以前、国内の作家と海外の(インドだったかの)作家が出席していたシンポジウムを聴いたことがあります。
各地を回る日程の中になぜか地元、山形も含まれていて、島田雅彦が来るというので、内容もよく知らずに(確か、水と文学に関してというような…)こうもりさまと出かけていったのですが、その中で、司会者が「母国語は勉強をしなくても身につく」というようなことを口走ったのです。
魔がさしたのでしょうねぇ。
案の定、島田雅彦さんと中沢けいさんに食ってかかられていました。
その前後の経緯を書かずにそこだけ取り出してしまうのは司会者の方に不利で申し訳ない話ですが、いかに語るかを追求している文筆家相手にそれを言っちゃあ…と、聴いているだけの私ですら思ったものです。
そんなことを思い出す1冊。
出世ミミズ
著者:アーサー・ビナード
発行:集英社
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アーサーうんちゃらというのは実はペンネームで、本当は日本人なのじゃないか?と言いたくなるほど、きちんとした、なおかつ、日本語としてこなれた文章です。
それと同時に、最近ではあまりみないけれども、趣きのある言い回しなどもあって、勉強をするというのはこういう結果を生むことなのだと、しみじみ…。
やはり母語といえども、言葉は学んで磨いていくものなのですねぇ。(…と、ここで、我が身を…思うのはやめておきます。)
著者はアメリカはミシガン州出身。
異国の言葉である日本語で、詩をつくり、俳句を詠み、自転車で街を走り回ります。そのうえ、お謡まで。
モルモン教信者たちと間違われるのが(彼は無神論者。)いやで、しばらくヘルメットはかぶっていなかったという話からもわかるように、日本人でないことは確か。
日本の文学を海外に紹介する著者の、詩歌や文学作品に対する造詣は深く(徳富蘆花の作品が起こしになっていたりします。)、母語を他に持つ人だということに驚くばかりですが、読み進めるほどに著者が日本人ではないこともまた強く感じます。
はじめから日本に生まれ育っていたら、それがあることは知っていても、それについて改めて学ぶことは少ないものや、当たり前になりすぎてしまっていることに、著者はどんどん触れていき、そして、それらは著者がすでに身につけていた自国の文化や、日本とは異なる風土で過ごした少年時代、青年時代を土台として積み重ねられ、著者の中で生まれるものの面白さ。
季節の風物や文学にちなむ話題は、エッセイとしてはよくあるものといえると思いますが、その視点と展開が新鮮です。
かといって、辛辣過ぎたりしもないのは、差異を差異として受け容れ、楽しんできた著者の明るさ、清々しさが伝わるからではないかと思います。
読んでいて、ふふふ、と顔が笑ってしまう感じ。
来日したばかりの23歳のアメリカ人青年の、お習字教室で一緒の小学生にランドセルを借りてしょってみている姿なんて、想像しただけで楽しくなります。
日本に住み続け、日本語で作品を発表し続けているということだけでなく、おそらくは少年時代から変り種ではあったのでしょう。
なんといっても、田中絹代の映画を観て来日を決めたらしいですから。
ふと、こういう人と暮らすというのはどういうものかな、と思います。
「アメリカ人なのに、どうして?」と「アメリカ人だ、やっぱり」の間を行ったり来たりで、いらいらしたり、楽しんだりするのでしょうか。
でも、きっともう、そういうことはどうでもいいのかも。
1冊読んだだけでも、そういう気分になりますから。
ちなみにこちらが著者の第1詩集。
詩はほとんど読みませんが、これは気になります。
釣り上げては
著者:アーサー・ビナード
発行:思潮社
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