青草俳句会

草深昌子主宰の指導する句会でアミュー厚木での句会を主な活動としています。

「青草俳句会」選後に・

2020年01月29日 | 「青草句会」選後に
                     令和元年12月草深昌子選


  しぐるるや市立図書館休館日  佐藤健成

 時雨は俄かに降ってきて驚かされるものである、だが降り続けることはなくあっという間に青空がのぞいたりする。梢に残っている木の葉を散らすような時雨に華やかさを感じることもさびしさを感じることもあるだろう、そうこうするうちに冬は深くなっていくのである。掲句は何か調べものがあって図書館へ出向いたとき、時雨に出会ったのである。休館と知れば無論がっかりするだろう、だが、そのがっかりがそう長くあとを引いたようには思わない。内容の上からも表現の上からも「時雨」が見事に決まっている。この俳句の短さが「しぐるるや」以外の何ものでもないのである。ちなみに、ふと思い出される梅雨の句がある。

  飯(めし)食(く)ひに出づるばうばうたる梅雨の中  石田波郷
ほぼ一か月も降り続く梅雨時の雨である。湿度も高く黴が生じるような梅雨は人の気分にも陰鬱なるものをもたらす。そういう感覚が一句を長くしている。同じ575でありながら俳句はときに長くなったり短かくなったりする。秀句は俳句に詠われている内容にふさわしい韻律をかなでるものである。言い換えれば韻律でもって内容を深めるものが俳句である。


  冬日向ポプラ並木の透けてをり  松井あき子

ポプラは四季折々に頼もしいが、ことに葉っぱを落しきって枯れた樹形のさまは何とも美しい。高々とある木々が、冬日を燦燦と浴びながらまっすぐなポプラ並木となっているさまが一目瞭然である。何より「透けてをり」という文字通り彩飾のない透き通った表現が堂に入っている。


  短日の厨剥いたり刻んだり  大山黎

 冬になると先ず実感されるのが日の暮の早さである。ことに日々欠かせない食事の支度に追われる身にとって、この日暮どきのあわただしさはひとしおである。そんな厨事が、「剥いたり刻んだり」と具体的にリズムよろしく打ち出されている。季節の循環がもたらす微妙な気分を身近なところからぱっと掴み出されて、読者に大いなる共鳴をもたらしてくれるものである。


  黒マスクはた白マスク電車なか  日下しょう子

  マスクは冬の季題。マスクと言えば「白」に決まっていた、そして四角に決まっていた。 ところがいつしかマスクの形がさまざまになったのは花粉症が横溢したころからだろうか。年中見かけるマスクとはなった。その上に今どきは真っ黒の登場である。何だか世情が変わったなと思っていても、なかなかこんな一句にのせることはできない。聞けば黒マスクの男はなかなかのイケメンであったとか。


  アイゼンの一歩一歩に風真向き  森田ちとせ

 「アイゼン」は冬の季語である。なんて偉そうなことは言えない、履いたことも触ったこともない。掲句をもってはじめて冬ならではのものと認識させていただいた。 樏(かんじき)の句なら雪の山野に住む人々の生活用具として多く詠われてきたが、いわばアイゼンは「かねかんじき」という類であろう。金属製の爪がついた登山用具である。氷と化した雪をのぼっていくときは滑らぬようにまさに「一歩一歩」であろう。しかもその上に「風真向き」とくると、吹き飛ばされてはならない。アイゼンには今や、か細い命がかかっているのである。


  山峡に響く三発猟期来る  泉いづ

 狩猟してよい期間は、その種類や地域によって違うであろうが、原則として11月15日から翌年2月15日までとなっている。いづさんはここ厚木も北のなお北の地域に住んでおられる。冬の初めのとある日突然威勢の良い鉄砲音がとどろいたのであろう。三発という音の連続が谺となって、まことに頼もしく力強く感じられる。「狩」という冬の季題の傍題に「猟期」、「猟夫」、「猟犬」などがあるが、さて掲句はいかなる鳥獣の捕獲であろうか。ちなみに去年の晩秋の頃、わが家の周辺に「熊」が出て、ひと月ほど外出もままならぬことがあった、これも異常気象の一つの現れかもしれない。


  シクラメンラッピングして明日を待つ  鈴木一父

 シャレた句である。明日はどんなよき日なのだろう。「ラッピングして」、この中七が素敵である。私はギフトなどにもラッピングにこだわるところがあるのだが、シクラメンの鉢のラッピングといえば真つ新な紙に透けて本当に輝かしいものになるであろう、想像するだけでも楽しい、そして美しい。シクラメンは春の季題であるが、クリスマスや正月あたりに多く出回ってさながら冬の風物になっている。そこで、「明日を待つ」は、あたかも「春を待つ」という趣に感じられるものである。


