青草俳句会

草深昌子主宰の指導する句会でアミュー厚木での句会を主な活動としています。

結社誌「青草」2号(その4)

2017年09月04日 | 結社誌・句会報

 草深昌子句集『金剛』特集

 

特集『金剛』一句鑑賞


 大木あまり

草深昌子さんのことを、私はひそかにマダム!と呼んでいる。それは洋服のセンスが抜群に良くて芦屋のマダムのようだから。
 そのマダムが句集『金剛』を上梓された。写生の昌子と呼ばれるだけあって、作句の修練によって培われた写生眼の確かな句が随所に見られる。格調の高い句集である。
 あれこれ選に迷ったが、独特の視点と遊び心のある二句を鑑賞させていただくことにした。


  
七夕の傘を真つ赤にひらきけり  昌子

 

 

七夕とは、五節句の一つ。天の川の両岸にある牽牛星と織女星が年に一度会う七月七日の夜、星を祭る行事のこと。星祭は子供でも知っている庶民的な行事だが、よく雨が降る。この句は、「傘を真つ赤に開きけり」で雨の七夕の情景を簡潔に表している。傘の色が白や水色では付きすぎだし、趣が無い。「真つ赤に」に艶やかさがあるのだ。シンプルに詠んで鮮烈な印象を与える七夕の句である。

 

  銀蝿を風にはなさぬ若葉かな   昌子

 

強風で動きの取れない銀蝿が、青い葉にしがみつようにじっとしている。それを発見した作者は、対象を凝視することでこのような一句に仕立てた。着眼点の良さもさることながら、軽妙洒脱。物を見てその「物」に語らせつつ作者の遊び心を感じさせる。なんとも「風にはなさぬ」の措辞が艶だ。

                                          

  榎本 享

 

  露けしやかたみに払ふ蜘蛛の糸   昌子

 

 草深い径を誰かと歩いていたのでしょう。仲間の髪にくっ付いている蜘蛛の糸に気づいてつまんであげた。「あら貴方にも」と笑いつつ手が伸びて、肩先の糸を払ってくれる。
 そんな誰にでも経験のある一瞬を「露けし」という季語がしっとり描き出す。
 ささやかな出来事をも心から楽しめる余裕が、昌子俳句の豊かさである。「かたみに」という仮名書きの言葉に、その響きに、人の温もりが感じられる。

 

  夏館ものの盛りは過ぎにけり   昌子

 

 籐椅子も簾も飴色の艶をもつ親しい味わい。ベランダから望む木々の緑も、その枝を吹き渡る風も晩夏の風情。視野に入るものだけでなく、その家の空気も自身の体調さえも、盛を過ぎたという思い。寂しさではなく、全てを肯定し、受容する大らかさなのだろう。
 「夏館」をこんな風に詠んだ作品に初めて出会った。読み手に対する信頼が、省略を利かせた深みのある作品を生み出すのだろう。
 昌子さんは本当の大人である。純な子ども心を持ち続けている稀有な大人である。

                                     

 藤埜まさ志


  小春人ただ道なりに行けと言ふ   昌子

 

吟行にでも出掛けていて途中で道を尋ねたところ道なりに行けば着きますよと教えられたという。解りやすいようだが、芭蕉の実質的な辞世の句とも言われている「この道や行く人なしに秋の暮れ」の句に呼応しているとも思える。俳聖芭蕉の「この道」とは当然俳句の道だが、その言葉に昌子さんは「自分は自然体で道なりに俳句の道を歩むだけです」と応えているかのようだ。それは「外の風物とわれわれ自身をも貫く宇宙のリズムに従え」と説く師大峯あきらに繋がる姿勢なのであろう。小春人とは大峯あきらであり宇宙のリズムそのものなのだ。
 中村草田男の句に「真直ぐ往けと白痴が指しぬ秋の道」ある。白痴とはドストエフスキー的な聖白痴をいうが、その指さす「真直ぐ」は己の信じるところを真直ぐにという己が勝った意味合いが強く、肩肘張っている。ニーチェ的主知的西洋風であり、「道なり」とする昌子さんの東洋的な柔らかい態度とは少し違うように思えて興味深い。
 対象へ注ぐ柔らかく独自の視点と把握、無理のない表現、そうだからこそ溢れんばかりの詩情、「金剛」は昌子俳句のこれまでの見事な到達点である。
 今後「道なり」の昌子俳句の一層の成熟から目が離せない。

                                             

