不埒な天国 ~Il paradiso irragionevole

道理だけでは進めない世界で、じたばたした生き様を晒すのも一興

I Grandi Bronzi del Battistero

2008-04-22 07:39:28 | アート・文化

フィレンツェのドゥオーモ前に立つ八角形の洗礼堂。
この南の門の扉の上に設置されていた
三体のブロンズ像の修復が完了し
バルジェッロ美術館で展示が始まりました。

フィレンツェの守護聖人である
Givanni Battista(洗礼者ヨハネ)の斬首のシーンを
テーマにしたもので
中央に跪く洗礼者ヨハネ、
向かって右に刀を振り下ろそうとする斬首係り、
そして左に踊りの褒美として洗礼者ヨハネの首を求めたサロメ。

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うつむき加減で両手を胸の前に合わせ、
覚悟を決めかねているような戸惑いと
祈りの表情を浮かべる洗礼者ヨハネ。

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両目を見開いて仕事を全うしようとする斬首係り。

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そして血しぶきを避けるような仕草をしながら
冷酷な表情を浮かべるサロメ。

三者三様の表情が非常に印象的なブロンズ群像です。

修復の結果、ブロンズの一部に
金装飾が施されていたことも確認され
ごく至近距離で鑑賞できるので、
そうした金装飾もじっくり味わえます。

この三体のブロンズ像を手がけたのは
ミケランジェロの追随者である
Vincenzo Danti(ヴィンチェンツォ・ダンティ)で
このブロンズ像をはじめ
彼の作品を一堂に集めた展覧会となっています。

1530年にペルージャに生まれたヴィンチェンツォ・ダンティは
ペルージャではよく知られた一族の出身。
兄弟と一緒に科学や文学といった教育を受け、
やがて建築家であり金細工師であった父親の工房で修行を始め
1548年には金細工組合に登録。
現在もペルージャに残る教皇ユリウス3世(Papa Giulio III)の
巨大なブロンズ像は
彼の金細工師としての才能を遺憾なく発揮した
デコラティブな仕上がりとなっています。
若干22歳でのこの作品は高く評価され、
ローマでの修行を終えた1557年には
フィレンツェのコジモ一世(Cosimo I de' Medici)の
宮廷に招かれています。
ローマでは非常に熱心にミケランジェロの作品を
研究したといわれており
本人にもローマで会っています。

フィレンツェでコジモ一世に仕えていた時代の作品には
ミケランジェロ風の「未完」の作風の
ブロンズ作品を多く残していますが
非常に美しい大理石彫刻もいくつか手がけています。
洗礼者ヨハネの斬首をテーマにしたブロンズ群像は
彼がフィレンツェで作成した
最後の重要なブロンズ作品(1570年作)で
その後1573年には故郷であるペルージャに戻っています。
1576年に46歳でこの世を去るまで
ペルージャの美術大学で指導を続け
建築家、エンジニアとしていくつかの作品も残しています。

この展示が終了したあとは三体のブロンズ像は
フィレンツェのドゥオーモ美術館の所有となり、
洗礼堂の南門ではなく美術館内に設置されることになりそうです。

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I Grandi Bronzi del Battistero
L'arte di Vincenzo Danti Discepolo di Michelangelo
会場:Museo Nazionale del Bargello(バルジェッロ美術館)
会期:2008年4月16日から2008年9月7日まで
開館時間:火曜日から日曜日、第1・3・5月曜日 8:15-18:00
休館日:第2・4月曜日、5月1日
入場料:7,00ユーロ


Calcetto sotto la pioggia

2008-04-21 06:34:00 | 日記・エッセイ・コラム

友人Cのいとこ、もしくは友人Lの彼氏が
7人制のサッカーをこよなく愛していて
自らもトーナメント試合に出場している
という噂は彼女たちから以前から聞いていました。

毎週月曜日に試合は行われていたようですが
4月14日が今シーズン最後の出場試合になるということで
是非見にきてくれということだったので行ってみました。

生憎すごく冷たい雨の降る夜で
観戦しているほうは寒かったのですが
グランド上では蒸気ががるような熱気。

彼の所属するチームが勝ったので
彼はもちろん、友人たちもそれぞれご満悦。

Vincenzo

サッカーの試合って写真に収めるのは難しいね。
何回シャッター切っても思うように撮れませんでした。

試合のあとは4人でピッツァ。
みんなのお気に入り「Pizzaman」へ。
名前は情けないけれど、
本格ナポリピザで食べ応えもあり、おいしいので
フィレンツェに住むナポリ人には大人気で
いつ行っても南の雰囲気がいっぱいの人々で混みあってます。

Pizzaman

私が食べたのはPositano。
燻製モッツァレラがいい味出しているのです。

あぁ、先週の話。


Una breve sosta a Perugia

2008-04-16 21:16:37 | 日記・エッセイ・コラム

Perugia

先週土曜日、雨の降るフィレンツェを出発して
友人とペルージャへ。

友人の甥っ子&姪っ子がイタリアの選挙バカンスを
ペルージャ郊外で過ごしているというので訪ねていってきました。

そう、イタリアは総選挙だったのです。
投票会場には地元の小学校が利用されることが多く
投票会場設立&撤去作業のために
選挙前後はちょっとお休みになるのです。
投票自体は日曜日と月曜日。
それなのに、学校によっては
前の週の木曜日から土日をはさんで翌週の火曜日まで
長い連休になっているところもあって
子供たちはうれしいのかもしれないけど、
なぜそんなに時間かかるのだと大人は疑問に思うわけです。