  短日やわけなく走る下校の子  坂田金太郎

 下校の子というものは何故だか三々五々よく走るものである。 年中そのような光景に出くわしながら、さりとて何も感じないというか見過ごしてしまうものである。 ところが冬の初めころ、俄かに日の暮が早くなったころになって、どういうわけが、「わけなく走る下校の子」がくっきりと認識されたのである。それこそが「短日」が人の心に及ぼす作用であるというほかない。何の作為も持たずして季題の本情をわが身のものとして感じ取ったのである。


  シャンソンの彼の日彼の時室の花  加藤かづ乃枯

  芝の真中に立てり満一歳  上野春香

  応募して梨の礫の師走かな  長谷川美知江

  長靴をはかせてみたき都鳥  湯川桂香

  筆買うて言問橋に年惜しむ  佐藤昌緒

  川は荒れ風に散らばる都鳥  山森小径

  軒つらら睨みて軍鶏の赤ら顔  栗田白雲

  阿夫利嶺に霜の花咲く日和かな  平野翠

  フイールドに歌ふ二人や息白し  石堂光子

  掃除して居間に師走の日差しかな  堀川一枝

  初雪の山を向うに玉葱植う  二村結季

  大山の裾にまつはる冬至の日  松尾まつを

  寄り添うて鴨の三羽や湖深き  森川三花

  菊鉢に氷柱解けゆく山の寺  奥山きよ子

  冬鵙のこゑはいづこぞ子ら遊ぶ  間草蛙

「青草」が、角川『俳句年鑑』に記載されました。

2020年01月07日 | お知らせ
「全国結社・俳誌1年の動向」
青草 主宰=草深昌子  「同」間草蛙  「編」松尾まつを

◇=平成29年2月、草深昌子が創刊。大峯あきらの宇宙性俳句を標榜。自然の中で自然と共に生きる、季節を感受する喜び。                        「年2回刊」
◇=平成31年2月、新春句会並びに「青草」発足10周年の祝い。4月、小田原城にて中央吟行句会開催。

 山と海あらば空ある新酒かな              草深昌子
 かちわりや快音またも空を抜け      松尾まつを 
 ことさらの設へもなく迎盆               間草蛙
 睡蓮の一片ごとに今朝の風              坂田金太郎
 チューリップ時々来るよ犬の鼻            佐藤昌緒
 深く吸ひ静かに吐くや苺の香           菊竹典祥
 知らぬ子に手を握らるる花火の夜    佐藤健成
 ねころんで瀬の音聞くや鮎の宿          柴田博祥
 子かまきり田守の衿に乗つてをり     二村結季

 諸家自選五句          草深昌子
  春寒の汀のここは松林
  今し行く小倉遊亀かも白日傘
  君が墓キリンビールで濡らしけり
  底紅に看板出して鍛冶屋かな
  雲去れば雲来る望の夜なりけり

(角川『俳句年鑑』2020年版所収)

「青草俳句会」選後に・令和元年11月

2020年01月05日 | 「青草句会」選後に

                                                                                                草深昌子選

 


野良猫は葎を笠の時雨かな       栗田白雲

 

「ノラネコワ」ときて、「ムグラヲカサノシグレカナ」と一気に読み下ろす韻律は起伏をつけながらとても心地がいい。

一読してのち、さて中味は何を詠っているのであろうかと思い返せば、野良猫は時雨をしのぐに雑草をかぶりものにしている

よ、というのである。これぞ俳諧である。

冬の初めのころ、急にぱらぱらと降ってくる時雨を、そのスピード感のままに詠いあげて、葎に降りかかる雨の音まで聞こえてくるようである。

猫は葎の中にひそんでいただけであるが、眼差しのやさしさがこう表現せずにおれないのである。

 

 

空模様確かめけふは芭蕉の忌      湯川桂香

 

青草俳句会ではまだ忌日の句が作れるほどに上達していなくて、実はこの「芭蕉忌」が初めての兼題であったように思う。

 折から芭蕉記念館へ吟行したこともあって、深川にまつわる芭蕉忌が多くあったなかで桂香さんは、 掲句の如くなんでもないようなところで芭蕉忌のニュアンスを掬い上げられた。

芭蕉と言えば「奥の細道」であろう。江戸から東北、北陸、岐阜まで、俳句を詠みながら旅をした俳諧師である。

今日の天気はどうだろうと先ずは空模様を見上げたのは作者本人であるが、ふとその瞬時に日々旅にあった芭蕉の心と重なった

のである。

理屈抜きに芭蕉忌の句が出来上がるなんて、その精神の初々しさが何とも羨ましい。

 

