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宗像三女神の秘密。


 宗像の沖ノ島が世界遺産登録を目指している。沖ノ島は韓半島との航路の祭祀が行われた島。4世紀後半から9世紀までの大量の祭祀遺物が発掘され、海の正倉院とも称される。古代宗像は韓半島との航路であることで繁栄している。

 古く、航海が有視界航行の時代、韓半島から対馬に取りついた船は対馬西岸を南下して壱岐に渡り、眼前の東松浦半島の突端に取りついて、唐津湾を東進、伊都の深江などに上陸した。船の航行能力が高まるや、対馬の北端を回った船は直接、九州北部沿岸を目指した。この海には黒潮の分流である対馬海流が西から東へと流れている。半島からは宗像あたりを目指すのが最上の航路であろう。

 宗像大社は韓半島との航路神で、玄界灘の孤島、沖ノ島の沖津宮、筑前大島の中津宮、そして、宗像市田島の辺津宮の三社の総称。全国七千余の宗像神社、厳島神社の総本社でもある。祭神の宗像三女神は沖津宮の田心姫神、中津宮の湍津姫神、辺津宮の市杵島姫神の三柱の総称で、道主貴(ちぬしのむち)とも呼ばれる。

 記紀神話において三女神は天照大神と素戔男命の誓(うけい)から生まれた姉妹神とされ、天照大神の命で天孫を助けるために筑紫の宗像に降り立ったとされる。そして、神功皇后が三韓征伐の際、三女神に航海の安全を祈り、霊験があったことで、半島航路の守護として崇められるようになったという。

 沖ノ島では4世紀後半から5世紀にかけて岩上祭祀が始まっている。4世紀後半の宗像においては、大型前方後円墳、東郷高塚古墳の西日本最大級の割竹形木棺に、翡翠勾玉や鉄器類を副葬させる強大な首長の存在があった。沖ノ島の航路祭祀に拘わる氏族とも思わせる。また、4世紀なかばの赤間、田久瓜ヶ坂古墳からは、大和や吉備の円筒棺が出土して、畿内あたりの氏族の存在を思わせる。沖ノ島の航路祭祀が国家祭祀として行われたということであろうか。また、沖ノ島の岩上祭祀では、巨石の上から三角縁神獣鏡などが検出され、津屋崎古墳群などの副葬品と共通するものも多い。

 古墳期の宗像は異彩を放っている。この時代の宗像は人種の坩堝。当に、国際都市の様相であった。宗像の冨地原などでは5~7世紀の集落、倉庫群で大量の韓式土器が出土して、半島渡来人が溢れていた。

 そして、秦氏の渡来が5世紀の頃といわれる。韓半島を経由して渡来した秦の民は機織りを伝え、秦(はた)の氏姓を与えられたという。日本書紀によると、秦氏は応神天皇14年に百済から百二十県の人を率いて帰化する。加羅または新羅からとも。一説には大陸、「秦」の王族が韓半島を経て渡来したともされる。

 宗像沿岸の奴山に日本最初の織物神を祀る縫殿神社が在る。応神期に織物技術を伝えた4人の織媛の伝説を残し、5世紀の新原奴山22号墳上に縫殿宮跡を遺す。これらの集団は宗像中枢で織物、鍛冶や韓式窯などの先進を普及させ、5世紀の宗像を国際都市の様相にしている。

 そして、6世紀。530年頃、物部阿遅古連が宗像で韓半島との航路を掌握し「道主貴(ちぬしのむち)」の祭祀を司ったとされる。これが三女神祭祀の原初ともみえる。日本書紀に「即ち日神の生れませる三の女神を以ては、今、海の北の道の中に在す。號けて道主貴と曰す。これ筑紫の水沼君等の祭る神、是なり。」と記され、三女神は筑後の水沼君が斎る神であったという。一方、旧事本紀に「物部阿遅古連は水沼君等の祖」ともされ、水沼君との拘わりをみせる。

 古く、有明海は三潴(みずま)のあたりまで湾入して、水沼君の三潴は東シナ海の大陸航路の拠点であった。水沼氏族の巫女信仰は5世紀の頃には大陸航路の女神祭祀へと変質している。そして、筑後北野では水沼氏族の女神祭祀が道主貴として田心姫命に習合していた。(古代妄想「高良玉垂神の秘密。」参照。)

 物部阿遅古連(あじこのむらじ)とは物部麁鹿火の弟。物部麁鹿火は筑後における磐井の乱平定の後、筑紫の統治を司っている。そして、物部阿遅古連をして韓半島との「海北道」の祭祀として宗像で道主貴を祀らせたとみえる。先代旧事本紀によれば、古く、遠賀川流域を中心にして、宗像以東の九州北部域は物部氏の本貫であったとも。

 その後、554年に倭国は百済救援のため渡海。562年には新羅の侵入により任那が滅亡。大和王権は6世紀以降、たびたび韓半島に出兵し、宗像の重要性と半島航路祭祀の権威が高まっている。

 そんな中、7世紀になって宗像氏族が存在感をみせる。645年に胸形君は宗像神郡の大領と宗像大社の神主を任じられ、654年には胸形君「徳善」の女(むすめ)が天武天皇の妃となり、後に太政大臣となる高市皇子を生んでいる。宗像氏の繁栄の時代である。

 新撰姓氏録は「宗形朝臣、大神朝臣同祖、吾田片隅命之後也」として、宗像氏を素盞鳴尊の嫡裔、大国主の流れの吾田片隅命の裔で、大和の祭祀氏族、大神(おおみわ)氏同族とする。大神氏が祭祀する大和の三輪山は山頂の磐座に大物主神、中腹の磐座に大己貴神、麓の磐座には少彦名神を祀る三所祭祀とされる。大和の大神氏が宗像の航路祭祀、沖津宮、中津宮、辺津宮の三所祭祀に拘わったとも思わせる。

 確かに、6世紀に物部阿遅古連が祭祀したとされる道主貴は沖ノ島に祀られる田心姫命の一柱。そして、田心姫命は出雲大社において大国主の妻神として祀られるなど、三女神の中でも特別な存在であった。また、沖ノ島で4世紀後半に始まった航路祭祀が中津宮、辺津宮にはみられないといった事象があった。

 大和の祭祀氏族、大神氏は宇佐に下向している。宇佐の八幡神の生成は、古く、宇佐の国人、宇佐氏の比売神信仰に、渡来系の辛嶋氏がシャーマニズム(原八幡信仰)を持ちこみ、さらに、6世紀に大神比義が国家祭祀として応神天皇の信仰を同化させたともいわれる。三女神の航路祭祀の生成とよく似ている。宇佐神宮の「比売大神」が宗像三女神とされるのもこのあたりに纏わるのかも知れない。(了)

 

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◎連鎖する九州の比売神信仰。

九州には太古より続く比売神の信仰がある。その信仰に纏わり多くの比売神が習合、離散して、異名似体の女神群が生成されている。阿蘇の母神、蒲池比売や有明海の海神、與止日女、高良の玉垂媛、御井、香春の豊比売命、そして、宗像の田心姫命や宇佐の比売大神。古代九州の謎を秘める比売神の連鎖とも呼ばれる事象。

 

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