青草俳句会

草深昌子主宰の指導する句会でアミュー厚木での句会を主な活動としています。

「青草俳句会」選後に・令和元年11月

2020年01月05日 | 「青草句会」選後に

                                                                                                草深昌子選

 


野良猫は葎を笠の時雨かな       栗田白雲

 

「ノラネコワ」ときて、「ムグラヲカサノシグレカナ」と一気に読み下ろす韻律は起伏をつけながらとても心地がいい。

一読してのち、さて中味は何を詠っているのであろうかと思い返せば、野良猫は時雨をしのぐに雑草をかぶりものにしている

よ、というのである。これぞ俳諧である。

冬の初めのころ、急にぱらぱらと降ってくる時雨を、そのスピード感のままに詠いあげて、葎に降りかかる雨の音まで聞こえてくるようである。

猫は葎の中にひそんでいただけであるが、眼差しのやさしさがこう表現せずにおれないのである。

 

 

空模様確かめけふは芭蕉の忌      湯川桂香

 

青草俳句会ではまだ忌日の句が作れるほどに上達していなくて、実はこの「芭蕉忌」が初めての兼題であったように思う。

 折から芭蕉記念館へ吟行したこともあって、深川にまつわる芭蕉忌が多くあったなかで桂香さんは、 掲句の如くなんでもないようなところで芭蕉忌のニュアンスを掬い上げられた。

芭蕉と言えば「奥の細道」であろう。江戸から東北、北陸、岐阜まで、俳句を詠みながら旅をした俳諧師である。

今日の天気はどうだろうと先ずは空模様を見上げたのは作者本人であるが、ふとその瞬時に日々旅にあった芭蕉の心と重なった

のである。

理屈抜きに芭蕉忌の句が出来上がるなんて、その精神の初々しさが何とも羨ましい。

 

 

忘れ物取りに戻るや日短        石堂光子

 

「短日」と言えば浮かびあがってくる句がある。

   物指で背なかくことも日短か    高濱虚子

全く巧いものである。こう詠われてしまうと、ぐうの音も出ない。

ところで掲句もまた、日常ありがちなところを詠って、こういう日の暮の早さにはいたく同情できるものがある。

   短日の気息のままに暮しけり    阿部みどり女

なるほど季節感を素直に肯って暮らすのが一番安らかかも知れない。

かにかく、「短日」という季題は、あの手この手に詠いあげる妙趣がまだまだあるように思われる。

懲りずに挑戦したいものである。

 

 

白菜を裂けば転がるはだか虫      末澤みわ

 

「裸虫」を辞書にあたると、羽や毛のない虫のこと、また特に人間のこと等とある。

ここでは文字通り、羽のない虫のことであろう。

白菜の葉を一枚また一枚剥がしていくと、イモムシだかアオムシだか、つるんとした小さな虫が転がって出たというのである。

ただそれだけのことながら、さっきまで白菜をむさぼっていた虫のいのちがいきなり白日にさらされた感じが哀れである。

無論、この白菜の美事な結球も思われるものである。

 

 

   幾百年生きてまっすぐ杉の冬     平野翠

 

「幾百年生きて」、「生きてまっすぐ」、「まっすぐ杉の」と、言葉を重層的にたたみかけていくところに表現の妙がある、

そして「冬」と止めを刺すのである、あるいは「杉の冬」ともう一度感じ入ってもいいだろう。

神奈川県南足柄にある大雄山最乗寺(道了尊)に吟行の折の句である。 

開基600年というからには杉の樹齢もまた相当のもの、一山これ杉の木という天狗寺であった。

作者の杉の木を仰ぐ視点もどこまでもまっすぐ高く伸びあがっている。

描写ながらに厳しい冬に寄せる心象がどの杉にもこもっているのである。

 

 

濁流に朱き朝日や残る虫        長谷川美知江

 

上五中七は実際に見た光景をそのまま詠いあげられたのであろう、そんな岸辺に
あって、見届けたのはかすかなる命を震わせている「残る虫」であった。

「残る虫」は「すがる虫」でもあって、秋も深くなってかろうじて懸命に鳴いているのであろう。

下五の確かさが、あらためて「濁流に朱き朝日」のすさまじさに還っていくものでる。

強烈なる朝日の赤さがそのまま残る虫への哀惜となっている。

 

 

冬うらら運河をはさみ選手村      古舘千世

 

去年の暮、豊洲市場へ行くと、豊洲市場の裏手の公園から運河をはさんで晴海埠頭は高層ビルの建築ラッシュでクレーンが数えきれないほど伸びあがっていた。

今や、建築物のすべてはオリンピック選手村として仕上がっているのであろう。

冬晴の輝かしさの中にオリンピックへの楽しみがうかがわれて、まこと「冬うらら」である。

 

 

セーターの胸のふくらみマリアかな    冨沢詠司

 

「セーターの胸のふくらみ」までは誰でも言う。

そして女性の誰もが「いやらしいワ」と思う。だが待てよ、じっくりと読まねば、

この句は「マリアかな」と終るのである。つまり胸のよきふくらみは聖母マリアさまだというのである。

帰着するところが見事。

こう詠われていったん釣り上げた眉根を静かにおろさない女性はいないのではないだろうか。

少なくとも私はざっくりと編まれたセーターのぬくもり感に魅了された。

 

家具片し床に小春の日差しかな     日下しょう子

神の旅金剛水は切れ目なく       加藤かづ乃

百段の磴の一歩や今朝の冬       大山黎

リフトより僧侶下り立つ山の秋     奥山きよ子

ハーモニカ吹く人のゐる紅葉山     中澤翔風

時雨忌の街に方角なくしけり      伊藤欣次

隣家もその隣家も石蕗の花       石原虹子

短日や日に三便の市営バス       森田ちとせ

杉落葉朴の落葉や和合下駄       佐藤昌緒

櫨の実の弾け飛び出す白さかな     加藤洋洋

磐梯は晴れて会津の雪時雨       佐藤健成

おしゃべりの遠く聞こゆる暖房車    山森小径

神の留守万燈籠のうす明り       中園子

突風は天狗のあそび冬立つ日      坂田金太郎

夕時雨老眼鏡の曇りたる        松井あき子

冬に入る天狗の鼻の影長し       松尾まつを

くろがねの大下駄供へ落葉かな     東小薗まさ一

水神の肌の真白や冬日和        川井さとみ

 


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