令和元年12月草深昌子選
しぐるるや市立図書館休館日 佐藤健成
時雨は俄かに降ってきて驚かされるものである、だが降り続けることはなくあっという間に青空がのぞいたりする。梢に残っている木の葉を散らすような時雨に華やかさを感じることもさびしさを感じることもあるだろう、そうこうするうちに冬は深くなっていくのである。掲句は何か調べものがあって図書館へ出向いたとき、時雨に出会ったのである。休館と知れば無論がっかりするだろう、だが、そのがっかりがそう長くあとを引いたようには思わない。内容の上からも表現の上からも「時雨」が見事に決まっている。この俳句の短さが「しぐるるや」以外の何ものでもないのである。ちなみに、ふと思い出される梅雨の句がある。
飯(めし)食(く)ひに出づるばうばうたる梅雨の中 石田波郷
ほぼ一か月も降り続く梅雨時の雨である。湿度も高く黴が生じるような梅雨は人の気分にも陰鬱なるものをもたらす。そういう感覚が一句を長くしている。同じ575でありながら俳句はときに長くなったり短かくなったりする。秀句は俳句に詠われている内容にふさわしい韻律をかなでるものである。言い換えれば韻律でもって内容を深めるものが俳句である。
冬日向ポプラ並木の透けてをり 松井あき子
ポプラは四季折々に頼もしいが、ことに葉っぱを落しきって枯れた樹形のさまは何とも美しい。高々とある木々が、冬日を燦燦と浴びながらまっすぐなポプラ並木となっているさまが一目瞭然である。何より「透けてをり」という文字通り彩飾のない透き通った表現が堂に入っている。
短日の厨剥いたり刻んだり 大山黎
冬になると先ず実感されるのが日の暮の早さである。ことに日々欠かせない食事の支度に追われる身にとって、この日暮どきのあわただしさはひとしおである。そんな厨事が、「剥いたり刻んだり」と具体的にリズムよろしく打ち出されている。季節の循環がもたらす微妙な気分を身近なところからぱっと掴み出されて、読者に大いなる共鳴をもたらしてくれるものである。
黒マスクはた白マスク電車なか 日下しょう子
マスクは冬の季題。マスクと言えば「白」に決まっていた、そして四角に決まっていた。 ところがいつしかマスクの形がさまざまになったのは花粉症が横溢したころからだろうか。年中見かけるマスクとはなった。その上に今どきは真っ黒の登場である。何だか世情が変わったなと思っていても、なかなかこんな一句にのせることはできない。聞けば黒マスクの男はなかなかのイケメンであったとか。
アイゼンの一歩一歩に風真向き 森田ちとせ
「アイゼン」は冬の季語である。なんて偉そうなことは言えない、履いたことも触ったこともない。掲句をもってはじめて冬ならではのものと認識させていただいた。 樏(かんじき)の句なら雪の山野に住む人々の生活用具として多く詠われてきたが、いわばアイゼンは「かねかんじき」という類であろう。金属製の爪がついた登山用具である。氷と化した雪をのぼっていくときは滑らぬようにまさに「一歩一歩」であろう。しかもその上に「風真向き」とくると、吹き飛ばされてはならない。アイゼンには今や、か細い命がかかっているのである。
山峡に響く三発猟期来る 泉いづ
狩猟してよい期間は、その種類や地域によって違うであろうが、原則として11月15日から翌年2月15日までとなっている。いづさんはここ厚木も北のなお北の地域に住んでおられる。冬の初めのとある日突然威勢の良い鉄砲音がとどろいたのであろう。三発という音の連続が谺となって、まことに頼もしく力強く感じられる。「狩」という冬の季題の傍題に「猟期」、「猟夫」、「猟犬」などがあるが、さて掲句はいかなる鳥獣の捕獲であろうか。ちなみに去年の晩秋の頃、わが家の周辺に「熊」が出て、ひと月ほど外出もままならぬことがあった、これも異常気象の一つの現れかもしれない。
シクラメンラッピングして明日を待つ 鈴木一父
シャレた句である。明日はどんなよき日なのだろう。「ラッピングして」、この中七が素敵である。私はギフトなどにもラッピングにこだわるところがあるのだが、シクラメンの鉢のラッピングといえば真つ新な紙に透けて本当に輝かしいものになるであろう、想像するだけでも楽しい、そして美しい。シクラメンは春の季題であるが、クリスマスや正月あたりに多く出回ってさながら冬の風物になっている。そこで、「明日を待つ」は、あたかも「春を待つ」という趣に感じられるものである。
短日やわけなく走る下校の子 坂田金太郎
下校の子というものは何故だか三々五々よく走るものである。 年中そのような光景に出くわしながら、さりとて何も感じないというか見過ごしてしまうものである。 ところが冬の初めころ、俄かに日の暮が早くなったころになって、どういうわけが、「わけなく走る下校の子」がくっきりと認識されたのである。それこそが「短日」が人の心に及ぼす作用であるというほかない。何の作為も持たずして季題の本情をわが身のものとして感じ取ったのである。
シャンソンの彼の日彼の時室の花 加藤かづ乃枯
芝の真中に立てり満一歳 上野春香
応募して梨の礫の師走かな 長谷川美知江
長靴をはかせてみたき都鳥 湯川桂香
筆買うて言問橋に年惜しむ 佐藤昌緒
川は荒れ風に散らばる都鳥 山森小径
軒つらら睨みて軍鶏の赤ら顔 栗田白雲
阿夫利嶺に霜の花咲く日和かな 平野翠
フイールドに歌ふ二人や息白し 石堂光子
掃除して居間に師走の日差しかな 堀川一枝
初雪の山を向うに玉葱植う 二村結季
大山の裾にまつはる冬至の日 松尾まつを
寄り添うて鴨の三羽や湖深き 森川三花
菊鉢に氷柱解けゆく山の寺 奥山きよ子
冬鵙のこゑはいづこぞ子ら遊ぶ 間草蛙