不埒な天国 ~Il paradiso irragionevole

道理だけでは進めない世界で、じたばたした生き様を晒すのも一興

La Leda di Michelangelo

2006-07-04 08:33:00 | アート・文化

ウフィツィ美術館やアカデミアなどの陰に隠れて
存在の薄い小さな美術館たち。
ミケランジェロの子孫の所有であった
自宅を公開している「ブオナロッティの家博物館」も
上質な美術館ながらいつもひっそり。
久々に行ってみたらやっぱり面白かった。
でも締め切られている空間は暑苦しい!!

ということで、
ずっと観たかったのに
ぎりぎりまで観に行かなかった展覧会の様子。

ミケランジェロの作品で喪失されてしまった
「レダと白鳥」について。

ローマ略奪からフィレンツェ共和政の樹立にいたる時期に
フェッラーラ公国エステ家のアルフォンソ一世からの依頼で
「レダと白鳥」の製作もしていたミケランジェロ。
依頼主であるアルフォンソ一世も
歴史の渦に巻き込まれていた一方、
共和制に共鳴し擁護者であった
メディチ家を裏切る形となっていたミケランジェロ自身も
1530年にフィレンツェが陥落した際には
身を隠す必要に迫られ、
作品の完成が延期されることに。
1530年10月にようやく完成した大作は
アルフォンソの無知のおかげで駄作と評価され
結局フェッラーラに届けられないまま。
ミケランジェロはこれに非常に憤慨し
1531年ころにフランスに滞在していたとされる
アントニオ・ミニに贈呈。
その後の作品の行方は不明となったまま。
ただし、この作品の複写や模写は数多く残されていて
1500年代半ばには
フランスでエッチングにもなっているおかげで
現代までその失われた作品が存在したことは確かであり
どんな作品であったのかも想像することはできる。

Leda

レダの頭部の習作として残された美しいデッサン自体は
ブオナロッティの家のコレクションとなっている。

Casa Buonarotti
"La Leda di Michelangelo e
la seconda repubblica fiorentina"
Via Ghibellina, 70 -Firenze-
会期: 2006年7月10日まで
開館時間:9:30-14:00
休館日:火曜日
入場料:6,50ユーロ
ブオナロッティの家



神聖ローマ帝国カール5世によりローマが包囲され
当時のローマ教皇だったメディチ家出身のクレメンス7世が
サンタンジェロ城に逃亡して教皇軍敗北。
お膝元であったローマ市内は
暴徒化した皇帝軍の兵士たちにより
市民殺戮が繰り返され
教会や文化財が破壊され、
芸術品が強奪されるなどの被害に。

フランスと神聖ローマ帝国の間でイタリアの所有をめぐり
闘いが続けられていた時代。
もともと神聖ローマ帝国皇帝カール5世は
教皇レオ10世とは良好な関係を結んでいたが
後継者となったクレメンス7世がフランスと結んだため
神聖ローマ帝国の怒りを買い
進軍のきっかけを作ったとされる。
クレメンス7世がフランスと手を組んだ際に
皇帝と同盟関係にあったフェッラーラ公国の
エステ家アルフォンソ一世を
教会から破門してローマに幽閉。
これが皇帝軍のローマ進軍の直接のきっかけ。

神聖ローマ帝国皇帝カール5世は
熱心なカトリック信者であったので
これほどまでの略奪を望んではいなかったとされ
のちに教皇とも和解し
1530年にはボローニャで
教皇クレメンス7世がカール5世に対し戴冠。

こうした一連の世界の歴史の流れの中にあって
1527年5月17日、ローマ略奪の知らせを受けて
一週間も経たないうちに
フィレンツェに第二期共和制樹立。
メディチ家出身のクレメンス7世の
ローマでの状況をうけて
それまでフィレンツェを統治していたメディチ家は
余儀なくフィレンツェを後に。

フィレンツェは皇帝軍による圧迫と
この時期に蔓延したペストにより
30000人の使者を出してはいるものの
共和制実現への力に満ち溢れていた。
このときミケランジェロはフィレンツェ共和国を詠い
建築家として要塞の補強計画の責任者として活躍し
防衛のための一連の要塞設計を図案化している。
(特に市の西側のプラート門の設計図は保存状態もよく
フィレンツェのブオナロッティの家に収蔵されている)
フィレンツェを取り囲む城壁にあった
11の門のそれぞれに関して
防衛策を練り、補強が必要とみていたミケランジェロも
どこをどの程度修正していくかを
試行錯誤している状態であったことが
残された28枚の設計図や習作から読み取れる。
残念ながら、設計したもののほとんどは実現されず、
実現された部分も
現在はその姿をほとんどとどめていない。


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