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越の海人。


 日本海沿岸に「越」の故名を残し、航海に優れたとされる大陸南岸の越人に由来する海人の存在がある。古く、百越の倭人の渡来、また、BC300年には楚に滅ぼされた春秋の「越」の民の渡来があったとも。ともに北方の漢人によって蛮とされ、追われた種。

 日本海沿岸「越」の中枢、能登を中心に博多湾岸の海人、阿曇(あづみ)氏がその氏族名や本拠、志賀島(しか)由来の地名を残している。能登の羽咋郡志賀の安津見や赤住をはじめ、鹿島、志加浦、鹿磯、鹿頭、鹿波。そして佐渡の鹿伏や「越」より内陸に遡った信濃の安曇野や麻績など。

 阿曇氏は「鹿」をトーテムとする。氏族祭祀の地、志賀島で綿津見神を祀る志賀海神社には鹿の角が奉納される。そして、中臣氏が奉祭する常陸の鹿島神宮も「鹿」を神使とする。また、中臣氏後裔、藤原氏の氏神、奈良の春日大社でも「鹿」を神使としている。

 八幡宮御縁起に「磯良と申すは筑前国、鹿ノ島の明神のことなり。常陸国にては鹿嶋大明神、大和国にては春日大明神、これみな一躰分身、同躰異名」と記され、阿曇磯良が中臣(藤原)氏の祖神、鹿島神宮や春日大社の武甕槌命と同神であるという。中臣(藤原)氏は阿曇氏と同族であったとみえる。常陸の「鹿島」も志賀島由来であった。


 鹿島神宮の鹿の祭祀は、祭神の武甕槌命へ、鹿神である天迦久神が天照大御神の命を伝えたことに由来する。また、藤原氏による春日大社の創建に際し、武甕槌命の神霊を白鹿の背に乗せて奈良まで運んだとされる。ゆえに春日大社でも鹿を神使とする。

 藤原氏由来の越前、福井の鳴鹿では新田を拓く地を鹿が神のお告げを伝える。奥州毛越寺では白鹿の毛に導かれて堂宇建立の地に辿りつくなど、藤原氏に纏わる鹿の伝承は多い。


 大陸北方の満洲族も鹿をトーテムにする。如寧古塔呉姓が祀る鹿神は、女狩人が鹿となり、氏族の守り神とされる。唐古禄氏の祖先は鹿の乳を飲んで育ち、鹿神を祀ったという。北方の狩猟民族は鹿を氏族の守護とする。

 大陸南域、台湾のサオ族にも鹿の伝承がある。サオ族の祖先は鹿に導かれて、神から与えられた地、日月潭に移住する。海南島のリー族の鹿の伝承は男が島の奥まで鹿を追い、娘となった鹿と結ばれて海南島の中心、三亜の礎を築く。

 鹿信仰には二通りの系統があるようだ。ひとつは北方狩猟民族由来のもの、鹿神を氏族の守護とする信仰。そして、大陸南域の越人の信仰は鹿を神使、導きの神とする。藤原氏などの「鹿」の伝承はこの越人の信仰とみえる。(*1)


 大陸南岸の越人の痕跡は南九州にも濃い。薩摩国一宮、枚聞神社の「大宮姫」は大日霊貴の化身とされる。藤原氏に育てられて天皇の后となるが、鹿から生まれたとされ、足にひづめがあったとされる。
 薩摩西方に浮かぶ甑島は東シナ海からの船が最初に辿りつくところ。この島の鹿ノ子百合は九州西岸から「越」の村邑に広がる。越の海人が愛した鹿ノ子の模様を持つ百合。鹿児島とは鹿ノ児の島。鹿屋に鹿の児、当に、鹿だらけ。

 安曇族の拠点、博多津の氏神、櫛田神社の主祭神が「大幡主神」であった。大幡主神は「越」で怪物を退治した神ともされ、佐渡の式内社、大幡神社に祀られる。また佐渡の一ノ宮、度津(わたつ)神社は、本来は綿津見神を祀っていたとされる。信仰が氏族の移動の痕跡をみせる。

 そして、伊勢の櫛田川流域で櫛(くし)の神、大幡主神を祀る度会(わたらい)氏が、綿津見(わたつみ)神に纏わり、安曇氏同族ともされ、中臣氏が伊勢の神官として伊勢内宮の祭祀職を世襲する。伊勢もこの海人と繋がる。伊勢の麻積や鹿海も安曇由来の地名。

 この海人は韓半島南岸にも拘わる。綿津見神の「ワタ」は韓語の海「パタ」に由来するともされ、韓半島由来ともいわれる。黒潮から対馬海流に乗って北上した「越」の海人は、九州北岸と韓半島南岸に在って、玄界灘を行き来したものであろうか。


 記紀神話における綿津見神、豊玉彦、豊玉姫父娘の系譜が、この「越」の海人の投影ともみえる。山幸彦と海幸彦の説話では、火遠理命(山幸彦)が綿津見神の娘、豊玉姫と結ばれて鵜茅不合葺命が生まれ、鵜茅不合葺命は豊玉姫の妹である玉依姫と結ばれて、神日本磐余彦尊が生まれる。皇統成立の神話に直接、拘わった氏族。古く、安曇氏や中臣氏の存在感は大きい。(了)

(*1)「鹿の話。」参照。

 

 

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