
本公開は、次のお正月です。
フランス映画際横浜の、最終上映作品。
フォンテーヌ監督と主演ベアールが自ら舞台挨拶に立った、20日のクロージングセレモニー後の上映でした。
とっても素晴らしかった。
こんなにシックで美しい映画だとは、正直、思っていませんでした。
情熱も会話もどんどんなくなっていく、もう若くない夫婦。
すれ違いを感じながらも、修復の糸口さえ見つからない中、妻は夫に他の女性の影を感じ取る。
自分の知らないところで、夫はどんな人間なのか?
とりわけ、他の女性に対して…。
妻は、知りたい、という気持ちから、ナイトクラブで働くマルレーヌに、「ナタリー」という架空の女性を演じさせ、夫に近づかせ、誘惑して欲しいと頼む。
ただし、自分のことは知らせずに。
そして「ナタリー」が語る、妻の知らない夫の顔。
聞きながら、聞きたくないと思いながらも、妻は彼女に会い続け、マルレーヌは妻に、モノローグのように、二人の情事を語り続ける。
「ナタリー」と夫婦の奇妙な三角関係は続く。
そんな日々の中、次第に、妻の内に、長い間置き去りにしてきた、嫉妬や欲望、様々な感情がよみがえってくる。
「ナタリー」を通した夫の息遣いを感じ、「ナタリー」の感じた様々なことを、自分のもののように受け止める。
・・・
静かだけれど、人間の、理性の全然及ばない、心の奥の深い感情に訴えてくる作品だと思いました。
現実に、切実なテーマであるとも思います。
「失われつつある情熱と愛を、どう守るのか。
また、どう取り戻すのか」
愛し合っているのに、壊れてしまう関係もあります。
また、愛自体がさめて行く場合もあります。
私には長期に渡って一緒に暮らした男性という存在がどういうものなのか、まだ分かりませんが、相手に対する関心を失ったら最後、という危機感は、よくわかる気がします。
愛があっても、それに伴う努力なくしては、どんな関係も続きません。
話し合いも、大切ですよね。
映画の中で夫も何度か、
「僕たちには話し合いが足りない・・・だがそれは君も話さないせいだ・・・」
と言います。
しかし、話し合えないほど、繊細な問題というものもある。
たとえば。
新しい、魅力のあるものに人が惹かれるのは、当然です。
妻は、若く美しい女性ゆえ、夫が惹かれるものと確信し、マルレーヌを遣わすのですが、その心理が、とっても切ないと思いました。
女にとって、若い美しさを失うことは、痛みです。
もう自分が失ったものをこそ、夫が求めている、と彼女は思っている。
というのが、夫婦のすれ違いのひとつの要因であることが明らかになります。
それを知るのが怖いけれども、確かめたい。
という密かな悲しみと恐怖をたたえた心理は、とっても切ないです。
けれど一方で、その痛みがまた彼女の魅力に磨きをかけることもあり、概して本人が気づかないのがいいところですが、この妻にもそんなムードがあります。
マルレーヌは、「ナタリー」を作り上げる過程で、そんな妻の魅力に捕らわれ、抜け出ることが出来なくなるほど、はまってしまいます。
それもまた、この作品が描く、一つの愛の形です。
妻を演じたファニー・アルダン。
かつて、今回の夫役ドパルデューと共演した『隣の女』でも、彼と狂おしいまでの恋人同士を演じていたのが、なんだか意味深なキャスティング。
往年は「セクシーな悪女」女優というイメージでしたが、
今回はすっかり、人生の秋を迎えた主婦(現役女医でもあるが)という地味な役どころ。
しかし、あまりにも具体的に語られる、「ナタリー」と夫の生々しい情事に、複雑な感情で聞き入り、ナタリーの息遣いを自分と同化させていくうちに、映画の中でどんどん彼女が若々しく美しくなって、匂うような魅力を漂わせていく、その過程はさすがです。
花にたとえるなら、蘭か百合かという、豪華で重々しい魅力を備えた女優で、わたしは大好き。
あんな女性が育つ、フランスという国は、ほんとに懐深い文化を持っているなあ・・・としみじみ思います。
対して、「ナタリー」、エマニュエル・ベアール。
その華奢さがとっても可憐な印象ながら、剥き出しの感情を的確に鋭く表現する女優で、目が離せません。
今回の映画祭は、代表団長を務める彼女がお目当てで、赴きました。
昨年の、夫を事故で亡くすという痛ましい出来事から、さらに優しさと深みを表情に感じさせるようになった印象…。
最近は、かつての「出る映画全部ファムファタル役」状態から、一歩奥行きを獲得して、例えば、『彼女たちの時間』は、彼女の「お人形的じゃない美しさ」を映し出した映画となりました。
女性として、どんどん、外側にまで湧き出る、内側の美しさを泉のように湛える二人の女優。
これはほんとに見応えがある深い映画。
自分が40代になったら、もう一度観たいなー・・・。
しかし、すらりと引き締まっていながら、凹凸のキレイなベアールさんのボディを見て思いました。
人の何もかもが努力次第…。
40歳になってこの映画を再び観たとして、「あちゃ、そうだった!」とハッとしないように、ボディメイキングには、勤めようと決心しました。
そしてもう一つ、当たり前のようですが、「この人のために、ずうっと努力しよう」というモチベが湧いてくるような、愛する人と結婚しようと思いました。
ベアールさんがインタビューで語った、「わたしの最高傑作は、二人の子供。」を生み出してくれる人は、やはりその時の最愛の人だっただろうなと思いますし。
なんだか気持ちに道しるべが出来たような気がします。
フランス映画際横浜の、最終上映作品。
フォンテーヌ監督と主演ベアールが自ら舞台挨拶に立った、20日のクロージングセレモニー後の上映でした。
とっても素晴らしかった。
こんなにシックで美しい映画だとは、正直、思っていませんでした。
情熱も会話もどんどんなくなっていく、もう若くない夫婦。
すれ違いを感じながらも、修復の糸口さえ見つからない中、妻は夫に他の女性の影を感じ取る。
自分の知らないところで、夫はどんな人間なのか?