投票会場の設営&撤去なんて簡単だと思うんですけど。

結局、選挙はベルルスコーニが勝ち、早速熱弁を振るってます。
彼に政治能力があるとは思わないけれど
彼のパフォーマンスと財力そしてマスコミの利用能力は
ずば抜けていて、それが功を奏しているのは間違いありません。
前プローディ政権があまりにも貧相で見栄えがしなかったことで
このベルルスコーニの派手なやり方に
騙された人もいっぱいいると思われます。

選挙バカンスでのんびりする子供たちと
田舎の空気を吸い込んでちょっとリフレッシュしてきました。

ちょうどペルージャではPintricchioの展覧会をやっていて
見たかったのだけど、
さすがに子供も含めて連れがいっぱいいたので
遠慮しておきました。
また近いうちに展覧会を観にペルージャに戻らないと・・・。


La madre di Leonardo era una schiava

2008-04-15 10:26:39 | アート・文化

レオナルド・ダ・ヴィンチの母親が誰であろうと
今となってはあまり大きな問題ではないのですが
500年以上経った今も熱心に続けられている
レオナルド研究の結果新たな事実が判明しました。

Vanni di Niccolo di Ser Vanni
(ヴァンニ・ディ・ニッコロ・ディ・セル・ヴァンニ)は
1400年代のフィレンツェの銀行家で高利貸し業も営んでいました。
自分の最期が近づくと遺言書を書き換え、
Via Ghibellinaにある邸宅を妻であるAgnola(アニョーラ)に残し
彼女が息を引き取るまで彼女の所有とし、
その後は自分の友人で遺言執行人である公証人に譲るとしています。
その公証人がSer Piero da Vinci(セル・ピエロ・ダ・ヴィンチ)で
レオナルドの父親です。
この邸宅とは別にレオナルドの父が銀行家から引き継いだのが
Ser Vanni家の召使でもあったCaterina(カテリーナ)という名の奴隷。
研究対象となっているSer Vanni家の古文書には
Caterina Sclavaという記述が頻繁にありますが、
1451年のSer Vanniの死とともに記述が消え、
フィレンツェでの消息が不明となり
1452年のレオナルドの誕生とともに
Vinci村でその消息が再確認されています。

1400年代のイタリアで奴隷について語ることは
実は道徳に反しているようなところがあったのですが
実際には地元の名士といわれるような一族は召使として雇うために
奴隷を買うこともよく行われていました。
特に東ヨーロッパや中東からやってくる若い女性たちは
イタリアに来ると洗礼を受け洗礼名を持つようになります。
このときにつけられたのは
Maria、Marta、Caterinaなどが多かったようで、
レオナルドの父親のもとにやってきた女性も
Caterinaという洗礼名を持っていました。

1480年頃レオナルドの父親は4回ほど結婚をしており
たくさんの子供を持ったといわれており、
私生児であるレオナルドには血の繋がりのある
21人もの兄弟がいたとも言われています。
レオナルドが私生児でありながら
ヨーロッパを旅する資金にこと欠かなかったのは
彼の才能を見込んだ叔父たちが投資をしたためですが
それが原因で兄弟たちと遺産問題で揉めたりもしたようです。

レオナルドの母親がイタリア人でないという説は
数年前から盛んに話題になっていたのですが
今回の研究結果の発表で彼女が東ヨーロッパ
もしくは中東からやってきたということがほぼ確定されました。
現在は彼女を購入した際の契約書の発見と研究が最優先事項。
そのような文書が見つかれば
実際に彼女がどこの出身なのかが明らかになります。

また別に行われている人類学的研究の結果でも
残されているレオナルドの左手の指の腹の皮膚の再構成の結果
そこから採取された指紋には
明らかにアラブ系の特徴が見られるともいわれています。

彼に天才的な数学力はもしかするとイタリア人のものではなく
アラブ系の遺伝子から来るものなのかもしれません。

Francesco Cianchiが書き上げたばかりの
「La madre di Leonardo era una schiava ? 」
という、そのままじゃん、と突っ込みたくなるようなタイトルの著作に
このテーマに関する研究の結果が発表されています。


Preparazione del Viaggio per Giappone 01

2008-04-14 07:06:35 | 旅行記

ようやく仕事の先行きも見えた感じがして
懸案だった友人との日本観光旅行が実現の方向に。

しかし、4月から飛行機の燃油チャージが
また更に値上がりしてちょっと高くついた感じ。

JALやANAのチケットが比較的安いので
目をつけていたのだけれど、
安い料金カテゴリーの席はもちろん
ちょっと上のカテゴリーも既に完売していて
我々の休暇と合わず断念。
アリタリア便はまだ空席もあって比較的安かったのだけれど
今の今、なぜアリタリアに敢えて乗る必要があるのか
多いに疑問だったし、不安なので却下。
ということでちょっと高くはあるけれど、
エールフランス便で決定。
成田からの夜便が使えるのがいいんだよね、エールフランス便。
チケットは税込みで1144,50ユーロ。
日本円にしたら18万くらいだよねぇ。そう思うと高い。

今回は仕事抜きの完全な休暇。
イタリア人の友人との日本観光ということで
フィレンツェからパリ経由で大阪に入り
京都・奈良・広島を観光してから伊豆に入る予定。
伊豆・箱根・富士五湖などの観光を終えてから
東京に出て成田からパリ経由でフィレンツェ。

また駆け足な日程なので、
皆さんに会えるかどうか不明ですが
どこかですれ違えそうな方は是非声かけてください。(笑)