 

忘れ物取りに戻るや日短        石堂光子

 

「短日」と言えば浮かびあがってくる句がある。

   物指で背なかくことも日短か    高濱虚子

全く巧いものである。こう詠われてしまうと、ぐうの音も出ない。

ところで掲句もまた、日常ありがちなところを詠って、こういう日の暮の早さにはいたく同情できるものがある。

   短日の気息のままに暮しけり    阿部みどり女

なるほど季節感を素直に肯って暮らすのが一番安らかかも知れない。

かにかく、「短日」という季題は、あの手この手に詠いあげる妙趣がまだまだあるように思われる。

懲りずに挑戦したいものである。

 

 

白菜を裂けば転がるはだか虫      末澤みわ

 

「裸虫」を辞書にあたると、羽や毛のない虫のこと、また特に人間のこと等とある。

ここでは文字通り、羽のない虫のことであろう。

白菜の葉を一枚また一枚剥がしていくと、イモムシだかアオムシだか、つるんとした小さな虫が転がって出たというのである。

ただそれだけのことながら、さっきまで白菜をむさぼっていた虫のいのちがいきなり白日にさらされた感じが哀れである。

無論、この白菜の美事な結球も思われるものである。

 

 

   幾百年生きてまっすぐ杉の冬     平野翠

 

「幾百年生きて」、「生きてまっすぐ」、「まっすぐ杉の」と、言葉を重層的にたたみかけていくところに表現の妙がある、

そして「冬」と止めを刺すのである、あるいは「杉の冬」ともう一度感じ入ってもいいだろう。

神奈川県南足柄にある大雄山最乗寺(道了尊)に吟行の折の句である。 

開基600年というからには杉の樹齢もまた相当のもの、一山これ杉の木という天狗寺であった。

作者の杉の木を仰ぐ視点もどこまでもまっすぐ高く伸びあがっている。

描写ながらに厳しい冬に寄せる心象がどの杉にもこもっているのである。

 

 

濁流に朱き朝日や残る虫        長谷川美知江

 

上五中七は実際に見た光景をそのまま詠いあげられたのであろう、そんな岸辺に
あって、見届けたのはかすかなる命を震わせている「残る虫」であった。

「残る虫」は「すがる虫」でもあって、秋も深くなってかろうじて懸命に鳴いているのであろう。

下五の確かさが、あらためて「濁流に朱き朝日」のすさまじさに還っていくものでる。

強烈なる朝日の赤さがそのまま残る虫への哀惜となっている。

 

 

冬うらら運河をはさみ選手村      古舘千世

 

去年の暮、豊洲市場へ行くと、豊洲市場の裏手の公園から運河をはさんで晴海埠頭は高層ビルの建築ラッシュでクレーンが数えきれないほど伸びあがっていた。

今や、建築物のすべてはオリンピック選手村として仕上がっているのであろう。

冬晴の輝かしさの中にオリンピックへの楽しみがうかがわれて、まこと「冬うらら」である。

 

 

セーターの胸のふくらみマリアかな    冨沢詠司

 

「セーターの胸のふくらみ」までは誰でも言う。

そして女性の誰もが「いやらしいワ」と思う。だが待てよ、じっくりと読まねば、

この句は「マリアかな」と終るのである。つまり胸のよきふくらみは聖母マリアさまだというのである。

帰着するところが見事。

こう詠われていったん釣り上げた眉根を静かにおろさない女性はいないのではないだろうか。

少なくとも私はざっくりと編まれたセーターのぬくもり感に魅了された。

 

家具片し床に小春の日差しかな     日下しょう子

神の旅金剛水は切れ目なく       加藤かづ乃

百段の磴の一歩や今朝の冬       大山黎

リフトより僧侶下り立つ山の秋     奥山きよ子

ハーモニカ吹く人のゐる紅葉山     中澤翔風

時雨忌の街に方角なくしけり      伊藤欣次

隣家もその隣家も石蕗の花       石原虹子

短日や日に三便の市営バス       森田ちとせ

杉落葉朴の落葉や和合下駄       佐藤昌緒

櫨の実の弾け飛び出す白さかな     加藤洋洋

磐梯は晴れて会津の雪時雨       佐藤健成

おしゃべりの遠く聞こゆる暖房車    山森小径

神の留守万燈籠のうす明り       中園子

突風は天狗のあそび冬立つ日      坂田金太郎

夕時雨老眼鏡の曇りたる        松井あき子

冬に入る天狗の鼻の影長し       松尾まつを

くろがねの大下駄供へ落葉かな     東小薗まさ一

水神の肌の真白や冬日和        川井さとみ