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雀庵の「常在戦場/67 現代版:中共城の黄昏」

2021-08-13 10:58:30 | 日記
雀庵の「常在戦場/67 現代版:中共城の黄昏」
“シーチン”修一 2.0


【Anne G. of Red Gables/352(2021/8/13/金】「日本人はどこから来たのか」は良く分からないが、小生が今の土地に来たのは4歳の時で、米軍座間キャンプに隣接した高座郡座間町入谷村から引っ越しのトラックの助手席に乗り、移り行く前方の景観に目を奪われていたこと、そして着いた小さな町の新居の玄関に少し鉋屑があったことを覚えている。小生の一番古い記憶だ。それ以前の入谷村での記憶はない。


太古の日本人、あるいは世界の人間は、気付いたときには部族とか集団の中にあり、それ以前はどうだったのかは「多分、こうだったろう」と推測はできても、それ以上のことは分からない。


日本の狩猟採集時代は季節に応じて移動していただろうから、当然、他の部族との縄張り争いはある。同時に部族内での繁殖、近親交配を繰り返すと先天性異常が発生しやすい、危険である、という認識は多くの部族で共有されていっただろうから、部族を越えた嫁や婿のやりとりは普及していったろう。つまり集団は着実に拡大し、やがては数千人、数万人の大部族や国になっていったのだろう。日本では概ね平和的に“進化”したのではないか。


水稲耕作が普及すると定住生活が基本になり、狩猟採集漁労は農閑期の仕事であり遊びであったかもしれない。2000年前あたりの神武東征=国家統一以降は西暦1200年頃からの武士の台頭、戦国時代開始まで、大規模な内戦はなかったようである。つまり天皇を秩序の柱とする政治、統治はそこそこ安定していた。


日本では「城砦都市」というのはない。ぐるりと高くて幅のある石垣を巡らした都市で、朝に開門、夜に閉門、市民以外のよそ者は表向きは居留禁止である。支那の「南京城」は世界最大の城砦都市だった。(城砦、城塞、じょうさい)


<南京城は、中国南京市の城である。1368年に南京で即位した朱元璋(洪武帝)は、国号を「明」とし、首都・南京に21年の歳月と20万人の労働者を動員して城壁に囲まれた城砦都市「南京城」を建設した。南京では居住者の大部分が城壁の内側に住んでいた。


明朝時代の南京城は世界史上で敷地面積最大の都市であり、宮殿の面積だけで1.16平方キロ、皇族が住む皇城は6.53平方キロ、内城の面積は55平方キロ、そして外郭も含めた都市全体の面積は248平方キロと非常に広大であり、唐の長安(面積87.27平方キロ)の2倍以上、清朝時代の北京城(面積60.06平方キロ)の4倍以上の広さを誇っていた>(WIKI)


山手線の内側の面積は63平方キロだから、その4倍もある。15~16キロ四方に相当・・・東京都の「区部」の半分近くで、ぐるっと巡るのに2日がかり。でかいなあ! 長城も気が遠くなるほど大きいが役立ったのかどうか・・・民が苦しめられたことは確かだ。


なぜ朱元璋は南京に巨大な城砦都市を築いたのか? 北方のモンゴル人や満洲人からの侵略を恐れていたこと、長城を突破されたら確実に狙われる北京は避けたい、一方で南部の長江(揚子江)流域は農業が盛んで食糧が十分だったことがあるだろう。


南京城砦の外は穀倉地帯で、多くの外郭城門(30以上)の界隈には市場ができていたが、夕方に閉門された後の城外は追い剥ぎ、強盗などが出没して治安は悪かったろう。北京などで多く見られた“防犯”集合住宅「四合院/しごういん」の超巨大版が南京城と言えるかもしれない。難攻不落の要塞都市・・・


巨大な城砦都市、強大な大国であっても、無情ながら国家の永遠の発展を保障するわけではない。秀吉による「文禄・慶長の役」(1592~1598年)。小生は「西洋列強が支那・朝鮮を使って日本を支配(≒キリスト教化)する野望を潰すための先制的予防戦」と解釈しているが、明朝はこの戦争で財政が傾き始め、50年後の1644年、満洲族の清軍に包囲されて滅亡した。諸行無常の理か。


それから300年後の1937年、日本軍が南京城に迫る12月7日の夜明け直前、蔣介石夫妻は米人パイロットの操縦する大型単葉機で南京を脱出した。8日、南京城は日本軍により包囲され、12日、日本軍は城壁を突破し南京城内に進入、夕刻、蔣介石の参謀、唐生智・首都衛戍軍司令官は全軍に包囲突破を指令すると戦線離脱、13日夕方に南京城陥落、日本軍が占領した(WIKI)。


中国兵は戦闘より本業の略奪、強姦、殺人、火つけに熱心で、督戦隊も逃げたからやりたい放題、戦利品をたっぷり抱えて城門を開き、さっさと逃げる。難攻不落のはずだった城砦都市でも内側から崩れていった面もあるだろう。


それから幾星霜、今は14億の民が巣食う巨大な城砦国家「中共城」がそびえている。『1984年』のG. オーウェルも目を丸くする空前絶後的な巨大ディストピア!


