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那ノ津の犬飼と草香江の鳥飼。


 1984年、福岡市街、博多区の比恵遺跡で古墳後期(6世紀後半)の倉庫群と柵列が出土した。傍に三宅田などの地名が遺ることで、536年に那ノ津の畔(ほとり)に置いたとされる外交、軍事の拠点、「那津官家(なのつのみやけ)」の跡とされた。その北隣に犬飼神宮なる社(やしろ)が鎮座する。このあたりは犬飼の字名を残し、古くは犬飼町と呼ばれた。(「那ノ津の謎。」参照。)


 犬養部(いぬかひ、犬飼)が犬を飼育することで王権に仕えた品部とされ、犬養部は官家(屯倉、みやけ)の設置をうけて国々に置かれ、犬を以て官家を守衛したとされる。

 新撰姓氏録に火闌降命之後也と記される「阿多御手犬養氏」が在る。火闌降命(ほすそり)とは海幸彦、神話では隼人(阿多君)の祖とされる。隼人は5世紀頃に王権の支配に入り、多くが畿内に移って朝廷の門衛を司どったという。
 阿多御手犬養氏とは、当に、犬を飼って門衛を司どる阿多隼人。門衛として吠を発した隼人は「狗(いぬ、犬)」に擬せられ、狗人とも呼ばれる。また、大隅の「曽於(そお)」が、南方で犬を意味する「襲(そお)」であり、大陸南岸の犬祖神話に由来するとも。隼人はどこまでも犬に纏わる。那津官家に由来して博多に犬飼なる地名を残した氏族とは隼人であった。


 鎌倉期のものとされる博多古図や鎌倉期から室町期の博多を描いたとされる博多往古図によると、那津官家とされる比恵遺跡の北、古く、那ノ津の入江に突きでた岬に住吉神社(住吉本社)が鎮座する。
 博多の住吉神社は住吉神を祀る最も古い宮であるという。社地は弥生遺跡であり、銅矛、銅戈が出土して墳墓以外に埋納された最古の事象とされた。この社の祭祀は弥生中期にまで遡るといわれる。縁起では黄泉から戻った伊弉諾尊が禊祓を行った「筑紫の日向の橘の小戸の阿波伎原」がこの地で、住吉神が生まれた浜ともされる。そして、この住吉神社の神官が古く、佐伯氏であった。

 佐伯氏は佐伯部を率い、久米部と並んで朝廷の門衛にあたり、佐伯門の名を遺す。また、佐伯(さえき)とは障(さへ)ぎる者として、邪を払う儀礼に従事する職掌とも。
 そして、佐伯氏は大伴氏の流れともされる。もとより、隼人を管轄したのが大伴氏であった。大伴氏族は瓊々杵尊(ににぎ)の降臨を先導した天忍日命を祖とし、隼人氏族ともされる来目部を率いたという。

 また、住吉神は隼人が奉祭した神でもあった。住吉神は航海神、隼人は本来、海人であった。また、宇佐神宮の放生会における「傀儡子の神相撲」において、住吉神は隼人が奉斎する神として、その偉大さが謳われる。那ノ津に祀られた住吉神とは、那津官家に由来する隼人氏族が奉祭したものとも思わせる。


 そして、福博の町はふたつの入江に始まるとされる。ひとつは那津宮家が置かれた那ノ津。もうひとつは草香江(くさがえ)である。草香江は那ノ津の西、福崎の丘陵から赤坂山、大休山と続く低山帯の西、樋井川流域に広がる入江。早良郡志には「樋井川村北部の地は往古、海水深く湾入していた。」と記され、大濠をその名残りとして、草香江、荒江、田島、片江などの地名に痕跡を残すといわれる。

 古く、大和王権の黎明期に草香江の支配氏族として「神功皇后が三韓征伐より帰朝の折、御餞を奉りし鳥飼氏」とされる鳥飼(とりかい)氏族の存在がある。鳥飼部は鳥を飼育して朝廷などに献上した品部とされ、雄略天皇の頃に食用の養鶏を業とした鳥飼部があったとされる。
 この鳥飼氏は古く、草香江西岸に在ったという鳥飼八幡宮を奉祭する。その境内の黒殿社に武内宿禰と共に氏族の祖、鳥飼黒主を祀り、武内宿禰氏族であろうことを伺わせる。和名類聚抄によると、旧早良郡には平群(へぐり)や曽我(蘇我)などの郷名が残り、武内宿禰氏族との拘わりをみせる。

 そして、隼人域に「弥五郎どん」の信仰がある。日向、山之口の的野正八幡宮、日南の田之上八幡神社、大隅、岩川の岩川八幡神社などの社の祭事に巨大な弥五郎どんの人形が登場する。弥五郎どんは隼人の王。地元では「武内宿弥」ともされ、海幸彦、山幸彦の親戚筋にあたるという。
 隼人域の民が武内宿弥を崇めるのは、武内宿弥が狗人(隼人)の系譜であることに他ならない。狗人の兵が武内宿禰に従い、神功皇后の三韓征伐に従軍したという伝承が重なる。(「黒い神の系譜。」参照。)


 阿多隼人の裔とみられる那ノ津の犬飼氏。住吉神社の神官、佐伯氏。そして、草香江の鳥飼氏。古墳後期(6世紀後半)の博多湾沿岸には隼人に由来する氏族が跋扈していたようだ。(了)

 

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