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早良(さわら)の鯰。


 福岡、早良の賀茂に「賀茂神社」が鎮座する。この社の傍を流れる金屑川には鯰神が住むとされる。江戸期、享保の飢饉の折、賀茂の民が神に祈願したところ、金屑川に住む鯰神が現れ「川をきれいに保って鯰を守れ。」と告げ、それを行った民は飢餓から救われたという。


 阿蘇に鯰の信仰がある。阿蘇神話には、阿蘇の主神、「健磐龍命(たけいわたつ)」が阿蘇に下向し、土着して阿蘇を開拓してゆくさまが述べられる。そこには神話的な伝説に彩られた神々の姿がみられる。
 昔、阿蘇は外輪山に囲まれた大きな湖であった。健磐龍命は湖の水を流して田畑を拓くことを考え、湖の壁を蹴り壊す。が、大鯰が横たわり水の流れをせき止める。健磐龍命はこの大鯰を退治して湖の水を流したという。

 この大鯰の説話は、中央から派遣された氏族に鯰トーテムの先住氏族が従属する図式を示すといわれる。阿蘇の古い民は鯰をトーテムとして、阿蘇の大鯰の霊は阿蘇神社の元宮ともされる「国造神社」の鯰宮に祀られる。(前項、「鯰の話。」参照)

 旧早良郡の樋井郷、片江の産土神として阿蘇神社が鎮座する。祭神は阿蘇の主神、健磐龍命(たけいわたつ)。この社の元禄期の古棟札に郡代の名として「山部久左衛門」の名が記される。
 阿蘇の古族、山部氏族の存在がある。山部氏族は阿蘇祖神、草部吉見命(くさかべよしみ)の後裔とされ、健磐龍命を祖とする阿蘇大宮司家に従ったとされる。
 そして、片江の阿蘇神社は1288年に元寇(文永の役、弘安の役)の恩賞として樋井郷を与えられた阿蘇大宮司惟泰や、1417年に同じく樋井郷の地を得た阿蘇大宮司惟郷に由来するともいわれる。

 早良、賀茂における「鯰」の信仰とは鎌倉期以降、片江あたりに在った阿蘇の鯰トーテム、山部氏族が齎したものとも思わせる。


 早良、賀茂周辺に七隈、干隈、田隈と「隈、くま」の地名が散在する。「隈、くま」とは山や川が曲がったところ、または、奥まったところの意ともされ、それを地名にしたともいわれる。また、七隈が多くの丘のことで、隈(くま)は丘陵を意味するとも。

 が、九州において、熊本などに遺る「隈、くま」という根源的な称(よびな)は、古く、「球磨、くま」に由来するともされる。隈庄、隈部、隈府。隈本とはのちの熊本。球磨(くま)を大元として、火(肥)は隈の域とされる。そして、熊襲(くまそ)が球磨、贈於ともされ、球磨は熊襲の本地ともされる。九州において古層の「隈、くま」地名とは、火(肥)の民に纏わるという。

 筑前と筑後の境界、小郡、三輪あたり、山隈山周辺には隈、篠隈、小隈、乙隈、横隈、山隈など「隈、くま」地名が密集する。そして、この域は神功皇后の伝承において、熊襲ともされる羽白熊鷲(はしろくまわし)が討伐された地であった。
 また、佐賀平野、神埼の日隈、早稲隈、帯隈、鈴隈の「四山の神祇」、日田盆地の生成伝承に由来する日隈、月隈、星隈の「三隈、みくま」の存在などが知られる。これら「隈、くま」の神祇と呼ばれるものは、筑紫、筑後川流域、佐賀平野あたりに系統的にみられ、古く、火(肥)の民が跋扈した痕跡ともされる。(前項、「隈(くま)の話。」参照。)