情報統制、思想統制、経済統制、学問統制、宗教統制、移動統制、身分統制、出産統制の一方で、習近平皇帝と共産党への拍手の自由、賞賛の自由、感謝の自由、クチパクの自由、タレコミの自由、さらに敵を罵倒する自由、「世界一の国だ、自分は幸福だ」と思い込む自由は手厚く保護されているので、14億の民は「中共城はこの世の天国、習近平皇帝万歳、中国共産党万歳」と称賛する自由も保障されているのだ。


「ルールを守ってオイシイ生活、この素晴らしさは堕落、腐敗した西側世界の愚者には分かるまいて。ま、そのうち人類愛に溢れた習近平皇帝閣下が愛のムチで矯正してくださるから待つが良い」


○○につける薬も中共にはないから、14億の民はひたすら笛吹き男に従って自滅の道を行く、それが Chinese Way of Life のようで・・・赤色地獄を知っている評論家・石平氏の「公開処刑は古代ローマのサーカス」(聞き手は喜多由浩氏、産経2021/8/10)から。


<――社会全体が貧困にあえぎ、日々の楽しみもない。そんな暮らしの中で、人民たちは、ひたすら毛沢東主席を称え続けた


文化大革命当時の毛沢東が全知全能の“神様以上”の存在だったことはすでに述べました。人民は、そのことに対して疑問をまったく持っていなかったし、批判や悪口なんて想像もつかない、ありえないことでした。


農村の人民公社では毎朝、有線放送のスピーカーからまず、毛沢東を称える歌が流される。それからニュースやお知らせ。もちろん内容は、毛沢東の指導を褒め称えたり、感謝したりすることばかり。


テレビはなく、ラジオさえ、人民公社の大隊の隊長が持っているくらい。人民日報(共産党機関紙)も大隊の本部に来るだけ。とにかく、「共産党の宣伝」以外の情報がまったく入らなかったのです。


――成都などの都市部では「反革命分子」などと決めつけられた人たちの公開処刑が日常的に行われていた


「反革命分子」「階級の敵」などといっても、ほとんどが言いがかりや、取るに足らないことがきっかけです。それに対して、当局が公判大会を開き、無理やり「罪」をデッチ上げるのです。


僕が覚えているのは、公開処刑になったあるおばあさんのこと。成都の中学に通っていたときです。近所でゴミ拾いなどで、かろうじて生活していたおばあさんが処刑された理由は、何と、ダイコンを毛沢東の写真が載っている新聞紙で包んだことでした。


公判大会は、国慶節(建国記念日)、共産党創建の日などの前に行われます。成都ではそんな日に数十人もの人が処刑されました。自分の名前の上に死刑囚を意味する赤で大きなバッテン印をつけられた看板を、首からぶら下げた罪人はトラックの荷台に乗せられ、人民たちが見守る中をゆっくりと進んでゆくのです。


見守る群衆には、恐怖心とともに、異常な興奮が巻き起こっていたように思います。古代ローマ時代の為政者は、民衆をコントロールするすべとして「パンとサーカス(娯楽)」を与えた、と言いますが、中国共産党の公開処刑も、それと同じ効果を狙っていたのではないでしょうか。


つまり、共産党に盾突いたらこうなるぞ、という恐怖心を植え付けるとともに、閉塞した日々の暮らしのストレスを発散させる手段、“ガス抜き”として公開処刑の殺人ショーを行っていた。


国慶節の前には特別な豚肉の配給などもあったので、まさに「パンとサーカス」でした。


――文革中の「悪玉」にされたのは、毛沢東が追い落としをかけた劉少奇(元国家主席)の一派、あるいは国民党の蔣介石(総統)。彼らへの悪罵の投げつけは子供の世界でも


先生の指導のもと、劉少奇を批判するクラス会をやったり、作文を書かされたりしました。子供だからよく分かっていないのだけれど、先生の言うがままに「裏切り者」などと悪口を言ったり、書いたり。


文革で批判された人に向けて手製のパチンコで「階級の敵を撃て」などと、実際に石をぶつけたこともある。今から思えば随分、ひどいことをしたものです>


国家は「富国強兵」でないと長続きしない。今は戦時ではなく平時だから「富国・自衛力」で済んでいるが、いずれにしてもカネ=交易がないと国家は弱体化する。腹が減る、食うので精一杯、これが続くと国民、さらに将兵も国家を見放す。国家は機能不全になって消滅する、そして周辺国に併呑されたり、運が良ければ新しい国家になる・・・ソ連の末期は自由主義国による包囲網でそうなった。


今、習近平・中共への包囲戦は始まったばかりだ。大東亜戦争で世界中の植民地は一掃された。これから本番になる戦いは「中国共産党独裁を一掃して、支那に民主主義ワクチンを注射し、自己責任を伴う自由依存症にする」のが目標になるだろう。世界の勢力均衡、バランス・オブ・パワーを取り戻す包囲戦になる。
 
あれっ? 包囲戦と言えば秀吉の「中国攻め」ってあったなあ。有名な「備中高松城」の水攻め。


<毛利氏の援軍が駆けつける前に、何としても備中高松城を落とさねばならない。秀吉は参謀の黒田官兵衛の進言が、膠着した戦局に変化をもたらす。「水によって苦しめられ城が落ちないのだから、反対に水によって攻めたらよいのではないか―」


この策を受け入れた秀吉は、直ちに水攻めに向けた築堤に着手した。城の近くを流れる足守川の東から全長約3km、高さ約7mの堤防を築き、そこに足守川の水を引き込むことで、備中高松城を水の中に取り残された浮城にしてしまったのだ。援軍に駆け付けた毛利氏側の武将、小早川隆景、吉川元春らは、孤立する備中高松城の状況を前に為す術もなかった>(岡山市)


毛氏開祖の中共城には現代版「中国攻め」、包囲戦=兵糧攻めが効き目があり、実際にソ連は消滅し、今では子分の北朝鮮やキューバはほとんど酸欠状態になっている。自由陣営の結束があれば数年で中共城は飢餓地獄に陥るだろう。現代版の「中共城の黄昏」、同志諸君、それまでは生きていようぜ、夜明けは近い!
目安箱:ishiifam@minos.ocn.ne.jp
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