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韓半島南域の倭人。


 古い時代、韓半島南域には列島同根の倭人が在ったとされる。後漢書には「3世紀半ばの狗邪韓国(くやかんこく)は倭の領域である」と記され、韓半島の古史において、初期新羅や加羅(伽耶、任那)など、韓半島南域の国家群は倭人に依る国とされる。

 倭人とは大陸南岸から韓半島南域、そして、列島に跋扈した海人とされ、多くは列島に到り弥生人になったとも。
 古く、百越(ひゃくえつ)と呼ばれる民が、春秋期の大陸南岸に国々を構成した諸族であった。広大な大陸南岸に在って北方の漢人とは言語、文化を異とする種。稲作、断髪、鯨面(入墨)など、倭人との類似が多いとされる。

 東シナ海で黒潮より分かれた対馬海流は、九州西方から対馬海峡を抜け、日本海へと流れる。大陸南岸を発した船団は海流にのり、東シナ海を北上して九州西岸に辿り着く。そして、いくらかの船は、韓半島南岸にも到ったとみえる。古く、韓半島南域に在ったとされる倭人とは、列島に大陸南岸の大規模な水稲耕作を持ちこんだ弥生人同種。


 また、百越は春秋期の江南において、呉(句呉)や越(干越)などの国々を構成する。そして、春秋末期のBC473年、呉は越に滅ぼされ、越はBC300年頃に楚に滅ぼされて、それらの民は海沿いに逃れたとされる。呉越の民は断髪、鯨面の海人とされる。
 後漢の著書、論衡(ろんこう)は「倭は南の呉越に関連する」と述べ、東夷伝などに倭人は「自謂太伯之後。」と記される。太伯とは呉(句呉)の祖とされる人物。呉人は呉服、呉音などにその痕跡をのこし、日本文化の形成に大きな影響を与えたとされる。また、日本海沿岸の「越(えつ、こし)」とは、航海に優れた越人がその故名を遺したものとも。

 そして、ミトコンドリアDNAやY染色体の分析では、弥生渡来人は大陸南岸からの渡来が主体であったとされる。呉(句呉)や越(干越)など、大陸南岸からの民の渡来は幾度にも亙り、いずれも北方の漢人(中華)に蛮とされて追われた種。現在に至る列島における漢人との対抗の歴史は古く、それらに起因するとも思わせる。


 神話において、素戔嗚尊(スサノオ)は新羅の曽尸茂梨(ソシモリ)に天降り、その後、子神の五十猛命と共に列島へと渡る。曽尸茂梨とは半島南域を貫流する洛東江の上流、高霊郡の伽耶山とされる。列島へ降臨した天孫、瓊々杵尊(ににぎ)と同根の神が、半島南域へ天降ったことが、韓半島南域の倭人の存在を投影するとも思わせる。


 のちの時代、神功皇后は筑紫の橿日宮において兵や船を集め、韓半島へ渡海する。そして、新羅を降し、百済、高句麗をも支配下に置く(三韓征伐)。高句麗の好太王碑には「391年に倭が海を渡り百済、加羅、新羅を臣民となした」と刻まれ、韓半島の歴史書、「三国史記」にもその時代、倭国が韓半島に侵攻したことが記されて、4世紀後半の人ともされる神功皇后の三韓征伐を実証する。
 5世紀には「倭の五王」が宋に朝貢し、「倭、新羅、任那、加羅、秦韓、慕韓六国の大将軍号」などの称号を受け、日本書紀には「任那日本府を設置して、百済、高句麗、新羅三国の文化を搬出した」と記される。当に、半島渡来人と呼ばれるものの主体は、韓半島南域の倭人であった。

 神功皇后の三韓征伐や「倭の五王」が韓半島の覇権を求めた意義とは、韓半島南域の民が、列島同根の倭人であったことに他ならない。神功皇后の母は韓半島渡来の倭人、天日矛の裔とされる。(了)

 

(追補)安曇と筑紫の話。

 安曇(あずみ、阿曇)海人は、筑前、阿曇郷を本貫とする海人氏族。博多湾口、志賀島の志賀海神社で海神、綿津見神(ワタツミ)を祭祀する。古く、安曇海人は韓半島に拘わるとされる。綿津見神の「ワタ」は韓語の海「パタ」に由来するとされ、安曇海人は九州北部沿岸と韓半島南岸に在って、対馬海峡、玄界灘を行き来したともみえる。

 日本海沿岸の「越」の中枢、能登を中心に、安曇海人が氏族名や志賀島由来の地名を残している。能登の羽咋郡、志賀の安津見(あづみ)や赤住をはじめ、鹿島、志加浦、鹿磯、鹿波など。そして佐渡の鹿伏や「越」より内陸に遡った信濃の安曇野や麻績など。
 日本海沿岸に「越(えつ、こし)」の故名を残したとされる安曇海人は、航海に優れる大陸南岸の越人に由来するとみえる。古く、百越の倭人の渡来、また、BC300年には楚に滅ぼされた春秋の「越」の民の列島への渡来があったとされる。ともに北方の漢人によって蛮とされ、追われた種。

 そして、安曇氏族の祖神とされる「磯武良(いそたけら)」が「五十猛神(いそたける)」と音を同じくし、同神ともされる。古くは音がすべて。五十猛神は素戔嗚神の子神とされ、ともに新羅の曽尸茂梨(そしもり)に天降り、のちに列島に渡った神。
 磯武良は五十猛神が海洋的な特性を持った神格ともされ、五十猛神は、樹木の種を筑紫から植え、列島に繁殖させる。同時に木で船を造り、海を渡ったとして、造船神、航海神の神格をも持つ。

 また、五十猛神は筑紫の国魂、白日別神として「筑紫神社」に祀られる。五十猛神の故地とされる新羅の曽尸茂梨とは、韓半島南域を貫流する洛東江の上流、高霊郡の「伽耶山(牛頭山)」。
 魏志韓伝によると、古く、辰王の都として「月支国(げっし、つくし)」があり、洛東江流域の地とされる。辰韓は2、3世紀に成立した三韓の一。350年頃、新羅に統合される。
 筑紫の国魂、五十猛神の故地、新羅の曽尸茂梨と月支国(げっし、つくし)が重なることで、筑紫(ちくし、つくし)の語源とも思わせる。

 そして、安曇海人が跋扈した博多湾の中枢、のちの博多津の氏神、櫛田神社の主祭神が「大幡主神」。大幡主神(おおはたぬし)は「越」で怪物退治をした神とされ、佐渡の式内社、大幡神社に祀られる。
 その佐渡の一ノ宮「度津(わたつ)神社」の祭神が五十猛神であった。が、その社名は綿津見神(わたつみ)に纏わるもの。安曇海人が足跡を残した越においても、五十猛神の翳は濃く、綿津見神や博多津の氏神、大幡主神と重なっている。

 安曇海人とは九州北部沿岸と韓半島南岸に在った越人由来の倭人。対馬海峡、玄界灘を行き来して筑紫(月支)を網羅している。
(了)

 

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