 早良、賀茂周辺の「隈、くま」地名の集中とは、古い時代の賀茂あたりに、火(肥)の民が在った痕跡を示すとも思わせる。早良、樋井郷を貫流する樋井川の東岸にもかつて、隈(くま)村があったという。


 古く、旧早良郡の内に草香江(くさがえ)と呼ばれる入江の存在がある。草香江は樋井川の下流域に広がり、大濠にその痕跡を残すという。早良郡志には「樋井川村北部の地は往古、海水深く湾入していた。」とあり、草香江、田島、荒江、片江などの地名にその痕跡を残すとされる。そして、筑前国続風土記は草香江の名は「日下(くさか)江」であろうと記している。

 前述の阿蘇、山部氏族は祖神を草部(くさかべ、日下部)吉見命として、阿蘇神社の権大宮司は、20社家の山部氏族より選ばれて日下部(くさかべ)姓を称するという。阿蘇の古族の原初は日下部(くさかべ)氏族であった。早良の草香江(くさがえ)と鯰をトーテムとする阿蘇の山部氏族がここでも繋がる。

 また、旧早良郡、樋井(ひい)郷の名の由来として、古く、樋井川の川上で「樋(とい)」を使って灌漑としたことに纏わるという。が、和名類聚抄では、樋井郷は「毘伊(ひい)郷」と記される。古く、漢字が汎用とされる以前は「音」がすべてであった。樋井郷の古名、毘伊(ひい)とは「火(ひ、肥)」に纏わるとも思わせる。
 肥後風土記にある八代郡の火邑(ひのむら)が「火(肥)国」の中枢として、和名抄に「肥伊(ひい)郷」と記される。そして、八代の肥伊郷にも「氷(ひ)川」が貫流している。


 早良における鯰の信仰や隈(くま)地名の集中は、早良の古層に「火(肥)」の民の存在を想起させ、草香江(くさがえ)が、阿蘇の日下部(くさかべ、山部)氏族に拘わり、樋井(ひい)郷の名さえ火(肥)に纏わるとも思わせる事象。

 阿蘇神社が鎮座する樋井郷、片江は草香江の奥。ここの片江遺跡は弥生期から古墳期に到る大規模集落跡とされ、古代製鉄の痕跡を遺すという。また、この域には金山などの製鉄地名が遺され、鯰神が住むとされる川が金屑川であった。そして、阿蘇の鯰ト=テム、山部氏族が古代製鉄に纏わる氏族とされる。

 4世紀の草香江、樋井川流域の首長墓とされる、田島の前方後円墳の存在がある。この首長墓が京ノ隈古墳(きょうのくま)と呼ばれ、「隈、くま」の称(よびな)をもつ墳墓であった。そして、阿蘇外域、草部に鎮座する草部吉見神社の由緒は、阿蘇祖神、草部吉見命は筑紫を鎮護していたと記している。(了)

 

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◎鹿と鯰の話。国譲り神話の真実

古く、鹿トーテムの氏族と鯰トーテムの民の存在がある。ともにその原初を大陸南域とするが、鹿トーテムの氏族は韓半島に拘わり、鯰トーテムの民は九州中南より領域を拡げて両者は対峙する。建御雷命が建御名方命を駆逐する国譲り神話の力くらべ説話は彼らの闘争を投影したものともみえる。而して、その本質は韓半島由来の集団と南方系の民との葛藤。


邪馬台国の南に在り、邪馬台国と対峙していた狗奴国。弥生後期の鉄製武器の出土において、火(肥)北部は北部九州域を圧倒して狗奴国の存在を彷彿とさせる。阿蘇や熊本平野、八代海沿岸、人吉盆地などに出土する祭祀土器、免田式土器を奉斎する特異な集団の存在がある。彼らは阿蘇で大量の褐鉄鉱を得て、鉄製武器を集積し、狗奴国を建国したとみえる。狗奴国の生成と邪馬台国との葛藤とは、九州を舞台とした古代日本の曙を彩る大叙事詩。

 

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