不埒な天国 ~Il paradiso irragionevole

道理だけでは進めない世界で、じたばたした生き様を晒すのも一興

Il mistero della morte di Caravaggio

2010-01-05 12:59:00 | アート・文化

トスカーナの海岸の街
「ポルト・エルコレ(Porto Ercole)」の名が
これほどまでに世に知られているのは
カラヴァッジョが
その最期を迎えた砂浜があるからかもしれません。
なぞに包まれたカラヴァッジョの最期ですが、
最近になって
このポルト・エルコレの小さな墓地の教会地下から
カラヴァッジョのものらしき遺骨が見つかりました。
専門家が集結して、数多く眠る遺体の中から
39歳前後の男性の遺骨を探し出し
12月22日から遺骨の再編成が行われていました。
おそらくカラヴァッジョのものだろうと思われる遺骨を確定し
これからカラヴァッジョ村に今も暮らす
子孫のDNAとの照合鑑定が行われます。

古文書によれば、
ポルト・エルコレで命尽きたカラヴァッジョは
町の小さな墓地教会で弔われ、
その地に埋葬されたということですが、
実は1956年にこの墓地は破壊されて、
そこにあった遺骨は
すべて別の墓地に移送されていたのです。
それが今回掘り起こされた墓地教会のクリプタになります。
しかし、目印になるようなものもなく
ほかの遺骨とともに埋葬されている状態だったため
まだカラヴァッジョの遺骨らしきものが
発見されたという段階です。

DNA鑑定で確定された暁には、
ずっと謎のままだった本当の死因も明らかになるということで
特に没後400年に当たる
2010年の重大ニュースとして注目されています。

波乱万丈だったカラヴァッジョの生涯ですが
画家としては大成功を収めているものの、
本人は不遇の中でこの世を去ったと伝えられています。

非常に怒りっぽい性質で
賭け事のたびに相手と口論になり、時には暴力沙汰にもなり
投獄された経験も1度や2度ではありません。
1603年には彼の大ファンであり、
最初のバイオグラフィを残した
オランダ人、カレン・ヴァン・マンデル(Carel Van Mander)も
「2週間仕事に専念していたかと思えば
1-2ヶ月は何もせず遊んでばかり。
工房を離れるときは短剣を腰に差し、
お供を一人連れて出て賭け事に没頭。
しかし、その荒っぽい性格から近寄りがたく、
親密になる人はあまりいなかった。」と記されているほど。
実際1606年5月28日カンポ・マルツィオ(Campo Marzio)での
こうした賭け事の最中に、いつものように相手と揉め事になり
掴み合いの喧嘩になり、自分も怪我を負いながら、
果てには剣で相手を刺し殺してしまったのです。
当時の教皇庁の統治下にあって
彼の犯した罪は死刑に匹敵するものであったため
同年夏から彼は逃亡生活を強いられることになります。
彼の第二の故郷であり、
彼の画家としての成功の地でもある
ローマを離れざるを得なくなり、
晩年はナポリ、マルタ、シチリアを転々として暮らします。

ナポリ滞在中には
待ち伏せされ襲撃を受ける事件にも遭っていますが
このときかなり顔面に傷を負っているようで
この肉体的な傷と精神的な痛みを絵画にぶちまけたのが
現在ボルゲーゼ美術館に所蔵されている
「ゴリアテの首をとるダヴィデ」だといわれています。
この作品の中のゴリアテそのものが
顔に怪我を負ったカラヴァッジョの自画像だといわれています。
Davide_caravaggio
またこの作品はシピオーネ・ボルゲーゼ枢機卿
(Cardinale Scipione Borghese)への
特別な感謝の表れでもあるといわれています。
カラヴァッジョは枢機卿のコネにすがって
教皇の赦しが下り、やがてローマに戻る日が来ることを
心待ちにしていたのです。

