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熊襲の話。


 「熊襲(くまそ)」とは九州中南に在って王権に抵抗した族。筑前国風土記では「球磨囎唹」とも記され、肥後の球磨から大隅の曽於あたりに在った族ともされる。神話においては筑紫島の四面のひとつとして、熊曾国を「建日別」とし、日本書紀には「熊襲は衆類甚(ともがらはなはだ)多く八十梟帥(やそたける)がいた。」と記され、熊襲は単一の族ではなく、多くの種が広域に割拠していたとする。

 記紀に景行天皇の熊襲征討や日本武尊による熊襲建(川上梟帥)の討伐譚があり、熊襲は5世紀頃までに王権に臣従したともされる。弥生中期から古墳期の肥後南部や薩摩北部の川内川流域において、「地下式板石積石室墓」が分布し、その域が熊襲の居住域ともいわれる。また、魏志倭人伝にいう「狗奴(くな)国」を熊襲とする説もある。


 弥生後期の3世紀、肥後で「免田式土器」と呼ばれる特異な祭祀土器が出現する。胴部が算盤の玉の形で、開き気味に長く伸びた頸をもち、胴部の上半面には重弧文や三角紋が施されて、その優美な姿は気品に溢れ、最も秀逸な弥生土器ともいわれる。

 免田式土器は熊襲の中枢ともされる球磨の人吉盆地に派生し、やがて、出土域を阿蘇や八代海沿岸あたりを中心として、薩摩や日向南域にまで広げる。故に、免田式土器は熊襲の至宝ともいわれる。蛮夷の民とされる熊襲が、何故、このような秀逸な土器をつくり得たのであろうか。

 免田式土器は金属器を模倣したものともいわれ、その起源は大陸にあるともいわれる。免田式土器の名称由来の地、球磨郡免田に6世紀初めの「才園古墳」が在る。この古墳から出土した画文帯神獣鏡は43文字の銘文が刻まれ、流金(金メッキ)が施されたものであった。流金鏡の出土は僅か3例で、他は福岡と岐阜に1面づつ。精緻な画文帯神獣鏡はこの鏡のみで、この鏡が後漢後半から三国時代の大陸、会稽周辺で鋳造された秀品であるとされた。会稽とは長江河口域。

 3世紀の長江下流域には孫権が建てた王権「呉」(222年~280年)があった。球磨で免田式土器を造り、流金鏡を伝世させた民とは「呉」に由来する民であったのだろうか。

 魏志倭人伝によると、邪馬台国の南に「狗奴国(くな)」が在り、共に素より和せず、戦さとなって卑弥呼は「魏」に急使を派遣する。これが3世紀の半ば。邪馬台国が九州に在ったとすれば、「呉」に纏わる渡来民が、先住の民と拘わって発展した国が狗奴国であるのかもしれない。「呉」に纏わる狗奴国が、「魏」と通じた邪馬台国と対峙する構図の原初。

 免田式土器は筑後や佐賀平野にまで拡がり、やがて4世紀に忽然と姿を消す。それは狗奴国の末路を見せているのであろうか。そして、肥後南域ではその後、吉備系の特徴的な土器が造られる。記紀の景行天皇による熊襲征伐において、天皇は吉備の氏族を率いて九州に入る。熊襲を討伐したのち、天皇は吉備津彦命の子、「三井根子命」を肥後の葦北国造に任じている。(了)

 

◎狗奴国幻想。阿蘇祖神、草部吉見神の謎

邪馬台国の南に在り、邪馬台国と対峙していた狗奴国。弥生後期の鉄製武器の出土において、火(肥)北部は北部九州域を圧倒して狗奴国の存在を彷彿とさせる。阿蘇や熊本平野、八代海沿岸、人吉盆地などに出土する祭祀土器、免田式土器を奉斎する特異な集団の存在がある。彼らは阿蘇で大量の褐鉄鉱を得て、鉄製武器を集積し、狗奴国を建国したとみえる。狗奴国の生成と邪馬台国との葛藤とは、九州を舞台とした古代日本の曙を彩る大叙事詩。

 

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