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笠砂の岬の話。


 天孫降臨において、邇邇藝命(ににぎ)は日向の高千穂の久士布流多気(くしふるたけ)に天降る。そして、「此の地は韓国(からくに、漢国)に向かい、笠沙(かささ)の岬まで真の道が通じて、朝日のよく射す国、夕日のよく照る国で良き地である」と述べ、その地に宮居を営む。(古事記)

 笠沙(かささ)の岬とは南薩、旧笠沙町の野間半島のこと。江戸期の三国名勝図絵に「笠砂御崎(かささみさき)」と記される。東シナ海に突出する野間半島は亜熱帯のヘゴが自生し、常緑広葉樹林が広がる。そして、半島中央部には、特徴的な山容をみせる野間岳(591m)が聳え、東シナ海航路の目印になっている。

 野間半島の南、リアス式海岸が連なる域に坊津がある。ここは鑑真和上が漂着した港。フランシスコ ザビエルもはじめはここに上陸している。野間半島の北方、串木野には古く、徐福の上陸伝説が遺される。南薩西岸は東シナ海を北上した黒潮が洗う浜。東南アジアや大陸南岸を発し、東シナ海で黒潮にのった船団はこの地に辿り着く。


 神話において、邇邇藝命は高千穂峰に降臨する。が、あまりにも非現実的。東アジアの建国神話は王権の神聖さを示すため、天上からの降臨を類型とする。南九州を舞台とする降臨神話が何らかの史実を投影しているとすれば、東シナ海から南薩への上陸が最も整合性が高いとされる。
 天孫が降臨した「日向」とは古く、南九州の総称。703年に薩摩が日向より分割され、713年には4郡が分割されて大隅とされる。神話において天孫が降臨した日向とは南薩のこと。


 降臨(上陸)した邇邇芸命は、笠沙の岬で大山祇神の女(むすめ)、阿多都比売(あたつひめ、木花之佐久夜比売)と出会って求婚する。阿多は旧阿多郷(南さつま市金峰町)、阿多都比売とは阿多のヒメの意。そして、邇邇芸命はこの地で阿多都比売と「笠沙の宮」を営んだとされる。

 野間半島の東、加世田の万之瀬川の左岸、宮原の低丘陵に「笠沙の宮跡」がある。御座屋敷とも呼ばれる地に二段の広場があり、その奥に笠狭宮跡の碑が建つ。付近には古代祭祀の跡とされる磐境が遺され、前方、竹屋ヶ尾は木花之佐久夜比売の火中出産の地とされる。そして、万之瀬川を隔てた対岸は木花之佐久夜比売(阿多都比売)の本地、旧阿多郷。


 神話において、木花之佐久夜比売は一夜で身篭り、邇邇芸命が国津神の子ではないかと疑ったため、木花之佐久夜比売は誓約をして産屋に火を放ち、その中で火照命、火須勢理命、火遠理命の三人の御子を産む。(古事記)
 兄弟のうち、三男の火遠理命(ほおり)が、海幸山幸説話における山幸彦の彦火々出見尊(ひこほほでみ)。長男の火照命(ほでり)が、のちの隼人の阿多君の祖とされる海幸彦である。

 邇邇藝命は晩年、木花之佐久夜比売と海路を北上して、薩摩川内へ移り、そこで没している。薩摩川内の中枢、神亀山には邇邇藝命の可愛山陵(えのやまのみささぎ)と木花之佐久夜比売の端陵(はしのみささぎ)が遺される。


(追補)大山祇神の話。

 降臨した邇邇芸命がこの国でまず行ったことは、大山祇神の女(むすめ)を妻に迎えること。この国で最も重要な神が大山祇神であった。神話において、大山祇神は多くの神々の親神とされ、素戔嗚尊の妻となる奇稲田姫の祖父であり、伊予、大三島の大山祗社では天照大神の兄神ともされる。

 大山祇神(オオヤマツミ、大山津見神)とは大いなる山神の意。別名の和多志大神の「ワタ」とは海のこと、すなわち、この列島の山と海、すべてを司る神。大山祇神を祀る社は系列に拘らず全国に分布し、その数は一万社以上ともいわれる。

 筆者が住む九州北部でも山中の神妙な場所には、必ずといってよいほど大山祗神が祀られている。それは、小祠(ほこら)であったり、時には大岩など神籬(ひもろぎ)の形態でもあった。
 また、大山祇神は里に在って、恵みを齎す田の神ともされる。その茫洋とした神格は海神、豊玉彦命や国土神、大国主命など、他の国津神たちとはニュアンスを異としている。

