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日下部氏族の話。


 お祓いが終わったあと、宮司に声をかけた。
「失礼ですが、宮司さんは日下部(くさかべ)さんでいらっしゃいますか。」
「はい、日下部です。」
「古いお家柄なのですね。」
「はい。千年以上もここの神主をやっております。」
 六十年配と思われる宮司は屈託のない笑顔で事も無げに語った。


 宮崎の北、一ッ瀬川の中流域、日向、児湯郡の妻(つま)に鎮座する「都萬(つま)神社」は日向国総社。妻宮、妻万宮などと崇敬され、日向国の式内4社で最も有力な社であったという。
 主祭神は「木花咲耶(このはなさくや)姫命」。木花咲耶姫命は大山祇神の女(むすめ)で瓊々杵尊の妃。火照命(海幸彦)や火遠理命、彦火々出見尊(山幸彦)の母神。彦火々出見尊の孫が神武天皇である。都萬神社の地は瓊々杵尊と木花咲耶姫命が暮らした地であり、社名の「都萬」は木花咲耶姫命が瓊々杵尊の妻であることに因むという。


 都萬神社は社叢の中に数基の鳥居と拝殿、本殿が東を向いて一線に並ぶ日の神祇。樹齢千年余とされる樟の古木を始め、巨木が林立する境内には大山祇社などの境内社、日下部神主の発祥とされる日下部塚、おしもり塚などの旧跡。周辺には八尋殿跡、無戸室産殿跡、児湯の池、大山祇神を祀る石貫神社など、瓊々杵尊と木花咲耶姫命の神話の舞台が散在、妻の町全体が記紀神話の世界であった。
 また、西の台上には西都原古墳群が広がり、日本最大の帆立貝形古墳、男狭穂(おさほ)塚や九州最大の前方後円墳、女狭穂(めさほ)塚など、319基の古墳が集中して日本最大級の古墳群とされる。

 都萬神社で木花咲耶姫命を奉祭するのが、冒頭の日下部(くさかべ)氏であった。縁起では「土の中から掘り出された男一人、女一人がこの社の祭祀を行ない、その末裔が社家の日下部である」とされる。のちの時代、この地には日向国府が置かれ、日下部氏族は日向国守を務めている。


 古代氏族名鑑、新撰姓氏録は日下部氏を「阿多御手犬養同祖」とし、隼人の祖とされた火照命(海幸彦)の裔として隼人同族とする。もとより、日下部神主が奉斎する木花咲耶姫命が別名、阿多都(あたつ)比売、阿多の母神であった。阿多とは薩摩半島南西岸、阿多隼人の本地。

 隼人とは南九州の海人。神話において火照命(海幸彦)に纏わる海幸山幸の説話や木花咲耶姫命の火中出産の説話などは東南アジアや南洋にルーツがあり、隼人の楯の渦巻紋や鋸歯紋の類は東南アジアにおいて悪敵を払う魔除けとされる。隼人は東南アジアあたりの海人に由来する。
 また、前述の都萬神社の日下部神主に纏わる「土中出自」の始祖説話は台湾や東南アジアに多くみられ、日向の日下部氏族が阿多海人の流れを汲むことを補完する。


 そして、九州の日下部氏族は多く、神祇の域に所在する。阿蘇神社神官群の中枢にも日下部(草部)氏が在る。阿蘇大宮司家よりも古い阿蘇の祖族とされ、祖神の草部吉見神は神武天皇の皇子、日子八井命ともされる。
 また、筑後国一宮、高良大社祠官家にも日下部(草壁)氏が在る。日と鷹(日高)の神祇、日田の統治も邑阿自(おほあじ)を祖とする日下部氏であった。

 而して、日下部とは「日」の神祇を奉じる「日下(くさか)」職務の吏役(部民)に由来するとも思わせる。

 冒頭の日下部氏が統治した日向の称も「日」を奉じるもの。古く、日向を発し、東を目指した神武天皇は「日下(ひのもと)」の天皇とされ、上陸地が「日下(草香、くさか)」の蓼津であった。大和へ攻めこむ神武天皇に兄の五瀬命は「吾は日神の御子と為て、日に向かひて戦ふこと良からず。」と謂う。神武天皇は日の御子。日を奉じる氏族。

 そして、銅鏡が「日」を奉じる祭祀の象徴ともされる。日向に青銅器文化は無いとされるが、なぜか銅鏡だけは出土する。松浦の日下部君の祖、佐用姫は大伴狭手彦から銅鏡を贈られる。
 日田の日下部氏の墳墓とされるダンワラ古墳からは、大陸王朝の象徴ともされる宝鏡、「金銀錯嵌珠龍紋鉄鏡」が出土して、日田や下流の浮羽あたりの装飾古墳において赤色で描かれた同心円文は、当に「日」の祭祀を思わせる。

 前項、「大いなる海人の系譜。」において、阿多海人の系譜が九州西岸を北上、阿蘇の祖族、山部氏族(草部吉見氏族)が隼人同族とされていた。そして、阿多の系譜ともみえる有明海の海人、水沼氏が玉垂神の裔を称し、高良玉垂宮の日下部神主(草壁、稲員)であった。
 また、丹後や但馬の日下部氏族が伝える「浦島子(浦島太郎)」の伝承は、日向神話の山幸彦(火遠理命)と豊玉姫命の説話と同じであり、丹後や但馬の日下部氏族も阿多海人の流れとみえる。


 が、日下部氏族は各地に蟠踞して、その起源には多くの系統があるといわれる。饒速日命の孫、彦湯支命(比古由支命)後裔をはじめ、第9代 開化天皇の皇子、日子坐王後裔の氏族群や、第16代 仁徳天皇の皇子、大草香王の後裔、第21代 雄略天皇の皇后、草香幡梭姫皇女の御名代部、第36代 孝徳天皇の孫、表米親王(日下部表米)の後裔などともされ、枚挙に暇がない。なにやら、この時代の有力氏族が挙って日下部を称している。

 古く、聖徳太子が功ある者に「日下(くさか)」の姓を賞として与えたという話があり、日下の姓は誉れ高き氏姓ともされたという。

 日下は古事記には「玖沙訶(くさか)」と書かれる。ふつう、日下を「くさか」とは読めない。日下が「くさか」とされたのは神武天皇の上陸地、草香(くさか)の枕詞が東方建国を示す象徴、「日下(ひのもと)」であったためとも。

 古く、大陸では倭を「日下(にちげ)」と称し、東方の僻遠とした。そして、日下(にちげ)の意を逆手にとって、日の下(もと)を日の「本」地とした「日本」と転じ、国号としたという説がある。
 故に、日下や日下部は輝かしい氏姓とされ、その時代の皇族が日下(草香)の名を冠し、後裔や御名代が日下、日下部を氏姓としたとも思わせる。


 が、九州の日下部は「日」を奉じる神祇の氏族とされながら負の霊異がつき纏う。日向の都萬や都農では日下部神主の土中出自が喧伝され、阿蘇では祖神、草部(日下部)吉見神は地の底の池に祀られる。そして、日田の日下部長者は榧の木にとり殺される。
 神武天皇の系譜に拘わる神祇の氏族の霊異。九州の日下部氏族はある時代、中央王権に忌避されたともみえる。叛乱を繰り返す「隼人」を祖としたことに由来するのであろうか。この国の原初を思わせる日下部氏族の謎は奥が深そうだ。

 

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