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比恵、那珂丘陵の奇跡。


 福岡平野の中央、現在の博多駅の南域、那珂川と御笠川に挟まれた標高10mほどの低い丘陵に、吉野ヶ里遺跡の約4倍の広さという比恵、那珂遺跡群が広がります。

 2007年、福岡市教育委員会はその域で弥生後期に遡る幅7mの「古代道路」の跡を100mに亘って発掘します。その道路の両側には側溝が設けられ、他の箇所でも同じ遺構を検出して、1.5kmに及ぶ直線道路の存在を確認します。
 比恵、那珂丘陵上を貫くその道路の両側には弥生後期の方形周溝墓群や福岡平野最古とされる前方後円墳、那珂八幡古墳、そして多くの円墳や方墳、建物群が並ぶように配置されて、壮観を誇っていたとされます。当に、古(いにしえ)の都市計画道路。弥生後期から古墳期に亘るメインストリートとされました。


 福岡平野は列島開闢(かいびゃく)の地とされます。博多湾の先に広がる玄界灘は韓半島、そして大陸に繋がり、福岡平野は大陸文化が最も早く齎された地でした。

 縄文晩期、比恵、那珂丘陵に日本最古の稲作集落が営まれることで、列島の弥生時代が始まっています。丘陵上に人が住み着いたのは後期旧石器時代。やがて、縄文晩期、板付遺跡などの環濠集落が営まれ、以降、弥生期を通じてそれらの稲作集落が規模を拡大しています。
 比恵、那珂遺跡群の集落跡や墳墓からは大量の朝鮮系土器や大陸系遺物をはじめ、多くの貴重な遺物が出土、また、集落域の区画溝や水路、青銅器工房や鉄器の鍛冶工房、運河などの遺構が検出されて、比恵、那珂丘陵は、当に、列島の曙(あけぼの)の地とされています。

 そして、比恵、那珂丘陵の南端は春日丘陵、須玖岡本遺跡に繋がります。須玖岡本遺跡は後漢書や魏志倭人伝にいう奴国(なこく)の中枢とされる遺跡群。
 弥生中期の100基以上の甕棺墓群や祭祀遺構が密集して、王墓とされる甕棺墓からは30面の前漢鏡やガラス璧(へき)などの副葬品が出土しています。
 周辺の丘陵には青銅器生産の遺物やガラス、鉄器などの製作工房が多数検出され、その繁栄ぶりを示します。


 また、比恵、那珂丘陵の北端には、当時、流れを西に向けた比恵川(御笠川、石堂川)を隔て、砂州が広がっていました。太古の博多はこの那ノ津の湾口に発達した海中(うみなか)の州に始まるとされます。
 この砂州はのちの博多の街区。この域に博多遺跡群が広がります。縄文晩期に遡る夜臼式土器の出土に始まり、弥生中期から後期にかけての集落跡や甕棺墓群、さらには方形周溝墓、全長65mの前方後円墳(博多1号墳)などの存在が明らかになっています。

 博多遺跡群の発掘に携わった研究者は、この砂州域の墳墓群の被葬者は航海術を背景に、海上交易に大きな影響力をもつ海人の存在を示唆します。この砂州は奴国の海人が跋扈した域。

 砂州域の西に那ノ津の入江が広がり、比恵川(御笠川、石堂川)が那ノ津に流れ込んでいました。その河口の岬が現在の住吉神社の社地。この地は「河瀬ある潮入所」と呼ばれ、銅矛、銅戈が出土して、弥生中期の遺跡ともされます。
 博多の住吉神社は「住吉本社」とも呼ばれ、摂津の住吉大社の元宮ともされて、その祭祀は弥生中期にまで遡っています。住吉神は最古の航海神。その祭祀は海中(うみなか)の州に在った奴国の海人に依るものでした。

 福岡藩の藩儒、貝原益軒はこの住吉の浜こそ、日本書紀にいう伊耶那岐が禊を行った「筑紫の日向の小戸の橘の檍原(あはきはら)」であるとして、海神、綿津見神や航海神の住吉神が生まれた浜であるとします。

 博多の原初、海中(うみなか)の洲とは玄界灘から東シナ海を我がものとした奴国の海人たちが跋扈した地。そして、その存在はのちに海人の宗に任じられた安曇(あづみ)海人がいかにも相応しい。博多の氏神、櫛田神社の大幡主神とは安曇(あづみ)海人の祖神、綿津見神に由来し、博多の名は大幡主に因みます。