 岸本尚毅


  晩秋や薔薇の疎らに明らかに   昌子


 「疎ら」「明らか」というありきたりな形容無造作に使われている。読者は、晩秋の寂しげな風情をすんなりと感得できる。
 この句集の一つの読みどころは、力まずに使った形容詞の巧みさである。
 たとえば「やはらかになつてきたりし踊の手」の「やはらか」はだんだんこなれて来た踊り手の動きをよく表している。「だんだん」などという野暮な副詞を使わずに、動詞と助詞だけで「なつてきたりし」としたところも巧い。
 「蜂きたり秋の日傘に狂ほしく」の「狂ほしく」も実にピッタリの形容である。「狂ほしく」が生きるためには、上五の「蜂来たり」が無動作であること、また「秋日傘」ではなく「秋の日傘」であることなど、言葉が周到に選ばれていることが必要である。「蜂が来る秋日傘へと狂ほしく」だったら、この句は全然ダメなのである。
 「甘茶仏少しく肥えておはしけり」の「少しく肥えて」も良い。だから「おはしけり」という少し気取った言葉が生きるのである。
 「鰺刺や紙の如くに白く飛び」の「紙の如く」はもちろん巧いが、「白く」を連用形で使ったちころがもっと巧い。「鰺刺の白きが紙の如く飛び」ではイマイチなのだ。
 俳句は技術や巧さより「こころ」や人間性が大切だという声も聞くが、もしかすると、そいう物言いは綺麗事ごとに過ぎないのかも知れない。いわゆる「へたうま」含め、俳句は巧ければ巧いほうがいいと思う。

                                           

 中西夕紀

 

   金剛をいまし日は落つ花衣   昌子

 

金剛とは、奈良県と大阪府の境にある金剛山ことで、金剛山地の主峰であり、標高1125メートルの美しい山だ。花の吉野山から大阪の方を眺めると、ひときは雄々しいのがこの山で、夕日の山容の美しさは格別である。
 草深さんは、毎年大峯あきら先生と山本洋子先生を中心に集まった晨の同人達と、花の時期の吉野山へ登っている。吟行コースは、桜の開花状況や宿によって変るのだが、観光客の歩くコースはなるべく通らないで、畑の中や、細い山道を自由自在に歩き回る。
 そして、そこで生活している人達との会話を楽しみ、時に庭を見せてもらうこともある。私も晨に参加していた数年間この吉野吟行にご一緒させて頂いた。
 草深さんは非常に多作な作者である。句会場に着くと、大学ノートを開き、一行も空けずに小さな字で句を一心に書き続ける。やがて、ノートの開かれたページは余白がなくなり、その中から十句を短冊に書き写されるのである。他の人達はというと、歩き疲れてうたた寝をしていたりするのだが、草深さんだけはいつも黙々と作り続けていたように記憶している。
 俳句にも関東風と関西風がある。関西風ははんなりした風合いで、関西生まれの草深さんの句は、典型的な関西風であり、流麗で、濡れた艶を見るような語感である。


結社誌「青草」2号(その3)

2017年09月04日 | 結社誌・句会報

 草深昌子句集『金剛』特集


『金剛』書評            岩淵喜代子

 

      文体を獲得した作家

 俳句の未来はどうなるかという話題は、絶えず浮上する。しかし云いつくした論を流し器に流し込んでみれば、最後に残るのは写生しかないのである。

 芭蕉の「即刻打座」も虚子の「客観写生」・「花鳥諷詠」にしても、この写生ということばを下敷きにしなければ成り立たない。俳句だけではない、文芸のすべては、この手堅い写生を駆使することこそが基本なのである。

 草深昌子さんの俳句は、まずこの写生力という点で際立つ俳人だとかねがね思っている。

  

  秋風のこの一角は薔薇ばかり

 

  綿虫に障子外してありしかな

 

  対岸の椅子に色ある残り鴨

 

  一束は七八本の芋茎かな

 

  あめんぼう大きく四角張つてをり

 

 一句目(秋風の)は、ゆったりと平らな地形が広がる中に突然薔薇園が現れる。秋風の吹く虚の景から薔薇園を焙り出したような巧みさがある。

 二句目(綿虫に)は誰でも知っているように小さな虫である。人がそれに目を止めるのは、純白の綿を纏ってふわふわ飛んでいる様子が詩情を誘うからだ。

(綿虫)に続く(障子外してありしかな)によって、真白な綿虫がより真白く、小さな綿虫が大きく見えて来て、不思議さを誘うのである。

 三句目(対岸の)もまた淡々と視覚が捉えた景である。対岸という漠とした景に椅子を置いて、さらにその椅子に色がある、と叙述したときに風景の焦点がきちんと定まったのである。そうして椅子と残り鴨に、有るか無きかの響き合いが生まれ、はじめて景が語りはじめるのである。

