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杵島の歌垣。


 有明海の奥、佐賀、白石の干拓平野の奥に杵島山がある。杵島山には「歌垣」の伝承が残る。歌垣とは若い男女が山に集まり、互いに歌を詠みかわして舞踏して遊ぶ。男女は歌舞の間に気に入った相手を見つけ、約束のしるしに男から女に品物を贈る。奈良時代以前からの習俗であるという。

 中国の少数民族、苗族にも歌垣の習俗がある。若い男女が村はずれの林や丘に集まり、歌い交す。気に入った相手がみつかると男から女に指輪やかんざし、花帯などを贈る。苗族は中国南域やタイ、ミャンマーなどに住む少数民族。歴史上、移動を繰り返した民とされる。


 中国の神話によれば、太古、華夏の「黄帝」は、揚子江流域に在った「蚩尤(しゆう)」の族を琢鹿の戦いで滅ぼす。蚩尤の族は流浪の民となり、漢人はこの民を「三苗」と呼んだ。この三苗が苗族の祖であるという。

 苗族は焼畑で陸稲、雑穀、芋を作り、棚田で水稲を作る。餅をつき、赤飯やちまきを作る。納豆を食べ、麹で酒を造る。家の中に祖先を祀って供物を供える。そして、万物に神が宿るとして依代を祀り、五穀豊穣を祈る。当に、日本古来の文化そのもの。行事、祭祀、儀礼など、日本人と苗族はその基層を同じくするという。
 そして、苗族の創世神話は伏羲と女カ(じょか)兄妹の説話であり、伊耶那岐、伊耶那美の国生み神話との関連が指摘される。


 三苗の英雄神「蚩尤」は人の身体に牛の頭をもち、額には二本の角があるとされる。太古、北方の漢人に追われた三苗は、大陸南岸から列島へと渡ったのであろうか。
 船は東シナ海から有明海へと入り、湾奥、住ノ江に到る。杵島山の岬をまわると正面に御船山のツインピークスが現れる。その姿は当に、蚩尤の二本の角。

 佐賀を中心とした有明海沿岸に「浮立(ふりゅう)」と呼ばれる伝統芸能がある。なかでも大和町や富士町の「天衝舞浮立」は人気が高い。天衝舞浮立とは大きな月をかたどった天衝(てんつき)を頭上に載せ、鉦、太鼓を打って勇壮に舞い、豊饒を祈る。天衝とは二本の大きな角。中央に日章。
 苗族の女性の民族衣装は、大きな牛の角を模した冠を頭上に載せる。やはり二本の角、中央に日章。祝祭で太鼓を打って舞う姿は、当に、天衝舞浮立。

 浮立は「風流」から転じたといわれる。風流とは豊饒を祈る風の神。佐賀、三養基の「綾部神社」は風神を祀り、収穫期の台風を鎮める社。三苗の英雄神「蚩尤」も風の神であった。蚩尤は琢鹿の野で暴風雨を起こして黄帝と戦う。浮立(風流)とは蚩尤一族の残影ともみえる。

 史記、封禅書では蚩尤は「兵主神」とされ、戦さの神として戦斧、楯、弓矢などを造る。風を支配した蚩尤は「ふいご」によって風をおこし、青銅の武器を造る神であった。蚩尤の民は青銅器を生産している。

 佐賀、大和町の惣座遺跡から剣、矛を刻んだ国内最古級の石製鋳型が出土し、青銅器の生産が弥生前期前半にまで遡ることが明らかになった。そして、吉野ヶ里や鳥栖安永田といった佐賀の弥生前期の遺跡で青銅器鋳型が次々と出土する。太古、佐賀平野は青銅器の一大産地であった。


 韓半島の伝説では蚩尤の族は兵主神の地、山東半島から新羅の曽尸毛犁(そしもり)へ渡る。韓半島の桓檀古記によると、檀君王倹は番韓を蚩尤の末裔、蚩尤男に治めさせたという。
 日本書紀では素盞嗚尊が韓半島の曽尸毛犁に天下る。曽尸毛犁の地は牛頭山、蚩尤の信仰の地。ここで、素盞嗚尊は二本の角をもつ牛頭天王と習合して、子神の五十猛命(いそたける)とともに列島へと渡る。五十猛命は兵主神、射楯大神として祀られる。

 杵島山の東麓、白石に「稲佐神社」が鎮座する。社伝によると天地開闢の頃に地主神として「五十猛命(いそたける)」を祀ったという。そして、傍の「八艘帆ヶ崎(はっすぽ)」には五十猛命の上陸伝承を残す。神代、五十猛命は韓地よりここに着岸したとされる。(了)

 

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