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岐志(きし)の話。


 邇邇芸命(ににぎ)が古事記において「天邇岐志国邇岐志天津日高日子番能邇邇芸命」と表記され、「天邇岐志」や「国邇岐志」の名義が興味深い。


 古い時代、糸島、志摩半島の第一の湊が「岐志(きし)」であり、海人往来の地であった。地域の沿岸からは楽浪系漢式土器が大量に出土して、韓半島人が跋扈した痕跡もみせる。これらは3世紀後半に顕著である。(*1)

 韓半島渡来の氏族とされる「吉志(きし)氏」が在る。本来、「吉志、吉士、吉師」は古代朝鮮の首長を意味する称号とも、新羅の官名に基づくともされ、古代の姓(かばね)の一つとされた。吉志を姓とする氏族には難波吉志、三宅吉志などが在り、対外交渉の任に就いたとされる。

 吉師部を統率したという阿部氏族が高句麗からの渡来ともされる。阿部氏の祖は大嘗祭で甲冑をつけ、鉾を持って「吉志舞(きしまい)」を奏した。阿部氏族は九州北部沿岸において安曇氏と拘わり、新宮、津屋崎あたりを本地にしたとも。
 そして、新宮の氏神が「志式(ししき)神社」であった。この社に祀られる志々伎(しじき)明神は長崎県平戸島南端、志々伎山に祀られる山アテ、「志々伎神」とされる謎の航海神であった。西海、西彼杵あたりからの韓半島航路の存在を想起させる。平戸、松浦など西北部沿岸においても、松浦の岸、鬼子(きし)の海人の存在が在った。

 門司にも吉志が在る。ここは周防灘に面して、吉志を流れる櫛毛川の櫛(くし)も吉志の転化とされる。ここは筑紫(ちくし)の吉志が難波へ向かった湊。今は門司の吉志を出港したフェリーは瀬戸内海を航行して、住之江の大阪南港に接岸する。むかしも今も人の流れは変わらない。そして、筑紫(ちくし)の櫛(くし)も気になる。

 摂津、吹田の岸部(きし)は難波吉志氏の本拠。この地の氏神、「吉志部神社」は、社伝によると大和の磯城瑞籬宮(しきみずがき)から神を分霊して祀った祠を始まりとし、吉志と大和の「磯城(しき)」が拘わりをみせる。
 磯城瑞籬宮は崇神天皇の宮であった。崇神天皇は「御真木入日子印恵命(みまきいりひこいにえ)」。韓半島との拘わりをみせる。3世紀から4世紀初めにかけての天皇といわれ、四道将軍の派遣や任那からの朝貢など、わが国の統一王朝としての大和王権の成立に大きな事績をみせている。


 神話において、邇邇芸命(ににぎ)は天照大神の子である天忍穂耳尊と高皇産霊尊(たかみむすび、高御産巣日神)の女(むすめ)である栲幡千千姫命との子とされる。糸島の神奈備、高祖山(たかす)」の高祖神社に祀られる「高磯(たかす)比売神」の存在がある。高祖山(たかす)とは高御産巣日神(たかみむすび、高木神)に纏わる鷹巣山とされ、高磯比売神は栲幡千千姫命と重なる。北部九州の信仰において、天孫以前に地主神、高御産巣日神の存在が在った。(*2)

 古く、弥生前期の糸島あたりを中枢とする支石墓が韓半島由来とされる。それらが天孫以前の韓半島人の存在を示し、それらが、神話において高御産巣日神に投影されたものとも思わせる。

 吉師部を統率したとする阿部氏族が新宮、津屋崎あたりで高御産巣日神の子とされる「少彦名命」を産土神としていた。少彦名命(少日子根)は波の彼方より来訪し、大国主の国造りを援けた神とされる。阿部氏が高句麗からの渡来とされていた。高御産巣日神とは高句麗由来の神であろうか。(*3)

 志摩の岐志海人を通じて、天孫、邇邇芸命(ににぎ)や高皇産霊尊(たかみむすび)の神話と弥生、古墳期における玄界灘沿岸の氏族の様相や考古の実体が重なるのが興味深い。(了)


(*1)岐志海岸の御床松原遺跡は弥生、古墳期の大集落。出土した半両銭や貨泉は紀元前後の大陸の貨幣。古く、海人往来の痕跡をみせる。そして、このあたりは韓半島に由来する弥生前期の支石墓の中枢域でもある。岐志の奥、一の町遺跡では弥生中期の海辺の祭祀殿跡ともされる大型建築物跡が出土、後背の「火山」の邇邇芸命子神、「彦火火出見尊」による名義伝承も興味深い。
(*2)「糸島の高祖山。」参照 
(*3)「津屋崎の阿部氏。」参照

 

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