シュガークイン日録3

吉川宏志のブログです。おもに短歌について書いています。

佐々木実之君の思い出

2013年04月23日 | インポート

佐々木実之君が亡くなって、一年がすぎた。
先日、遺歌集である『日想』(短歌研究社)が送られてきた。

彼は、私より1歳上だが、浪人していたので、大学では同学年だった。
そして、当時スタートしたばかりの京大短歌会に参加するようになる。(京大短歌会は、長い間、中断されていたのである)
もう25年も前のことだ。

あのころの佐々木君は、まあ本当に生意気で(年下の私が言うのも変な感じだが)、歌会で他人の歌をほめることはまったくないと言ってよかった。ちょっとした歌の傷を見つけて、ねちっこい口調でけなす。そのときの声ばかりが思い出されて困る。
とにかく歌の知識は豊富で、何度か彼の下宿に行ったことがあるが、箪笥のなかにまで、古典の本が並んでいたことを思い出す。服はほとんどもたない。ときどき、紺色の和服を、着流しというのか、だらりと来て歌会に現われることもあった。
本を買うために、カボチャばかりを食べているという話を聞いたこともある。
梶原一騎の「空手バカ一代」になぞらえていえば、当時の彼こそ〈短歌バカ〉と言ってもいいだろう。

早春の歌会だったと思うが、彼が準備してきた短歌の詠草集の中に、いやに古くさい歌がある。歌会は無記名で行うので、誰の歌だろうと思いながら、皆、「この歌は現代的じゃないね」などと批判する。
佐々木君に、この歌は誰の? と聞くと、
「佐藤さんだよ」
と言う。
「君たちは佐藤ノリキヨ様の歌がわからないのかい!」
といきなり叫びだす。
それでも我々がポカンとしていると、
「君たちは何も知らないね。佐藤義清といえば、西行法師のことじゃないか。そして今日は、西行法師の命日なんだよ!」
と、いかにも嫌味な調子でのたまうのであった。後で考えると、その日は陰暦二月の望月の夜であったようだ。

この調子であるから、つきあう我々も大変である。
ただ、あのころの学生短歌は、すごくぴりぴりとしたところがあった。
というのは、当時は俵万智さんの『サラダ記念日』がベストセラーになった直後で、つぎのスターは誰か、というのが、かなり大きな話題になっていた時期だったからである。若者が新人賞を取ると、マスコミでも大きく取り上げられる。だから、お互いにライバル心が掻き立てられてしまう。私も、嫉妬深く、心の狭い若者だったから、素直に他人の歌をほめることができなかった。あのとき、つい言い過ぎて傷つけてしまった、そしてそのせいで、あの人は歌をやめてしまったのではないか。そんな苦い記憶もある。
私も佐々木君も、新人賞は取ることはできなかった。ただ、彼が最終候補に上がったときもある。そのときの彼の自慢そうな顔はよく憶えているし、私は「よかったね」も何も言わなかったこともおぼえている。

私は大学を卒業して会社へ就職した。彼は司法試験の勉強をするということで、大学に残った。卒業のとき、「もうちょっと留年しようよ」と、彼は少し寂しそうな声で言った。冗談ではない。
卒業したあと、彼と会う機会は急激に少なくなっていった。やがて彼も、出身の東京へと帰っていった。

亡くなる数年前、一度だけ彼から電話がかかってきたことがあった。歌をしばらく休んだりしていたのだが、最近はよくできている。今度つくった歌はすごくいいんだ、といったことを、立て続けにしゃべっていた。わかった、読むよ。それより、早く歌集を作れよ、と私は言った。「作る」とは言わなかったけれど、作ろうとする意欲は感じられたように思う。

昨年の3月、妻から携帯に電話があり、彼の急な死を知らされた。43歳だったという。
誤嚥による事故死だった。

彼が生きているあいだに出すことができなかった歌集『日想』が手元にある。
真珠色の美しい一冊だ。

  ・腕時計を見る癖が出来真夜中の湯舟の中で左手を見る

高校時代の歌。さすがに初々しい一首だ。彼の一生がすべて入っている歌集なので、こんなに若いころの歌から晩年の作までが含まれている。

  ・俺よりもお前は随分撫で肩だなと風呂を上がればまた父の言ふ

  ・本家とは大き仏壇にいつまでも線香の灰の倒れぬところ

  ・女とはかかるものにて妹が晴着脱ぐとてまたおほさわぎ

  ・秋の夜の闇の深さを冴えしめて摩訶曼珠沙華蘂を伸ばせり

  ・夕立を避くる書店にひとなつの課題図書山をなして売らるる

  ・年表にひとつ戦争をつけくはへ沙漠に乾きやすからむ死は

  ・呼べば来るエレベーターの素直さは我に欠けたる いな失へる

  ・こほろぎは産卵管を土に刺す大地といへるやはらかきもの

  ・この帽子我がものなれど父死なば父の形見として被らうか

  ・戦友の胃の腑のなかに収まりて帰り来たれる英霊もあり

  ・海軍に覚えしといふ早食ひの病院食は前掛け汚す

  ・訶梨帝母初めて石榴を食ひし日のごとく晴れたる秋の空あり

  ・鶺鴒は濡るる石打ついつまでも我らに白き胸見せながら



引用しはじめると、いくつでも好きな歌が見つかる。
ひねくれた男だったな、と思うのだが、意外に歌はリズムがやわらかく、素直な良さがある。あるいはそれが彼の本性だったのかもしれない。
海軍出身の父が、彼にとってはあるいは大きな抑圧だったのかもしれない。父を尊敬し、その父に認められたいという思いが、しばしば歌から伝わってくるのだ。
父を通して、彼は靖国神社への関心を深めていたが、それでも厳しく戦争を批判する眼ももっていた。単純に英霊を讃えているわけではなかった。

  ・亡き兄は嫡男残れる吾はスペアにてスペアタイヤはやや細くある

この歌を見たときは、ちょっと目頭が熱くなってしまった。
彼の兄も早くに亡くなったのだが、彼にとっては兄こそが父の正当な跡継ぎであり、次男である自分はそのスペアなのだ、という意識があったのである。下の句は軽く受け流しているが、それでも、この歌に流れているのは、自分は父を継ぐことができない、という悲痛な悔しさであろう。
そんなこと気にしなくていいじゃないか。父は父だし、自分は自分じゃないか。そう言いたいのだが、会津藩の末裔だという彼は、頑なに自分の出自を誇りに思っているところがあった。
血脈を離れて、彼は生きることはできなかった。

  ・クレジットカードとともに仕舞ひたるドナーカードの擦れてゐたるも

こんな歌もあった。このドナーカードは彼の死後に使われ、彼の臓器は、生体移植に提供されることになる。

  ・本当に愛されてゐるかもしれず浅ければ夏の川輝けり

これは、学生のころの歌会に出された歌で、そのときのことは今でもよくおぼえている。
まだ恋人が自分のことを本当に愛してくれているのかわからない、まだみずみずしい関係の中で詠まれた歌なのであろう。
たしかに、浅い川ほどきらきらと光って見えるものだ。青春の輝かしさと、不安にゆらいでいる心が、一首のなかで、鮮やかに息づいている。
この歌は、当時からずっと好きだった。そして、こんな歌を作った佐々木君が羨ましかった。
三条の橋の上などから、鴨川の水面が光っているのを見るとき、私はこの歌をこっそり口ずさんだりするのだ。
















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