そんなカラヴァッジョが1610年に
なぜポルト・エルコレにいたのかということには諸説あります。
約15年前までは
ナポリからの船が到着する
アルジェンタリオの港に降り立ったものの、
そこでおそらく人違いから
スペイン警備隊につかまり拘留されてしまったため
彼の荷物は船に残されたままとなり、
2日後に拘留を解かれたものの、
船が彼の荷物を載せて港を出てしまったことに絶望した彼は
狂ったように海岸を走り続け船を追いかけて
ポルト・エルコレに辿り着いたが
そのときには既にマラリア熱に冒されており、
そのまま息を引き取ったと伝えられていました。

しかしここ数年で見つかった新たな文書に従うと
必ずしもそうではなかったのかもしれないといわれています。
なぜなら当時ナポリからローマに向かうのであれば
最寄の港はアルジェンタリオではありえなかったからです。
1610年7月29日にシピオーネ枢機卿が
ナポリの司教から受け取った手紙では
ローマとチヴィタヴェッキアの間にある
小さな港町パロ(Palo)に
カラヴァッジョが到着すると記されているのです。
このときカラヴァッジョは
既に恩赦が出ていることに確信があったのか、
とにかくその足で教皇領内に入ることを試みたものの
実際にはその港町で
教皇庁の警備隊によって拘留されている事も
他の文書から明らかになっています。
そして彼が拘留されている間に
荷物はどこかに行ってしまったらしいのです。
彼はやはりここ(パロ)から徒歩でポルト・エルコレに向かい、
その地で亡くなったと考えられるのです。

約100キロの距離を2-3日で歩いて行くことが
果たして可能だったのかどうかという問題も残りますが
彼がマラリア熱に冒されていたということから
海路ではなく陸路を使ったことは
ほぼ間違いないとされています。

現在あげられている仮説は2つ。
一つ目はカラヴァッジョが自分の荷物を載せた船の
次の停泊港がポルト・エルコレであることを承知していたため
荷物を回収するために
是が非でもかの地に向かわなければならなかったというもの。
二つ目は恩赦が確定しておらず
教皇領内で自分はまだ罪人扱いであることを知り
恩赦が出るまでの期間を教皇領外の
最も近いところでやり過ごそうと思い
当時はナポリ王国の息のかかった
トスカーナの土地を選んだのだというもの。

いずれにしても
まだまだこの最期の数日の謎も解明されていないのです。

カラヴァッジョがこの荷物にひどく固執したのは
その中にシピオーネ枢機卿に奉じる重要な絵画作品を含め
いくつかの彼の作品が含まれていたからだといわれています。
もしそうだとすれば、
放浪を続けた彼の生活の支えとなる全財産であったわけで
彼が必死になったのもよく理解できます。
しかし現存する書類ではナポリに戻ったとする説と
ポルト・エルコレにあったはずだとするものが混在していて
この荷物も最終的にどうなったのか不明。

伝統的に、
彼が息を引き取ったのは1610年7月18日とされています。


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2 コメント

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なんとも興味深い、カラヴァッジョ! (あきこ)
2010-01-06 02:08:05
なんとも興味深い、カラヴァッジョ!

あれかなぁ、ミケランジェロはアスペルガー症候群だったようだけど、カラヴァッジョの怒りっぽさも、何か原因があったのかしら。
なんてことも、分かるのかもしれないねぇ。

実は行ったことのないボルゲーゼ。
行ってみたいけど、今日本に来ちゃってる作品も多いだろうから、またの機会に見に行こう~。
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>あきちゃん (albero4)
2010-01-07 18:12:22
>あきちゃん
遺骨だけで今は何でもわかっちゃったりするんだよね。
本当にカラヴァッジョの遺骨が見つかれば
いろんなことがわかるのかもねぇ。

そうだね、ボルゲーゼ展やっているものね、東京で。
ボルゲーゼ美術館はとても充実しているので、好きよ。
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