 4句目(苧殻)は盆の迎え火や送り火のために用意されたもの。買い求めてきた苧殻を眺めながら、これが彼岸のはらからたちの迎え火になるのかと思いながら眺めていたのが感じられる。その想いが、一束が七八本だという極めて沈静な、そして極めて即物的な叙述に置き変った。

 五句目も視覚が捉えた発見である。四角張っているのはその輪郭ではないのである。身体から伸ばした長い四本の足が押さえた足先を点として結んだ空間なのである。句集にはこの作者独特の視覚の発見が随所にある。

                            

  七夕の傘を真つ赤にひらきけり

 

  蝶々の飛んでその辺みどりなる

 

  いつかうに日の衰へぬ梨を剝く

 

さりげなく読み進んでいく中で、ふと意表を突かれて立ち止まるのが一句目である。普通に言えば赤い傘を開いたという叙述なのだが、その赤いという形容詞を動詞的な使い方をしているのだ。そうしてこの作者が詠むと(傘を真つ赤にひらきけり)となる。まるで開くたびに様々な色に変化させられるかの如く。この巧みさは、七夕の季語斡旋からはじまっている。この季語によって、いよいよ傘の赤さが際立つのである。作者の文体と言える表現方法である。二句目の蝶々の飛ぶ先々がみどりだと断定、三句目の梨を剝くにいたる叙述、ことさら変っているようにも見えないのに独特な文体である。

 

  一枚の朴の落葉を預かつて

 

  秋の蟻手のおもてから手のうらへ

 

朴の句は、思わず口元が緩んでくるような面白さがある。冬になると大きな朴の葉が根元に散乱していることがある。そんな朴の一枚が、誰かの手から作者の手に預けられた。ただそれだけのことなのだが、預かった手にある大きな朴の葉がさらにクローズアップされて、置くことも仕舞うことも出来ない戸惑いが(預かって)に発揮されている。その、対象物を拡大して提示させているのは、二句目の蟻にも言える。句集を開きながら、しばしば巧みな作り手だなーと感心するのである。

  蝌蚪の来て蝌蚪の隙間を埋めにけり

  最後になってしまったが、私の愛唱してやまない一句である。小さな生き物を覗き込んで、その生き物の動きを追う。

 静寂な視線で見据える無心な作者がいる。その無心さが見事である。


結社誌「青草」2号(その2)

2017年09月02日 | 結社誌・句会報

  芳草集巻頭 青草集巻頭 秀句集(草深昌子選)

芳草集巻頭   吉田良銈

赤とんぼ鞠を蹴る子に纏ひつつ

秋深し隣の明かりふつと消え

ほどほどで止めると決めて煤払

手袋を口にくはへて小銭出す

初騎や人また馬の息白く

まだ遠い疲れは無いか帰る雁

春よ春行きつ戻りつやつて来る

                     

青草集巻頭   石原虹子

大根を一寸廻して引きにけり

木の葉髪夫は終日拾ひけり

初鴉鎮守の社を飛び立ちぬ

節分の大山靄ふ夜なりけり

一歩づつ踏み入る山の芽吹きかな

菜の花に白き月出て真昼かな

夕桜吹雪きて今日を惜しみけり

                                 

秀句集           草深昌子選

ほどほどに止めると決めて煤払 吉田良銈

作者は九十歳。ご高齢であることを知れば、いっそう説得力のある句である。だが、年末の煤払という厄介ごとに対する構え方は、誰にとってもいたく共鳴されるものであろう。

 『煤逃」をしないで、伝統的にやるべきことはやるという態度が何よりダンディーである。


蕗の薹そばを流るる酒匂川 坂田金太郎

酒匂川(さかわがわ)は丹沢山系の麓を流れる水の美しい川である。蕗の薹の瑞々しさ格別に違いない。当然ながら摘草のあとの一献がたまらない。

 
例会の謡切り上げ年忘 菊竹典祥

 年末のお謡いの例会は早めに切り上げて忘年会になったという。

 何でもないようであって、まことに滋味深い。謡曲の余韻を引いた会は、しみじみとして華やいだものであったに違いない。

木の葉髪夫は終日拾ひけり 石原虹子

 長年連れ添ったご主人さまの今日ある姿は、作者自身の姿にも重なるのであろう。切なくもおかしい木の葉髪は、燻し銀に光っている。

 
秋晴や蜂の来てゐる蜂蜜屋 佐藤昌緒

 蜂蜜屋に蜂が飛んでいるとは、摩訶不思議なる光景ではないか。それこそ秋晴というもののありようを透明感満点に見せてくれるものである。

 