 大山祇神とは在地の民の氏神として、渡来の民によって象徴化された神格ともいわれる。そこには縄文の流れをくむものに対する渡来の人々の畏怖が感じられる。在地の民との融合の象徴として邇邇芸命が阿多のヒメを妻に迎え、そして、この地の山海を司る神の女(むすめ)とすることで、列島古来のものに敬意を示したとも思わせる。

 万之瀬川の対岸、金峰町高橋にある高橋貝塚は、縄文晩期から弥生中期の遺跡。籾痕のある土器や石包丁などが稲作の痕跡を示し、この地では2300年以上も前から稲作が行われていたとされる。そして、南九州では縄文と弥生文化の重なりが極めて長いとされる。


(追補)日本神話の源流。

 神話において、大山祇神は邇邇芸命に、姉の石長比売(磐長姫)と、妹の木花之佐久夜比売を嫁がせる。が、邇邇芸命は醜い石長比売を帰し、美しい木花之佐久夜比売とのみ結婚する。木花之佐久夜比売は天孫の繁栄の象徴とされ、石長比売は天孫の長寿の象徴とされて、石長比売が帰されたために天孫(天皇)は短命になったといわれる。
 この説話は「バナナ型神話」と呼ばれ、東南アジアに類型がみられるという。それはこの説話を遺した人々が東南アジア由来ということ。

 トカラ列島では家の傍に草や竹で編んだ産屋を建て、そこで出産する「産屋出産」の風習が遺り、産後は産屋に火を放ったとされ、当に、木花之佐久夜比売の火中出産を思わせる。そして、その原初は、やはり、東南アジアにあるともいわれる。降臨(上陸)した天孫などの氏族構成に、東南アジア由来の民の存在があったとみえる。

 そして、海幸山幸の説話が南洋の神話をルーツにするとされ、釣針を失う海幸山幸の話はインドネシアのケイ諸島やミクロネシアのパラオ島の神話に酷似するといわれる。降臨(上陸)した氏族の構成には江南など大陸沿岸や東南アジア由来のみならず、ミクロネシアなど南洋由来の民の存在まであったと思わせる。


 降臨神話において、邇邇芸命を先導したとされる「天津久米命」の存在がある。天津久米命は久米氏の祖神。この久米氏族が「鯰」をトーテムとした水人であり、その原初を東南アジア、メコン川流域のクメールとする説がある。(「久米の鯰。」参照)
 久米氏族は隼人に纏わるとされ、神武東征に従った大久米命は、黥利目(入墨目)であり、入墨は水人の習俗とされる。そして、のちの隼人の楯の渦巻紋や鋸歯紋の類が、東南アジアの楯に悪敵を払う呪術としてみられる。

 百越(ひゃくえつ)と呼ばれる民の存在がある。古く、江南からベトナムに到る広大な沿岸域に在った諸族の総称、北方の漢民族とは言葉、文化を異とする民。稲作、断髪、鯨面(入墨)など、倭人との類似が多いとされる。そして、百越のいくらかは東南アジアのモン・クメール語派とされ、南域ではクメールと同化していたとされる。

 北上する黒潮に沿って弧を描く南西諸島において、久米島や散在する久間や来間(くま)地名が、前述の久米氏族とも重なり、久米島では古い時代より稲作が行われて、米(コメ)の語はクメに由来するという説まである。


 天津(あまつ)神と呼ばれる存在とは、江南から東南アジア、南洋の海人由来まで多岐にわたる民が、琉球や南西諸島あたりで集団化したものともみえる。彼らは南西諸島を網羅したのちに、南九州に到ったとも思わせる。

 日本神話と南西諸島の神話の比較において、神話学者、松本信広は琉球神話がイザナギ、イザナミ神話の異体であり、日本の開闢(かいびゃく)神話が琉球神話を中間に置いて、南方の創造型神話と関連をもつと述べる。
 また、民族学者、大林太良は琉球や奄美の民間伝承とポリネシア神話などとの比較から、南西諸島の伝承が記紀神話より古い形を遺しており、オオゲツヒメや海幸山幸モチーフにおいて、記紀神話に無いエピソードが南西諸島に遺されると述べている。

 史学は記紀編纂の時代、頻繁に叛乱を繰り返す隼人に対し、彼らが王権に服属する理由として、隼人の祖、海幸彦が天皇の祖、山幸彦に服従するというかたちで日向神話を創作し、南九州を天孫降臨の地としたなどとも述べる。が、国家生成の大叙事詩が、そのような姑息な意図で構想されるものではあるまい。

 

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