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都怒我阿羅斯等の話。


 水田が広がる谷間の道を伝って、丘の上の森に入る。鬱蒼とした森の中にその社(やしろ)は鎮座していた。社は苔むした大そうな石壇の上に、太古の昔から変わらずにそこに在るように、凛と佇んでいた。蝉時雨が社に降り注いでいた。頭の中で時間が止まり、都怒我阿羅斯等(つぬがあらしと)が私の前に現れた。


 豊前、香春(かわら)郷。香春三峰の三ノ岳は銅を産出し、香春では最も古く開けた地とされた。今も「採銅所」地名を残す。採銅所の北、鍛冶屋敷という山裾の集落に「現人(あらひと)神社」が鎮座する。祭神は都怒我阿羅斯等と戦国期の香春岳城城主、原田五郎義種。

 「都怒我阿羅斯等(つぬがあらしと)」は日本書紀では意富加羅国王の子。韓半島の金属精錬集団が齋祀る神であるという。もうひとりの祭神、原田五郎義種は永禄四年、豊後の大友宗麟に攻められ、香春岳城で自刃した香春の領主。戦国期に合祀されたという。

 現人神(あらひと)とは人の姿で現れた神を意味する。生身の人間でありながら同時に神でもある。天皇もかつては現人神とされた。が、この社の現人(あらひと)とは祭神、都怒我阿羅斯等(つぬがあらしと)の「阿羅斯等」のことであろうか。


 日本書紀では加羅国の王子、都怒我阿羅斯等は白い石の化身の娘を追って渡来する。娘は「阿加流比売神(あかるひめ)」として国東、姫島の比売語曾社の神となる。これらの話は古事記の「天日矛」の伝承に酷似して、都怒我阿羅斯等と天日矛は同神とされる。香春神社縁起によると香春一ノ岳の神「辛国息長大姫大目命」が阿加流比売であった。

 筑前の那珂川町に同名の「現人神社」が在る。祭神は住吉三神。博多、摂津の住吉神社の元宮とも伝わる。この宮は神功皇后が神田を灌漑するため造った「裂田の溝(うなで)」に拘わり、溝を鉄器で開鑿し、砕岩伝説を残した武内宿禰を現人神として祀ったとも。ふたつの現人神社の存在は都怒我阿羅斯等、天日矛と武内宿禰、住吉神、そして、鍛治氏族の拘りをみせる。摂津の「姫島神社」には阿迦留姫(阿加流比売、あかるひめ)が住吉神とともに祀られていた。


 越前国一宮の「気比神宮」は伊奢沙別命(いざさわけ)を主祭神として神功皇后、応神天皇、武内宿禰など7神を祀る。主祭神、伊奢沙別命とは垂仁天皇の頃に渡来した加羅国の王子、都怒我阿羅斯等(つぬがあらしと)とも。三韓征伐の折、神功皇后は武内宿禰を伴って気比神宮に戦勝を祈願したとする。伝承はこの宮の鎮座の古さを示し、古くは角鹿国造の流れを汲む「角鹿(つぬが)氏」が管掌していたとされる。

 そして摂社の筆頭とされる「角鹿(つぬが)神社」が都怒我阿羅斯等を祭神とする。古く政所(まんどころ)神社とも称し、社記は崇神天皇の御代にこの地に渡来した都怒我阿羅斯等が朝廷に貢物をしたことで、角鹿の政所としたと伝える。越前では都怒我阿羅斯等は敦賀(つるが)の地名由来、角鹿(つぬが)の地主神ともされる。


 都怒我阿羅斯等が北部九州と越前、敦賀の地に何故、現れるのか。答えは「宗像」にあった。海北道の基点、宗像、鐘崎(かねざき)に名神大社「織幡(おりはた)神社」が在る。主祭神は武内宿禰で住吉大神、八幡大神などを配祀する。前項の「幡(はた)」の伝承を残す社である。

 この鐘崎の織幡神社が、敦賀の気比神宮と繋がる。古く鐘崎は「金崎」とされた。鐘崎の背後に連なる宗像四塚に金山があり、山麓に金や銅鉱山の痕跡を残して、金崎はこの古い鉱山と拘わるとされる。

 気比神宮の鎮座の地が、敦賀港を形づくる同名の「金ヶ崎」の付根。金ヶ崎は気比神宮の後背、「手筒山」の尾根のひとつ。天筒山は敦賀の神奈備とされ、「筒」とは星。筒男神とされる住吉神信仰が重なっている。

 また、金ヶ崎の「沈鐘伝説」や気比神宮の「幡」の伝承、金崎宮の「御船遊管絃祭」と宗像の「みあれ祭」の共通など、宗像沿岸と越前、敦賀の習俗、古い伝承の多くが重なっている。都怒我阿羅斯等を奉祭する韓半島由来の鉱山、金属精錬に拘わる民は、宗像沿岸から香春に入り、また、一部は日本海を越前、敦賀にまで到ったともみえる。香春神社の神官も都怒我阿羅斯等に纏わる鶴賀(つるが)氏であった。


 日本書紀によれば、武内宿禰が御子(応神天皇)を連れて、角鹿に滞在した折、気比大神が夢に現れ、名を御子の御名と交換したいと告げる。御子は気比大神と名前を交換、大神を「伊奢沙別(いささわけ)」の神とし、御子は「誉田別(ほむだわけ)命」としたという。

 これは、本来は応神天皇が「伊奢沙別(いささわけ)」で新羅、加羅に拘わり、気比大神(都怒我阿羅斯等)が「誉田別(ほむだわけ)命」であったという意味か。そして、御子(応神天皇)が都怒我阿羅斯等と名を交換して王位に就くことは、仲哀天皇、忍熊王の系譜から、応神天皇への政権移譲を意味するとも。その背景に武内宿禰の存在。

 越前国風土記逸文には「気比の神宮は宇佐と同体である。」と記される。気比大神とは都怒我阿羅斯等、宇佐とは応神天皇の神霊ということ。(了)


(追補)都怒我阿羅斯等とは角がある人。

 日本書紀に都怒我阿羅斯等は「額に角がある人が船に乗って越前国笥飯浦に着いた。」とされ、都怒我阿羅斯等(つぬがあらしと)とは「角がある人」の音とも。角がある人とは牛冠を被る韓半島の曽尸毛犁(そしもり)から渡来した「蚩尤(しゆう)」の一族。蚩尤は兵主神、兵器を製造した鍛冶の神ともされる。

 韓半島の桓檀古記によると、檀君王倹は番韓を蚩尤の裔、蚩尤男に治めさせた。蚩尤の一族は兵主の地、山東半島から朝鮮へ渡ったとも。

 日本書紀では素盞嗚尊(すさのお)が新羅の曽尸毛犁(そしもり)に降る。曽尸毛犁の地は牛頭山。ここで素戔嗚は牛頭天王と習合し、素盞嗚尊とその子、五十猛命は列島へと渡る。牛頭とは角がある人のこと。そして。気比(きひ)と吉備(きび)が音を同じくして、吉備の温羅(うら) が産鉄に拘わる韓半島の人とされ、やはり、頭に角をもつ鬼であった。(了) 

 

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