大家族ゐるかのやうに葱刻む 日下しょう子

 あの真っ白な葱の棒を微塵に切りきざむ刻々は無心そのもの。いつしか葱は俎板に溢れんばかりになってしまった。「大家族」は幸せの象徴のようになつかしい。

 

手袋を投げ捨てここが勝負所 佐藤健成

 俳句はリズムが勝負。見得を切ったような一句はまさに決まっている。さて、この勝負はどんな場面であろうか、想像するだに楽しい「手袋」である。

 

岐れ道夏蝶左われは右 狗飼乾惠

 岐れ道にさしかかった、夏蝶は左、私は右を取った。ただそれだけの簡潔なる一句が、余情を生み出して人生的である。命盛んなる夏の蝶々の先にも、人の先にも涼やかに道は開けているのだろう。

 

その他の注目句を、次にあげます。


小正月モヒカン刈りに袴かな 松尾まつを

行く人の顔白白と初氷 栗田白雲

山里は風冷たくて山笑ふ 潮 雪乃

ストーブの音の静かに寒明くる 東小薗まさ一

冴返る駒の響きや奥座敷 鈴木一父

雄を追ふ春の雀の尾のかたち 長田早苗

探梅や絹の道てふ石畳 森田ちとせ

焙じ茶と田舎饅頭長閑かな 黒田珠水

朝日さす角度に春の兆しかな 小川河流

につこりと開く妻の手蕗の薹 中澤翔風

紅梅の散つて赤子のいやいやす 長谷川美知江

木の間よりひとむら見せて冬紅葉 平野 翠

美しき口元にして毛糸編む 川井さとみ

寒晴や霞ヶ関は坂の上 湯川桂香

いつの間に山崩れたり春の雨 大本華女

甘栗の爆ぜて寒晴中華街 藤田若婆

先のことつらつら思ひ柿を剝く 小幡月子

朧月米研ぐ水は温みけり 間 草蛙


結社誌「青草」2号(その1)

2017年09月02日 | 結社誌・句会報

    青草往来 青山抄(2)

青草往来

結社誌「青草」は船出したばかり。

その第二号に、図らずも草深昌子自らの句集『金剛』の特集が組まれることに、いささか躊躇った。でも、今はこれでよかったと感謝しています。

 皆様から寄せていただいた鑑賞文の数々、これは私への激励だけではなく、我らが「青草」会員の一人一人にとりましても、得難く学ばせてもらえるものであることを、確信したからです。

 先日ふと、三木清「人生論ノート」を再読しました。

「死者が蘇りまた生きながらえることを信じないで、伝統を信じることができるであろうか」は、もとより、

 「人生は運命であるように、人生は希望である。運命的な存在である人間にとって生きていることは希望を持っていることである」に、

はっとさせられました。

 だからこそ、俳句という芭蕉の文学を一生懸命に学ぶ価値と喜びがあるということでしょう。

 希望をもって生きる者はいつだって若い、その心意気で、静かにも明るく歩んでいきたいと願っています。

                                                                 草深昌子 


                             

青山抄(2) 草深昌子主宰


花冷を啼いてその鳥緑濃き

松の木に寺を囲うて鳥雲に

一とテント張つて昭和の日なりけり    

緑蔭や人のはだへのやうな幹

方角を新樹に見失ひにけり

木々にうち囲まれてゐて行々子

鳥どちの笛のするどきビールかな

羊蹄の丈を高くし青嵐

短くて太き毛虫を嫌ひけり

さつき降り今降り夏の雨細か

音聞いて鐘としもなくさみだるる

泉殿石の大きく横たはり

蛇を見てその血らしきを見て過ぐる

よこはまは風に涼しく日に暑く

南風のビルの立て込む港かな

サングラスどこにどう目を合はさんか

我に来て我に構はぬ夏鴉

晩涼や八幡さまに池二つ

かの人とかの時ここに滝落つる

 悼 上田知代子様
老鶯のこゑのはるけく逝かれけり