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古代早良国の謎。


 伊邪那岐命(いざなぎ)と伊邪那美命(いざなみ)が海中(うみなか)に矛を突き刺すと、天と地を繋ぐ「天之御柱(あめのみはしら)」となる。二神はこの柱を伝って「淤能碁呂(おのころ)嶋」に天下る。こうして、天上に生まれた神は地上に降り立つ。淤能碁呂嶋に降りた二神は天の御柱で出会い、契りを交して淡路島を生み、そのあとに九州などの島々を生んで日本の国土を造ったという。


 博多湾の中央に能古(のこ)島が浮かぶ。湾口に玄界島が浮かび、沖合いに小呂(おろ)島が浮かぶ。小呂(おろ)島、能古(のこ)島の名は「淤能碁呂(おのころ)嶋」の響きに似ている。国生みの神話を投影したものであろうか。
 天の御柱(あめのみはしら)とは博多湾口、玄界島沖の「柱島」。玄界灘から博多湾に入る船が最初に眼にするアテ。数年前の福岡西方沖地震の震源地域であったため大きく崩落したらしいが、海中から屹立する特異な露岩は、当に、天の御柱。

 そして、二神は天の御柱を間に伊邪那岐命は左からまわり、伊邪那美命は右からまわって出会う。左は東にして陽、右は西にして陰。博多湾に入ると東に若杉山、西に飯盛山の特徴的な山体を望む。若杉山を神体とする「太祖神社」は伊邪那岐命を祀る。そして飯盛山を神体とする「飯盛神社」には伊邪那美命が祀られ、神話に基づいた神祇が構成されている。

 「飯盛神社」は早良平野の神奈備、飯盛山の麓に鎮座する。縁起によると、天孫降臨の際に天太玉命が伊邪那美命(いざなみ)を奉祭したものを起源とし、福岡平野を挟んで糟屋の神奈備、伊邪那岐命(いざなぎ)を祀る若杉山に相対する。若杉山の麓に座す「太祖神社」の縁起は「神殿を西に向けて造営し、早良、飯盛山に鎮座せらる伊邪那美命の神殿と相対せられしは深き由縁有り。」と記している。


 飯盛山の麓は韓半島や大陸に纏わり、列島で最も早く開けた域とされ、日本最古のクニとされる「吉武高木遺跡(早良王墓)」の存在がある。以前より、地相的に優れて、都とされるに相応しい域といわれ、「都地」地名の存在が注目されていた。
 1983年から発掘された遺跡の大型木棺墓や金海式甕棺からは青銅の武器、玉類に加えて半島製の多鈕細文鏡などが出土。弥生前期末、紀元前2世紀にまで遡る国内最古の王墓ともされて、大きな話題となった。
 また、大型の高殿建物跡が検出、回縁が付いた祭殿とされた。遺構は紀元前2世紀から1世紀後半のもの。遺跡の周辺には集落が広がり、九州北部沿岸で繁栄した奴国や伊都国に先駆けるクニの存在が確認された。

 その地理的な優位性から、この平野では太古のクニの存在が早くから指摘されて、昔から「掘れば何か出てくる」といわれた有名な場所でもあった。そして1983年から2年に亘ってこの遺跡が発掘された。当時、この平野の下流域に在った筆者なども大興奮したものである。


 吉武高木遺跡は室見川の中流域左岸、日向川の扇状地に広がる。この平野で稲作が始まったのは縄文晩期の紀元前4世紀頃、有田遺跡あたりがその拠点集落とされる。その後、弥生前期の飯倉遺跡、原遺跡、野芥遺跡などに環濠集落がつくられる。恐らく、早良平野全体に小さな環濠集落がいくつも散在し、その中から有力な首長が現れたともみえる。

 玄界灘からまっすぐに博多湾へ入ると、能古(のこ)島と今津の毘沙門山の間を抜け、今津の岬と小戸の御膳立に挟まれた波静かな海域。正面の浜に上陸するとそこは早良の平野。東を油山山塊により福岡平野と隔てられ、西には日向(ひなた)山系が糸島平野との間に連なっている。後背は背振山地が1000m近い標高差で障壁を成し、狭い閉鎖空間をつくっている。クニの成立に関して、この適度な狭さが有利に働き、王の出現を早めたともいわれる。


 この遺跡で発掘された王墓とされる木棺墓からは、韓半島に起源をもつ多鈕細文鏡などが出土して、太古の早良の王は韓半島と繋がりを持った人物であったともされる。早良の「さわら」は古くは、博多湾岸の麁原(祖原、そはら)をその古名とし、韓半島の首都を意味する「ソウル」の転化ともいわれる。

 飯盛山の中宮に「五十猛(いそたける)神」が祀らる。五十猛神とは素戔嗚神の子神。素戔嗚神とともに新羅の曽尸茂梨に天降り、のちに列島に渡ったとされる。この地に太古のクニをつくり、飯盛山の山腹に五十猛神を奉祭したのは、渡来した韓半島南域の倭人であろうか。

 隣接する福岡平野の「奴国」や糸島平野の「伊都国」の王権が、1世紀頃に衰退するこの国に替わるように現れて、繁栄に向かうのも興味深い。邪馬台国前夜のこと。(了)

 

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