が久米氏の流れであることを補完する。

 久米氏族は隼人系の海人といわれ、阿多海人の本拠、上加世田遺跡の墨書土器には久米の名がみられる。久米氏は久米族と呼ぶほうが相応しい異能の集団。神日本磐余彦尊に従った大久米命は黥利目(入墨目)であり、入墨は海人の習俗であった。
 そして、久米氏族の原初を東南アジアのクメールとする説がある。クメールはカンボジアを中心とする東南アジアの民。古く、メコン川の中下流域、タイやベトナムにも分布、高床式の住居に住んで稲作を行い、精霊信仰をもつ。また、タイでは鯰を神使として、カンボジアのアンコール遺跡やアンコールトムのバイヨンには鯰のレリーフが描かれ、神聖視されている。

 倭人に拘るとされる「百越」の民とは大陸南域からベトナムに到る沿岸に在った諸族。百越のいくらかは東南アジアのモン・クメール語派とされ、クメールと同化していたともされる。

 弥生期の阿蘇の褐鉄鉱(リモナイト)による製鉄の痕跡が東南アジアをルーツとする海人、久米氏族に由来するとみえ、その原初が、古く、東南アジアから伝わった直接製鉄法であるとも思わせる。のちの「たたら製鉄」がその技術を引き継ぐものであれば、中国や韓半島の製鉄法と異なるという謎は不都合なく解ける。

 

 

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鉄鏃出土数をみれば邪馬台国論争は終わる。

 邪馬台国は2世紀~3世紀に日本列島に存在したとされる倭人の国。元々男王が治めていたが、国の成立から70~80年後、長く、騒乱が起き、卑弥呼を女王に共立することで混乱が収まり、邪馬台国連合が成立したという。

 対立する南の狗奴国との戦いがあったのち、248年頃に卑弥呼が死去、男王が後継に立ったが混乱は収まらず宗女の台与が女王になったという。そして、台与は266年に晋の武帝に朝貢している。

 邪馬台国の位置については、江戸期から九州説と畿内説に大きく分かれて論争が続いてきた。魏志倭人伝における記述について、道程は連続説や放射説、方角の間違い説、距離については誇張説や短里説などで現在も賑わっている。(wikipedia)

 が、弥生期の鉄鏃出土数を示したこのグラフをみれば邪馬台国論争は終わる。

 

 このグラフは弥生期の鉄鏃出土数が県別に示された有名なデータである。弥生期の鉄器出土において最も数が多いのは鉄鏃である。そして、魏志倭人伝に「倭人(邪馬台国)は鉄鏃を使う」と記されている。

 弥生期の鉄鏃出土数は福岡県と熊本県が突出している。それは、邪馬台国域とその南にあったとされる狗奴国の存在を見事に投影している。そして、奈良県はほぼゼロ。弥生期の大和には鉄の文化は普及していなかったのである。この事象は所謂、物証みたいなもの。

 而して、メディアなどで高名な学者が複雑な理論をもって、纏向説などを述べても空虚というしかない。また、卑弥呼が朝貢品として魏に贈っていたと倭人伝に記される「絹」も鉄鏃と全く同じである。弥生後期の北部九州から出土する絹は大和からは全く発見されない。そして、多くの畿内説論者は鉄鏃や絹の話には触れようとしない。

 
 
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