とりわけ、他の女性に対して…。
妻は、知りたい、という気持ちから、ナイトクラブで働くマルレーヌに、「ナタリー」という架空の女性を演じさせ、夫に近づかせ、誘惑して欲しいと頼む。
ただし、自分のことは知らせずに。
そして「ナタリー」が語る、妻の知らない夫の顔。
聞きながら、聞きたくないと思いながらも、妻は彼女に会い続け、マルレーヌは妻に、モノローグのように、二人の情事を語り続ける。
「ナタリー」と夫婦の奇妙な三角関係は続く。
そんな日々の中、次第に、妻の内に、長い間置き去りにしてきた、嫉妬や欲望、様々な感情がよみがえってくる。
「ナタリー」を通した夫の息遣いを感じ、「ナタリー」の感じた様々なことを、自分のもののように受け止める。
・・・
静かだけれど、人間の、理性の全然及ばない、心の奥の深い感情に訴えてくる作品だと思いました。
現実に、切実なテーマであるとも思います。
「失われつつある情熱と愛を、どう守るのか。
また、どう取り戻すのか」
愛し合っているのに、壊れてしまう関係もあります。
また、愛自体がさめて行く場合もあります。
私には長期に渡って一緒に暮らした男性という存在がどういうものなのか、まだ分かりませんが、相手に対する関心を失ったら最後、という危機感は、よくわかる気がします。
愛があっても、それに伴う努力なくしては、どんな関係も続きません。
話し合いも、大切ですよね。
映画の中で夫も何度か、
「僕たちには話し合いが足りない・・・だがそれは君も話さないせいだ・・・」
と言います。
しかし、話し合えないほど、繊細な問題というものもある。
たとえば。
新しい、魅力のあるものに人が惹かれるのは、当然です。
妻は、若く美しい女性ゆえ、夫が惹かれるものと確信し、マルレーヌを遣わすのですが、その心理が、とっても切ないと思いました。
女にとって、若い美しさを失うことは、痛みです。
もう自分が失ったものをこそ、夫が求めている、と彼女は思っている。
というのが、夫婦のすれ違いのひとつの要因であることが明らかになります。
それを知るのが怖いけれども、確かめたい。
という密かな悲しみと恐怖をたたえた心理は、とっても切ないです。
けれど一方で、その痛みがまた彼女の魅力に磨きをかけることもあり、概して本人が気づかないのがいいところですが、この妻にもそんなムードがあります。
マルレーヌは、「ナタリー」を作り上げる過程で、そんな妻の魅力に捕らわれ、抜け出ることが出来なくなるほど、はまってしまいます。
それもまた、この作品が描く、一つの愛の形です。
妻を演じたファニー・アルダン。
かつて、今回の夫役ドパルデューと共演した『隣の女』でも、彼と狂おしいまでの恋人同士を演じていたのが、なんだか意味深なキャスティング。
往年は「セクシーな悪女」女優というイメージでしたが、
今回はすっかり、人生の秋を迎えた主婦(現役女医でもあるが)という地味な役どころ。
しかし、あまりにも具体的に語られる、「ナタリー」と夫の生々しい情事に、複雑な感情で聞き入り、ナタリーの息遣いを自分と同化させていくうちに、映画の中でどんどん彼女が若々しく美しくなって、匂うような魅力を漂わせていく、その過程はさすがです。
花にたとえるなら、蘭か百合かという、豪華で重々しい魅力を備えた女優で、わたしは大好き。
あんな女性が育つ、フランスという国は、ほんとに懐深い文化を持っているなあ・・・としみじみ思います。
対して、「ナタリー」、エマニュエル・ベアール。
その華奢さがとっても可憐な印象ながら、剥き出しの感情を的確に鋭く表現する女優で、目が離せません。
今回の映画祭は、代表団長を務める彼女がお目当てで、赴きました。
昨年の、夫を事故で亡くすという痛ましい出来事から、さらに優しさと深みを表情に感じさせるようになった印象…。
最近は、かつての「出る映画全部ファムファタル役」状態から、一歩奥行きを獲得して、例えば、『彼女たちの時間』は、彼女の「お人形的じゃない美しさ」を映し出した映画となりました。
女性として、どんどん、外側にまで湧き出る、内側の美しさを泉のように湛える二人の女優。
これはほんとに見応えがある深い映画。
自分が40代になったら、もう一度観たいなー・・・。
しかし、すらりと引き締まっていながら、凹凸のキレイなベアールさんのボディを見て思いました。
人の何もかもが努力次第…。
40歳になってこの映画を再び観たとして、「あちゃ、そうだった!」とハッとしないように、ボディメイキングには、勤めようと決心しました。
そしてもう一つ、当たり前のようですが、「この人のために、ずうっと努力しよう」というモチベが湧いてくるような、愛する人と結婚しようと思いました。
ベアールさんがインタビューで語った、「わたしの最高傑作は、二人の子供。」を生み出してくれる人は、やはりその時の最愛の人だっただろうなと思いますし。
なんだか気持ちに道しるべが出来たような気がします。