 そして、須玖岡本遺跡の奴国王墓ともされる甕棺墓は、当地の八尋氏の宅地から出土しています。須玖岡本遺跡の周辺には八尋姓や白水姓が多く在し、奴国王家に纏わる系譜とも思わせます。
 八尋姓は福岡県下に多く、尋(ひろ)が古く、水深を表す単位ともされ、海と拘わりが深い姓とされます。神話では綿津見神の女(むすめ)、豊玉姫命の本体が八尋和邇(わに)でした。
 また、白水姓は大陸由来の海の民、白水郎(はくすいろう)を彷彿とさせます。白水姓も博多湾岸や対馬などに多く、玄界灘の海人に纏わるとされます。博多の氏神、櫛田神社の神官に八尋氏があり、有力な博多商人にも八尋家や白水家があります。

 奴国王とは玄界灘から東シナ海を我がものとした海人の覇王。漢委奴国王印(金印)が安曇海人の中枢、志賀島から出土するのもその証(あかし)。そして、海人国家、奴国の地理的優位性とは韓半島、そして大陸へと繋がる博多原初、海中(うみなか)の洲が齎したものでした。

 比恵、那珂丘陵上を貫く古代道路とは、古く、奴国の海人が跋扈した博多湾岸、海中(うみなか)の洲から比恵、那珂の丘陵、そして、須玖岡本の奴国中枢を結ぶメインストリートでした


 弥生期の九州北部にみられる甕棺墓は弥生前期に派生、糸島や博多湾岸から筑後、吉野ヶ里などの佐賀平野に分布、弥生中期に最盛期を迎え、須玖岡本あたりで爆発的な盛行をみせます。須玖岡本遺跡では弥生中期の前1世紀に、家屋遺構などが急激な増加をみせて、その時代の人口増加を示しています。

 韓半島南域に由来する甕棺墓や朝鮮系無文土器の大量出土など、この域の民は韓半島南域と強い繋がりを持った種でした。古く、韓半島南域には列島同根の倭人が在ったとされます。
 そして、弥生中期の甕棺墓域での急激な人口増加とは、韓半島南域の倭人の渡来に拘わるともみえます。奴国は彼らの渡来に拠って力を蓄えています。

 奴国はその後、後漢に冊封されるなど、列島を代表する強大な国家に成長します。漢書などによると、奴国人は頻繁に半島の楽浪郡を訪れていたとされ、西暦57年には後漢の光武帝より印綬を受けたことが後漢書に記されます。博多湾口、志賀島より出土した金印の事象。


 やがて、繁栄を誇る奴国もその力を失います。のちの3世紀、須玖岡本遺跡は急激にその遺構を激減させます。それは、金印の異常な出土状況にみえるように、何らかの異変が奴国に起きたとも思わせます。

 後漢書や魏志倭人伝によると、2世紀の後半に倭国大乱と呼ばれる争乱が起きます。後漢書には「倭国は大いに乱れ、互いに攻め合い、何年も主が無く、やがて一人の女子(卑弥呼)が王に共立された」と、邪馬台国の存在を記します。
 そして、魏志倭人伝に「奴国の長官をじ馬觚(じまこ、じばこ)といい、副官は卑奴母離(ひなもり)という」と、3世紀の邪馬台国による奴国支配が記され、そこには奴国王の存在は既にありません。

 魏志倭人伝はさらに、韓半島、大陸との交流を伊都国が担い、また、「伊都国に一大率を置き、諸国を検察せしむ」として、九州北部沿岸の行政中枢を伊都国に置きます。邪馬台国は韓半島、大陸との交易の実権を奴国から奪い、2万余戸の人口を有する大国であった奴国を無力化しています。

 倭国大乱を経て、邪馬台国の支配のもと海人国家、奴国は解体されたのでしょうか。3世紀、遺構を激減させた須玖岡本に代わり、比恵、那珂丘陵の遺構が拡大して、奴国の掌管中枢が変わったことを示唆します。

 福岡平野から筑後、佐賀平野において盛行をみせた甕棺墓も、その時代に衰退。そして、箱式石棺などの墓制に代わります。甕棺墓と箱式石棺の副葬品には連続性はみえず、支配勢力の交代を思わせます。奴国のみならず、九州北部域の韓半島由来の勢力は、弥生末期の3世紀には影響力を失っています。

 比恵遺跡において6、7世紀の柵と大形建物群の遺構や瓦類などが出土し、日本書紀の宣化元年(536年)条に記される「那津官家」の遺構であるとされました。大和王権の時代に到って、比恵、那珂丘陵は海人国家、奴国以来、再び列島の外交、防衛の中枢域とされます。比恵、那珂丘陵とは、列島の複雑な歴史が凝縮された域であったようです。(了)

 

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